縦と横に繋がる:朝井リョウ『正欲』を読んで
性欲は社会的に「正しいもの」と「正しくないもの」の線引きがなされている。そして「正しくないもの」、社会の中で異常と見做される性癖を持つ人間は、社会から奇異の目で見られる。そして本作は、性欲のうち、「正欲」を持たず自分だけの性欲を抱える人間や、そのような人間を社会正義の名の下に正常化させようと意気込む人間が縦横無尽に描かれている。現代社会で悩みを抱えて生きる人間模様を描き切る朝井氏には毎度驚かされる。もはや朝井氏は現代の夏目漱石といっても過言ではない気がする。夏目漱石の『吾輩は猫である』が、明治初期の個人主義を滑稽に描くことに成功したが、それと同じくらいのインパクトが、朝井氏の小説には、ある。
真の意味で多様性を探る
本作は「多様性」という言葉が一人歩きしている現代社会にメスを入れる作品だ。文字通り「水」に性的興奮を覚える夏月、佐々木佳道、そして大学生の諸橋大也。ただ、本作を読んで勘違いしてならないことは、「多様性」それ自体が否定されているわけではないという点だ。問題なのは、多様性と叫びながら、実質的には多様性を阻む力が働いていていることである。
まず、「多様性を進めよう」とマジョリティ側がパターナリスティックに相手に食い込むことが問題だ。マイノリティから「理解してもらえない」、「理解してもらおうとも思っていない」、「詮索してほしくない」と思っている人がいることを知っておくべきである。悩みを抱える諸橋大也に八重子が干渉しようとするが、それに対し、諸橋は嫌悪感を示し続けた。何年も、何十年もマイノリティとして抑圧され続けてきたのだから、マジョリティを信用できなくて当然だろう。そこに力づくで入り込もうとしてはならない。
また、マジョリティ側の人間をカテゴライズして語ろうとするから、すでに人口に膾炙する文法でしか人間を語れない。諸橋らは決してゲイやレズビアンではなかったが、周囲が勝手にそのように類型化し、共感を示そうとしていた。それはかえって諸橋を塞ぎ込ませたに違いない。
さらに社会に適合するように引き入れようとしたりすることも問題なのである。検察として働く啓喜は、「普通」の社会の論理に理解を示さなず、不登校の息子を「普通の子ども」に引き戻すことに奮闘していた。息子の内面に寄り添おうとはしないままに。それゆえに、息子は父・啓喜からどんどん距離をとるようになる。
検察・啓喜のように自分がマジョリティ側にいて、啓喜のように振る舞ってしまったことのある人は多くいるだろう。マジョリティとして望まれるよう生きることを強制され、私たちは生きてきたからだ。「異性」を愛し、学校には休まず通う。30あたりで結婚する。その価値観を内面化・正当化し、「正欲」を持たない人間を異常者扱いする…。
しかし、我々が生きてきたマジョリティのレールが、本当に「正しい」と言えるのか?まずそこに疑問が付されるべきだろう。そう自覚した上で、「正しい」とされない人々がどのように考えているのか、どのような問題を抱えているのか思いを馳せる。そして誤った関わり方をしていないのか。われわれが忘れていけないのはそういう点ではないだろうか。
横のつながりと縦のつながり
マジョリティ側の態度の変容が求められているのは上述した通りである。
話は変わるが、新たな社会を実現していく上で、比較的肯定的に語られていたものがある。それが「つながり」だ。そのつながりは、縦横両方ありうるが、作中ではどちらも、ついに実現しなかった。
まず、佐々木夫妻と諸橋ら3人のつながりは、「横のつながり」といえるだろう。つまり、社会規範に当てはまらないとされる思いや性癖を持つ人々が集まって、共有し合うというつながり方だ。佐々木夫妻においては、水に興奮を覚えるというものどうしで契約結婚が実現した。そこでは、社会の「結婚」圧力に屈するという消極的な意味合いもあったが、それでも、社会の中で生きていくうえで一定の成果があった。さらに、諸橋、佐々木、矢田部は、水に性的興奮を覚えるという「特殊な」性癖でつながった。誰にも理解されないと思われた性癖を持つ人間がどんどんとつながり始めたのだ。もっとも、矢田部に関しては小児性愛者というとんでもない人間であり、3人のつながりは全員が逮捕されることを通じて解体されることになる。とはいえ、佐々木や諸橋にとってはかけがえのないつながりになり得たことは事実である。
これに対し、つながりは、「縦のつながり」というものもありうる。それは、啓喜が担当した事件の弁護士と万引き犯のシーン、諸橋大也と八重子の問答シーンで見られたように、マジョリティに属する人間が、マイノリティに属する人間と繋がることである。啓喜が担当した万引き犯のような人も生きにくさを感じていたに違いない。しかし、そこで医療従事者や弁護士がその問題に粘り強く取り組んだ。万引きをしたとしても、万引きに至った経緯から分析し、アプローチすることで生きづらさを抱えなくて済むように対策が進んでいるのである。おせっかいと思われても仕方がないが、それでもなお、まだまだ理解されていないと思っている人が打ち明ける意義は大きい。また、諸橋も、ダイバーシティフェスを主催した八重子に散々説得されて、誰かマジョリティ側に心を開いて、繋がることも考えるようになる。しかし、諸橋と八重子はその後あうことは無くなってしまったのだが。とはいえ、諸橋と八重子のつながりは、従来のようにマジョリティとマイノリティが切断されている状態から、一歩前進したものであったと言える。
マジョリティ側にいる人間も、社会に生きる人々がなぜ孤立してしまったり、尊厳を失ったりしてしまうのか、知らなければならない。その時、この縦のつながりが重要になってくる。そのつながりがなければ、いつまで経っても「正欲」が正欲でないことに自覚的になれず、マイノリティを抑圧し続けることとなる。
おわりに
従来のようなマイノリティへの向き合い方を全面的に見直し、横のつながり、縦のつながりを重視する。もっとも、特に「縦のつながり」が抑圧てきなものにならないようにしなければならないものの、重視すべきであると思うのが私の思うところである。
自分の考えを反省するきっかけになった本ではあるが、私がこのように書いてきたものも、まだまだ考えが甘いかもしれない。今現在進められている、問題含みの「ダイバーシティ」と同じ線上にいるかもしれない。
それでも、我々は、真の意味での多様性が実現するよう、常に反省しながらつながり続けなくてはならないと思う。