勝方便の念仏(修行信心分)
『大乗起信論』は馬鳴大士が大乗仏教の深義を顕した論書で大乗通申説とも云われ古くから重要視された仏典である。その内容は大乗仏教の教理を懇切丁寧に明らかに示したもので、前半が仏教哲学、後半が信仰論並びに修行論である。
基本的に聖道門の仏教徒が味わうべき法を中心に説かれているわけであるが、「修行信心分」の最後に突如として浄土門の念仏が「勝方便」として説かれるのである。
現代語訳は以下、
唐突に説かれる念仏に初めは疑問に思うが、これを浄土門から据えれば何ら不可解なことではないことに気づく。現に浄土宗の望月信亨師・熊野宗純師並びに真宗の隈部慈明師といった先徳方は、唐突に説かれるこの「勝方便」の文を浄土門から解釈して疑問を解決しておられる。
それもそのはず浄土門では馬鳴大士は八祖のうちの初祖に当たる祖師だからである。そこで上記お三方の「勝方便」の解釈を拝読してみたい。
『講述大乗起信論』 望月信亨
先ず浄土宗の望月信亨師の『講述大乗起信論』を取り上げる。
※種性地……住不退の位。内凡。
上記の「如来の勝方便を憑んで浄土に往生するのが、不退に登るべき捷径であるという説き方である。而してこれが即ち修行信心分の最後の結文であるから、此論は一面よりいえば、浄土往生を以て仏教の帰結としたものと見るべきである。」から「勝方便」が説かれることが明白である。馬鳴大士の主張が衆生をして阿弥陀仏への念仏に導くこと、つまりは浄土門に帰することこそ『起信論』の真意だとするのである。
『大乗起信論精義』 隈部慈明
次に真宗の隈部慈明師の『大乗起信論精義』を取り上げる。
上記に引いた文から何故念仏が説かれるかが知られる。
それは「宗教の本義は縁にあるのであって、たとい内因のカあるにもせよ外縁のカがなかったならば宗数は遂に起り得ないのである。」からであり、外縁の力とは「如来の勝方便カ」であり、そして始めて信行は成就できるのであるという。
『大乗起信論梗概』 熊野宗純
極めつけは浄土宗の熊野宗純師の『大乗起信論梗概』である。
『大乗起信論』における「勝方便の念仏」は、恰も『観無量寿経』において定善・散善が長々と示された後に突如として念仏の付属が説かれ、善導大師が念仏の付属を以て『観無量寿経』の総結であると決したことに酷似するという。
その『観無量寿経』の文とは、流通分における次の一文である。
現代語訳は、
この『観無量寿経』の一文を浄土教の大成者にして、浄土門の絶対的権威である善導大師は、『観無量寿経疏』において以下のように釈しているのである。
現代語訳は、
『大乗起信論』の帰結
このように『大乗起信論』と『観無量寿経』を比較すれば、どちらも最終的に「念仏」を以てその趣旨を完結させていることが見て取れる。そして先に述べた浄土門の先徳である三人の解釈を窺えば、浄土門から見た『起信論』の帰結は「念仏」にありということが言えるのである。
実は浄土宗の法然上人は『起信論』を『選択本願念仏集』の中で、取り上げているのである。
現代語訳は、
取り上げているとはいえ、あくまでも『起信論』は「付随的に浄土に往生することを説き明かしている教え」として列挙された中において紹介されているので、浄土門の正依の論書ではないが、浄土門の範疇における論書であることは疑いない。
この故に、前述の望月信亨師の「斯様に浄土往生の説が強調してある所から古来浄土諸家に於て此論を珍重したものである。」との言葉にもあったように、浄土門の先徳方は『起信論』を念仏往生の書として扱うのである。