アンド・オール・ブルシット・フォー・ユー/YouTubeLive配信 vol.009のお知らせ|weekly vol.090
今週は、うでパスタが書く。
そしてこのノートは告知を含んでいる。九段下の図書室ビブリオテーク・ド・キノコから配信するYouTubeLiveの告知だ。
最近もなんだか「はじめに結論を言わないひとたち」がバカにされた経緯があるようなので、いつものように話は長くなるが結論だけは最初にお伝えしておく。
今月のYouTubeLive配信「ビブリオTALK・ド・キノコ」は2021年2月16日(火)20時よりお届けする予定だ。テーマは「ブルシット・ジョブとわたし」。配信は当有料マガジンの購読者限定で、URLはお読みのノートの最後に記載されている。
昨年亡くなった著者のデヴィッド・グレーバーを惜しみつつ、あまりよく知られていない「ブルシット・ジョブ」の本当の意味と、我々がいかに多くのブルシット・ジョブを経験してきたか、そしていまこうして仕事をあまりしたくない気持ちに至ったかについて語り合っていきたい。
さて、また老人がひとり職を追われた。
主な理由は氏の価値観が現代オリンピックの理念にそぐわないこととされているが、氏を追った議論を丁寧に腑分けしていくと、氏に反発しているひとはそもそも氏の落ち度というよりは日本社会に支配的な価値観そのものがワールドワイドなそれに合致していないことを問題にしており、ご多分にもれずこれを氏個人の問題と誤解したり言葉尻の問題として取りなそうとしたひとが順次焼かれる結果となった。
火の扱いを「大人のやり方」に学ぶという時代はもう、とうに終わっており、「火とは何か」「火はなぜ燃えるのか」「燃えるために必要な条件とは何か」といったことから考え、身につける方が間違いがないというのが科学的な教育法(科学教育の方法ではない)だということで、このために必要なことどもを学ぶ機会が義務教育に求められて久しくなる。作法より原理を学ぶことはイノベーションにもつながるという側面もある。
最近は若いひとの失敗をとりあげて「義務教育の敗北」と揶揄するひとも多いが、しかしこういう文脈では今回はむしろ火消しを試みた高齢者たちの所業にこそ過去の教育の敗北または不在が顕著に表れており、氏を批判しつつも「現代は高齢になっても価値観をアップデートしていかなければならず、大変だ」と感想をもらしたひとたちの言葉に教育の勝利が顔をのぞかせている。とはいえこの国には「教育は百年の大計」という言葉があってもその大計がないという事態に変わりはなく、その未来は予断を許さない。
人間、歳をとればどんな問題にも一言もの申すことができるというワイドショー的な個人崇拝は日常的に利害を共にするコミュニティにおいてこそは多少有用なこともあるのだろう。しかしその無邪気で浅薄な言動もいまや多様な社会にブロードキャストされては害の方が大きいと言わざるをえない。ましてやその調子で世界にものを発信されては世界の方も困るだろうし、多くの日本人も困惑してしまうわけで、やはり喧嘩をしに出ていくというわけでもなければもうあらかじめそこにあるコンセンサスについての理解は欠かせないし、その理解が不断にアップデートされなければならないという認識はおそらく完全に正しい。
何差別であろうと内面の自由というのは無制限に保障されなければならないのだが、それは少なくとも口に出された時点でひととの調整を発生し、すなわちそれは社会となり政治となるので、差別的な思想そのものが即座に否定されるものでもないけれど、言った方はディフェンスにかかるコストを引き受けなければならず、何であれ表現することそのものが完全に自由だというコンセンサスは現代には存在しない。
たとえて言えば教養とはドレスコードであり、三つ星レストランには三つ星レストランの教養があって土方には土方の教養がある。
何をやったらいじめられるかはそれぞれだが、どちらの世界にもいじめられないための「教養」がある。ネットでしばしば「何が教養か」が相手構わず論じられるのは結局互いに教養を知らないないからであって、教養とはそもそもその世界の符牒に関する知識なので「どの世界の話か」が前提されないかぎり、この議論ははじめから無効である。いわゆるエスタブリッシュメントの「教養」を借用したアッパーミドルがこれを自分たちの教養だと主張することも多いが、それもその世界だけの話に過ぎない。自分が所属しない世界の教養を身につけようとするのは本来、雑学家への道である。
そしてもうひとつ付け加えれば、この「教養」には相手もこちらと同じ世界の住人だということを見分ける以上の役割はなく、本質的にブルシットだ。しかしあなたがどこへ行っても楽しく暮らしていけるように、というのはあなたの親が望んだことであっても実現する見込みはまずないので、どこかの世界へ入っていくためにはそれなりの教養を、つまり身だしなみを整えなければならず、その店で飯を食いたいとあなたが願うのであればあなたがジャケットを着るかどうかにはまず選択の余地がない。LGBTを断るサンドイッチ屋に風当たりは強いが、三つ星レストランのドレスコードに対する非難はついぞ耳にしたことがない。
そうした意味で、「日本の支配層の価値観は恥ずべきものである」と指弾する(または赤面する)ひとたちは、ただ「欧米と違う」とか「古くさい」とか言っているのではなく、「一〇〇歩譲ってふだんはその格好でも、その店へ行くならこれぐらいの服を着ていくものだ」ということを言っているのだと思う。日本における性差別の状況は今回世界に向けてあきらかになったよりもはるかにレベルの高いものであって、いまさら恥じることでもなければ「バレたことが恥」とか言っている場合でもないからである。
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