白紙の心 | weekly
「その、育ちの悪い人に会ったことがないので分からないのだけれど、といいのか悪いのか判断の難しい前置きをして彼女は話を始めた。彼女は両親が営んでいる不動産会社で働いている。家族経営というには立派なその会社は、社員数は50名程度で、東京の都心部の物件のみを扱っている。個人事務所を併設しているような住宅や、サロンのようなブティックのような物件であったり、まあ平たく言ってしまえばお金に困っていないような人が趣味でやっているようなことのための物件を紹介したり管理したりしている。お客さんも急いでいるわけでもなく、お金に困っているわけでもないので、不動産、というものから想定されるような殺伐とした雰囲気とは無縁で、社員の大半も縁故採用であり、屈託なく伸び伸びとしている。平和な資本主義という感じがしており、お金の匂いがするのにギスギスしていないのは素晴らしいことだ。
彼女に会うのは5年ぶりくらいだ。大学院を卒業というかいわゆる単位を取得して退学してからしばらく研究職を転々として日本に戻ってきたのだけれども、そういえばSNSで彼女が不動産の仕事をしているというのを見たなと思い家を探す相談に来た。アメリカにいた時には治安の事を気にしていたので、それでさっきの話になったのだが、育ちの悪い人間、治安を脅かすような出来事に遭遇したことがないのでよく分からない、と。確かに、東京には治安の悪いエリアもあるのだけれども、というか、それも統計でしか知らないのだが、と言いつつ、この辺りにはそもそも自由に出入りできるような出入り口はないし、どこにでも警備員が常駐しているという。お金のある人にとっては、警備員というのは常にいるものであり、あのゲートからこっちの空間には変な人はいない、というのが当たり前なのだという。
格差が是正できるのではないか、という期待は近しい水準の者同士が比較を行えるような距離感で暮らしている場合で、ともに不可視化されてしまっていては比較のしようもなく、格差の認識もまたできないのだろう。格差是正という声が上がるのはそれゆえ、職業や住居の自由度が高まっているということで、行き来があるからこそ起こるものなのだと言える。
実際には行って見たことがないので分からないのだけれども、とまたしても前置きをしてから彼女はマップ上にプロットされた湾岸エリアを指差して言う。ここは新興のエリアで開発も進んでいるので、施設や建物自体は新しいが、治安や民度という点では何と言えばいいのか分からない、と。なぜそう思うのかといえば、湾岸エリアに住んでいる、湾岸エリアがこんなにすごい、と言っている人で目立つ人の中には品が良いとは言えない人がそれなりにいるように見えるからだという。まあ何かを声高に良い悪いと品評してみせること自体が上品とはいい難い、という文化圏もあるので、言わんとすることは分かる。
土地には歴史がある。その周辺に親族が住んでいるので、生まれも育ちもそのエリア、というのは割とよくあることで、私のように海外に行ったり、職を転々としたりするのは根無し草と言われてしまうのでは、と心配してしまう。ただ、そのように土地に根付いた生活をしている人たちは、私のような人間に対して旅人に接するように親切に接してくれる。この地に来たのも何かの縁であり、来たからにはもてなせねばならない、というような精神があるのだという。
そういった精神は確かに、そこが永らく領地であったような一族しか持ち得ないものなのかもしれない。私のような人間は、自分の所有しているもの、という感覚が何においても希薄であり、多くの物事が他人事のように感じられるのである。
ただ、自分の研究領域ということに関して、あなたの研究は過去の科学者たちや思想家の築いてきたものの上に積み上げているものでしょう、と言われてみればその通りであり、そういう点では自分もその大きな礎の一部なのではないかと思えてくる。彼女と話していると、彼女個人というよりは、そうした大きな何かが見え隠れする。
慣習や習俗というものは連綿と受け継がれているもので、自覚の有無に関わらず、一挙手一投足にそれが反映されている。まあ人間の行動の大部分は無意識下で行われており、その習慣はどう身につくかと言えば遺伝と習慣なわけで、意識を高くしてみても、その意識によってコントロールできる範囲などというものはたかが知れている。もちろん、そうした自覚があることは大事だ。認識することから世界は始まるのであり、それなくしては、世界と未分化の混沌の中で移ろいゆく意識の断片から受ける刺激に対して脳が反応しているのに振り回されてしまうことになる。」
東京、という都市が世界でもそれなりに知られていたのはもうだいぶ前のことだ。西暦でいうと1970年くらいから、2030年くらいまで。気候変動の影響で海面の水位が上昇し大部分が水没してしまったので、人々は内陸側に移動した。古地図で言うと、埼玉を最前線として、群馬、長野までセットバックした感じだろうか。ここ500年くらいは気候も安定しており、また都市のようなものができつつある。かつては鉄道網が発達していたが、度重なる嵐と地形の変化によって寸断されてしまい、いまでは海上交通とローカルジェットがメインの移動手段になっている。自動車、というものはその名の通り自動で動く車を指すようになり、運転技術というものはなくなった。事故というものの多くが人為的なミスにより起きていたことを考慮すれば必然的なへんかだったのだろう。人間の注意力は散漫で、複数のことを同時に行うのには向いていない。コンピューティングとロボティクスが未発達の社会というのはどれほど危険だったのだろうか、という話は今でも倫理学者のお気に入りだが、今生きている世代はそもそもそのような社会の存在を知らないのである。自由や安全は戦って手に入れるべきだ、という思想が示唆しているのは、常にそれを脅かす存在としての別の人間がいたからである、というものだ。人間が何かを判断する時、あらゆるものを考慮する、というのはできない相談で、目の前のことに集中してしまうのは避けがたい。それでもなお、公平かつ柔軟な制度を作ろう、と思えばこその今の社会なわけで、つまり、人間が判断を放棄したのは正解だったのだろう。
正確には放棄したと言うよりは、自分で判断をするように選んだ人間は滅んだのだろう。その辺りは史実にも残っておらず、推測になってしまうが。
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キノコです。
あっという間に6月になり、非常事態宣言を経てStay home生活は3ヶ月を超えました。この間に株価は下落した分をほぼ取り戻し、急落時に科学を信じて株を買い向かった人は報われているという感じかと思われます。雇用統計や各種数値は実際に悪いわけですが、それを補うような経済刺激策が大規模に展開されていくという見通しがあるのでしょうか。世の中は確実に荒廃しているようにも見えますが、実際どうなんでしょうか。株式は半年くらいの先行指標とも言われますが、半年後には落ち着いているということなのでしょうか。サッパリ分かりませんね。分からないと言えば、連想買いなのか何なのか、楽器制作の会社を名前だけで買うというのはどういう行動なのでしょうか。結果としてイナゴのように買いに向かった人は儲かったのでしょうか。狂牛病騒動で牛という言葉が目立った結果吉野家の株価が上がったみたいな話もありましたし、本当に合理的、理性的な人は儲けられないのでは、というきもしてきます。投資の神様と言われていた人も大損しているようですし。
あるものの価格は需要と供給で決まる、と言われております。マスクの価格の変化というのを後日経済学者の皆さまがデータから分析してくださると信じておりますが、需要を刺激するののが情報であるということが分かるのではないかと期待してしまいます。まあ後日まで生きていればの話なので、まずはちゃんと生き延びるための予防策を実行していきましょう。
さて、本日は心は白紙か、みたいな話です。
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