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辻村深月『盲目的な恋と友情』をよんで
※ネタバレ含みます。
辻村作品を読むのは、4作目だ。『傲慢と善良』を読んで、すっかりファンなってしまった。
これまで読んだ作品に共通するのは、一つの出来事を複数の視点から描き切ることだ。そして、一人一人の感情をこれでもかというほど、深く描き切ることも共通する。この2つの要素が合わさって、辻村作品は完成し、我々を驚かせる。
という話は辻村ファンからよく聞く話で、私も大いに共感する。それを求めて辻村作品をいつも手に取る。
そして私はここで一つ、危ういけれども魅力的な点を挙げる。
それは、登場人物や登場人物たちが織りなす世界が、現実世界に生きる我々とそう遠い位置にないところだ。私たちは、恋人や友人に依存したりする心性を持っているだろう。「いけない」と分かっていても自分を重ねてしまうことがある。誰でも依存してしまう。人は誰かに依存しなくては生きていけない。当たり前のことだ。だからこそ人は恋人を作ったり、会社の同僚と遊んだり、家族との旅行に勤しんだりする。しかし、そこに危うさがある。
本作には、2人が主人公として登場する。周囲から疎まれて育ち、周囲を信じることができなかった留利絵。上流階級の育ちをして、容姿にも恵まれて育った蘭花。育ち方が対照的な2人だが、どちらも異常なほど他者に依存してしまった。留利絵は友人の蘭花に、蘭花は恋人の茂実に。その依存の仕方は、病的ですらある。
茂実の死を経てもなお、この依存の鎖は途切れなかった。留利絵は海外にいってしまう蘭花と獄中で生活を共にしたかった。蘭花は新しい夫を前にしても、茂実との恋愛を強く意識し続けていた。
誰でも異常なまでに依存してしまう可能性がある。そして、依存は解けたと思っても続くこともある。その危険性が辻村作品を通じて浮かび上がってくる。
「小説の中のはなしでしょう」と割り切って読むことのできない、独特な緊張感を体験できる辻村作品。未読の方は是非読んでほしいと思う。