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仏教における信仰者と宗教学者

信仰者タイプと宗教学者タイプ

 知恩寺六十六世の中島観琇大僧正の『凡夫見仏論』の序分は次のような言葉から始まる、

 近来、神経過敏の念仏行者と、理論を先とする宗教学者との間に於て、往々非常に背戻する意見を聞くことがある、それは別時念仏を勤むる人々の中には「念仏三昧会」と称えて、殊更に見仏を目的として勉強する類がある。此の機類の人々は、大概、感激鋭敏の類にして、最も信仰の厚き宿習を有った人々である。若し今日の信者の上に「定機と散機」との区別を立てんとしたならば、定機に属する方の類である、勿論その中には、一種病的なる類が無いとは言えぬ、が併しそれ等は論外として、正統に真仏に接せんとする類である

 中島観琇『凡夫見仏論』一音社 1頁

 中島大僧正は仏教には信仰者(念仏行者など)タイプと宗教学者(仏教学者)タイプがあるとして、大僧正はその内で信仰者タイプを定機にして信仰厚き宿習の人である高い評価をされている。
 大僧正は同書において、この後も宗教学者タイプには言及されず、信仰者タイプ、それも大僧正は浄土宗の方であるから念仏行者について論じておられる。
 これは中島大僧正に従うならば仏教は学問ではなく信仰であるということであり、理屈上のものではないというのであろう。これは私自身も肯うところであり、例えば禅門六祖の慧能大師の行状などを見れば明らかであると思う。

「学問として取り扱う場合」と「信仰や悟りの対象として取り扱う場合」

 浄土宗の山崎弁栄上人に私淑し、念仏三昧を独習したとされる日向美則師なども著書である『暗夜の法灯』で次のように云っている、

 仏教を取り扱う際に二つの分野がある。一つは、学問として取り扱う場合と、もう一つは信仰や悟りの対象として取り扱う場合である。本書は、後者に属する。従って、本書は観念的仏教ではなく、生きた仏教を、できるだけ具体的現実的に表現することに努めた。読者は、仏教を頭で把握するのではなく、本書を通じて仏教のいのちに触れてほしいと念願する。本書には、仏陀のいのちの脈動が感じられる筈である。
 仏教を研究するのに又、二つの分野がある。一つは、宗派内部の宗乗の研究とか、仏教内部だけの視野に限定された諸研究である。もう一つは、視野を広げて、仏教を世界宗教の中で位置づけ乍ら研究してゆこうとする立場である。このような立場は殆ど未開拓に等しい。本書は、後者に属する。従って、本書は、読者に対して一つの新鮮な霊的視野を提供するものであり、未聞の事柄、未開拓の新天地に案内するといえる。

『暗夜の法灯』日向美則 1頁

 巷間に、経典の註釈書や様々な仏教書が多くみられる。しかし、仏教書というものは、概ね生硬で親しみ難い。それは全部がそうとは云えないが、仏教書の多くが現代人に語りかけ、心を通わせる生きた言葉と心を失っているからでもあろう。しかし、言葉を超えて、仏陀の心は現代にも受け継がれ生き続けている。その心を体し、現代人に解るように、自由に言葉を駆使できたらどんなにお互いに幸いであろう。このような思いと祈りを持って本書を執筆した。
 本書を或いは仏教学研究の基礎資料として、或いは日々の信仰生活に於ける心の糧として、親しんで頂けるなら幸いである。

『暗夜の法灯』日向美則 5頁

 上記を見れば、仏教を「学問として取り扱う場合」と「信仰や悟りの対象として取り扱う場合」があり、日向師は後者を仏教徒のあり方としている。

学問仏教への批判

 臨済宗の夢窓疎石国師も次のように云って学問的仏教を厳しく戒めておられる、

 鎌倉の最明寺の禅門(北条時頼公)は、建長寺を建立して、禅の教えをたっとばれた。その頃には、禅僧と言って俗衆に交わる者は言うまでもなく、それと一緒に、坐禅を専一にしながら経論語録を学ぶものさえも、求道心のない禅僧だと、建長寺の開山、大覚禅師は誡めなさった。いわんや世間の名利にかかわることなどもっての外であった。これは単に僧侶のみではない。寄進をする人およびその家来たちも、この宗旨を信ずる人は、もっぱら本分を悟るということを肝腎とした。大覚禅師の後、兀庵普寧・大休正念(仏源禅師)・無学祖元(仏光国師)等の諸大禅師が相次いで宋国から渡って来られた。それらの大禅師は皆同じく僧侶をいましめて、本分を究める以外には、他のことをされなかった。在俗の人々の信仰もまた同様であった。

