村上春樹の描く空白 『ドライブ・マイ・カー』
村上春樹の「キモさ」が最近のトレンドだ。
まあそのような話があったから、村上作品のキモさをのぞいてみようと思って、『ドライブ・マイ・カー』が収録された『女のいない男たち』を手に取った。
短編集だから、村上春樹のエッセンスはつまめるだろうと。
記憶の彼方にある『ノルウェイの森』以来、10年ぶりの村上春樹だから、そういう意味でも楽しみだった。
そして、私の心を打ち抜いたのは、キモさという点においてでは全くなく、『ドライブ・マイ・カー』の空白の作り方、そして挑戦的な構成である。
この小説においては、さまざまなことが開かれたままになっている。
たとえば、家福の妻がなぜ高槻と浮気したのかという肝心の点だ。
たしかに、最後には家福に対し、みさきは心なんか惹かれてなかったからこそ高槻と浮気をしたのだと述べている。
しかし、これは感情を爆発させそうになっている家福を、みさきが宥めようとしたから発した言葉であって、みさきの本意ではないかもしれないし、みさき自身の本心であったとしても、家福の妻自身の本意とは限らない。
この小説の語り手は、ほぼ家福と同化している。
家福の意思を反映してか、家福にとって不利になるようなことはあまり描かれていない。
むろん、軽微な飲酒運転をしていたという要素はあるが、妻がそれで浮気をエスカレートさせたとも限らない。
きっと語られていないだけで、家福にも改めるべきことがあったのかもしれない。
セックスの満足は、妻の方が低いという話はよく聞く。
繰り返しになるが、そのようなことは書かれていないのだが、、、、。
このようにしてみると、家福と妻との関係で描かれなかったことの方が多いことがわかるだろう。
たしかに、辻村深月氏の小説のように、1つの出来事を複数人の視点から立体的に浮かび上がらせるといった手法もできる。
しかし、辻村氏のように全てを語らず、それどころかほとんどを空白にしたまま、私たちを置き去りにする。
その空白を埋めようとし、どこか埋まらない浮遊感を味わうのが純文学のたのしみでもあるから、そういう楽しませ方をする村上春樹がいじらしく思えた。
もう一つ印象的だった点がある。
それは、文章全体において、中心的なシーンはあくまでもドライブの時間に限定されている点である。
これはかなり挑戦的でないだろうか。
なぎさとのドライブ中のシーンが重なり、その間に高槻に関する回想が入る。
ドライブを重ねる中で、過去を見る眼差しが少しずつ変化していく。回想もよりクリアになっていく。
かなり腕のあるみさきの運転や、みさきの人柄がきっかけとなり、すこしずつ家福は、オープンカーほどの風通しの良さはなくとも、塞いだ心に風が吹き、解放される。
微細な心情の変化を、たった一つドライブを中心に描き切る力量には感服せざるを得ない。
村上作品は、いい意味で私の期待を裏切ってくれた。
普通に面白いじゃないか、、、。
村上春樹の「キモさ」にはまだ出会えていないが、その「キモさ」が顔を出したとき、私をどう楽しませてくれるのか。残りの短編たちに期待したい。