鍵|2023-02-05
今回は、うでパスタが書く。
若い頃には「寝るのを忘れて」没頭した本がしばしばあったりした。最近では何にせよ没頭するという体験自体がまずなくなった上、いずれにせよ普通に寝られないので本当に焼きが回ったというか人生のいいことはすべて終わってしまったのだな感じることがしきりだ。
やめよう。
ご存じの方も多いように、最近の私は朝は六時前に起き出して洗濯機を回し、家族の朝食を調えると同時にこどもの弁当を用意している。毎日のようにネットでぼやきを見かけるサラリーマンの大半よりも起床が早いことにはいささか誇りをおぼえるものの、なにしろ夜が寝られないのだから体力的にはやはり正直きびしい生活リズムで、こどもを送り出したらだいたい昼前までまた二度寝するという結局はサラリーマンの羨む生活を俄然続行中だ。にもかかわらず、何かに満たされる思いをすることは、まずない。
そんななか、二度寝ができなくなるほどショックを受けて昼までに一気に読んでしまった本があったのでご紹介しておく。
内容についてはAmazonの紹介がうまくまとまっている。
言うまでもなく、自分の親から精神的・肉体的な虐待を受けていたと考えるひとには簡単にお薦めできない内容だ。
二審の高裁で判決が確定し現在も服役中の「あかり」に取材を重ね、母娘だけが知っていた「牢獄」の有様をあきらかにしていくのは当時共同通信社に勤めていた司法記者の齊藤彩だ。
その視点は加害者となったあかりのそれをとるとはいうものの感情に溺れることなく、残されたLINEメッセージのやりとりや母が娘にしたためさせた「始末書」などからその家に流れていた時間をもういちど読者のまえで再現してみせる。
取材者の抑制された存在感と見え隠れする取材対象や関係者への配慮には記者としての教育と訓練を受けたあとが見られて安心感がある。ひどく抒情的なタイトルが誰にどのような経緯で冠せられたものかは分からないが、本文の抑制的な姿勢との間にはミスマッチをおぼえる。もっと多くのひとの手にとられるべき書籍だ。
本書の大きな特徴は、あかりを代弁するかのような柔らかな文体と、それに挟まれるあかり本人が獄中から書いた書簡の引用文だ。あかりは母親に発見されて侮蔑の言葉を浴びせられるまで密かにペンネームを持って散文の執筆をしていたといい、その手になる文章はあきらかに書き慣れたもので読者を引きこむ力がある。
私自身もあかりが経験した親による過大な期待とそれによって精神的な牢獄に閉じ込められていく過程におぼえがある。もちろん私の両親にあかりの母親ほどの凶暴さはなかったが、私の思春期には十五歳で得た病という強大な支配者があった。また、あかりが生まれ育って果ては凶行の現場となる街は私自身の故郷からすぐ傍だし、なんならあかりが友人たちと親しく交わりつかの間の自由を夢見たキャンパスへ通う路線バスはまさに私の実家の裏を通っているということもあって、こうしたディテールからはいちいち精神的なダメージを受けながら数時間の読書を終えることになった。
しかしほとんどが被害者(母)と加害者(娘)のLINEメッセージと加害者本人の手記・告白によって編まれたノンフィクションは、筆者・齊藤とあかり、「ふたりの著者」のつむぐ文章があまりにこなれているが故、彼女たちの「共犯関係」を意識せずには読めない。果たしてこの作品がノンフィクションとしてどこまで成立しているのかについては読者がよくよく考えるべきことであろうし、そうしてこの母娘の半生を奪った都合二〇年にもおよぶ長大な事件に思いをめぐらせることこそが作品の価値を高めることにもなるのだろう。
他方、それにかかわらずこの本の最終盤には母娘の喪われた半生とは別の大きな主題が描かれている。筆者があかりとの面会を果たしてその心をひらくに至った一言が「控訴審が結審したときに発表された文書を拝見して」であったと冒頭に明かされている通り、おそらく筆者があかりの「物語」を直感したのはそもそもここだったのだ。
果たして第一審で懲役一五年もの重い判決が下され、ひとつの物語が幕を降ろさんとしたとき、もうひとつの物語は、長く不在であった父親の姿とともに読者の前へあらわれる。
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