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柳美里『JR上野駅公園口』を読んで

仙台に住む私にとって、楽しみにしていることがある。
国立西洋美術館への年に一度の観光だ。

建物の美しさで肺を満たしながら、貴重な絵画一つ一つに対峙する。
そんな素晴らしい体験が、仙台から新幹線で100分の上野駅から降りてすぐの場所で安価にできるというのは、この上ない幸せだ。

そんなふうに能天気に「幸せ」と口走れるのは、他人の幸せを犠牲にしているからだと、『JR上野駅公園口』を読んでふと考えた。

「北国の玄関口」上野に住むホームレスたち

上野はホームレスが多く住む場所だと言う。
あまり詳しくなかったのだが、本書ではこう紹介がある。

北国の玄関口 —、高度経済成長期に、常磐線や東北本線の夜行列車に乗って、出稼ぎや集団就職でやってきた東北の若者たちが、最初に降り立った血が上野駅で、盆暮れに帰郷する時に担げるだけの荷物を担いで記者に乗り込んだのも上野駅だった。

『JR上野駅公園口』12ページ

そして、野宿者を追いやる「山狩り」の前線でもあった。

天皇家の方々が博物館や美術館を観覧する前に行われる特別清掃「山狩り」の旅に、テントを畳まされ、公園の外へ追い出され、日が暮れて元の場所に戻ると、「芝生養成中につき立ち入らないでください」という看板が立てられ、コヤを建てられる場所は狭められていった。

同上

私はこれまでの経験上、上野でホームレスの人たちを見たことがなかった。
いや、見ようとしなかっただけかもしれない。
文化の街、娯楽の街としてのみ存在しているのが上野なのだと思っていた。
しかし実際には、皇族の行幸やオリンピックなどを口実に、多くホームレスという生身の人間を強制的に排除して、「清潔な」街を作っているに過ぎないところだった。

知らないところで進む排除

なぜこのようなことを一つも知らずに美術館を楽しんでしまっていたのだろうか。
これまでの自分の無自覚さを恥じた。
しかも、このようなホームレス排除が天皇行幸やオリンピックという娯楽のために行われているという事実の、あまりのグロテスクさに胸が締め付けられた。

一人ひとりの人生を生きてる。直接を経て集まった人たちなのである。初めからホームレスだった人間なんて1人もいない。
実際、同書の主人公は、東京に一人で出稼ぎとして人生を送った人である。退職後は、地元福島に帰郷するも、同居する孫へこれ以上迷惑をかけたくないからといって東京に再度出てきてホームレスの道を歩むこととなった。

そんな尊厳のある人間への無慈悲な「山狩り」が我々に目がつかないところで日々行われているのだ。


ホームレスのこれから


ホームレスは我々が清潔な世界を維持するために排除され続けている。
こっそり、陰湿な形で行われる。
実は、このような排除の仕方は、何も上野に特殊なものではない。

例えば私の住む仙台でも、排除ベンチというベンチがたくさんある。
高いデザイン性、手すりの設置といったもっともらしい理由をつけたベンチが街に溢れているが、それは建前で、ホームレスがベッド代わりに椅子を使えないようにしているに過ぎない。
普通の人には気づかれない形で、少しずつホームレスは「見えなく」なっていく。

当然、表面的に「見えなく」なったとしても、彼ら/彼女らの生活が再建されるわけではない。
路上に出て暮らさざるを得ないメカニズムを変えないことには、根本的な解決には至らない。

新たな形態として注目される「ホームレス」も増えているという。
路上で暮らさずとも、安心・安全な住居に住むことができないひと、ネットカフェを住居とする人。
このような人たちの尊厳がきちんと守られるために私たちはするべきことがあるし、そのためには現状を知らなければならない。
その第一歩となる本だろうと思う。


最後に。小説という形態で、人間の尊厳が守られていない現代社会を突きつける柳美里さんの仕事には、脱帽せざるを得ない。

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