『夢中問答集』川瀬一馬〔訳註〕講談社学術文庫 311頁

 本分を究める以外のことに手を出すことは不信仰の者であり、歴代の祖師方はそういう者たちを誡められたとして、大変手厳しい態度を取っておられる。夢窓国師に言わせれば、仏教において学解などはもっての外だというのである。

学問の排斥

 禅宗六祖の慧能大師などは無学文盲にして悟りを得て、経典学者であった兄弟子の神秀上座を超えた境地になっていたようであり、信徒への布教もそれまでの難解な『楞伽経』ではなく、シンプルな『金剛経』を主要経典としていた。

 北方の神秀一派に依って楞伽経が研究せられて居った。神秀一派は学問を盛んにする、難かしい楞伽経を研究するのであるから、どうしても学問をしなければならぬことになるが、慧能はそれに反対した。学者を代表したものが神秀であれば、非学者を代表したものが慧能であったと見ていいのである。然し、学問を排斥した慧能は無学文盲であったとは考へられない。神秀程の学者でなかったかも知れないけれども、無学者ではない。一方が博士でなかったからと云ふても、大学卒業位はして居るだらふと思ふ。普通の中学を出た人よりも分って居ると思ふ。さうすると神秀程の博士ではなかっただらふが、普通の常識はもって居る、普通の佛教的智識はもって居ったに相違ない。それで一方は学間を盛んにして分り難いものも分らすやうにする。又一方は学問を排斥して、学問よりも何よりも、分りやすい のが一番だと云ふことになる。

『禅とは何ぞや』鈴木大拙 大雄閣262~263頁

 また慧能大師とある僧の次にような問答が大師の学問に対する姿勢を物語っている、

ある人がいた、 「黄梅の宗旨は、誰が手に入れたのです」
師「仏法に気のある人が、手に入れたろう」
僧、「いったい和尚さまは、手に入れたのですか」
師、「私は手に入れん」
僧、「和尚さまが、どうして手に入らぬのです」
師、「私は仏法に気がない」

『大乗仏典〈中国・日本篇〉第十三巻 祖堂集』柳田聖山〔訳註〕145頁

 つまり、慧能大師は学問よりも先に夢窓国師が云うように「本分を究める以外には、他のことをされなかった」姿勢である。

智解は仇

 曹洞宗の鈴木正三道人は学問を徹底的に排斥した仏教者である。それらの言葉が『驢鞍橋』に多く収められている。

見て覚えるのは皆、仇である。ただ、念仏によって〔自分の〕死を軽くするべきである。 

『鈴木正三著作集Ⅱ』加藤みち子〔編訳〕中公クラシックス 8頁

仏道修行とは、心得て置くことでは無い。修行によって身心を尽くすことである。

『鈴木正三著作集Ⅱ』加藤みち子〔編訳〕中公クラシックス 9頁

見解が有るよりも死機(気)が起きる方が良い。

『鈴木正三著作集Ⅱ』加藤みち子〔編訳〕中公クラシックス 22頁

今時の仏法者は、理屈に堕してそれでいいと思い、人々もこれを貴いと思ってそのような人を貴んでいる。〔しかし〕理屈ほど用に立たないものは無い。

『鈴木正三著作集Ⅱ』加藤みち子〔編訳〕中公クラシックス 24頁

或る日、人が来て「何を伺っても覚えないので修行ができません。」と言う。
師が聞いて言われた。「何と良いことである一物も覚えないのを仏法と言う。これによって、覚えて置くことを嫌い捨て、ただ、念仏によって胸の中の塵ほこりを払い捨て払い捨てすることを勤めさせるのである。このように勤めて、仏法・世法ともに忘れ果て、ハラリッと手を打ったようになるのを成仏という。」

『鈴木正三著作集Ⅱ』加藤みち子〔編訳〕中公クラシックス 48~49頁

 私は元から学文が成らない性質である。しかしそれが今では良いことに成ったのである。学文(学問)に器用であれば、これほどまでも〔修行を〕仕
上げることはできなかったであろう。今でも胸〔に乗るということ〕を離れて文の意味をあれこれ沙汰するという事を知らない。どうしても学文者は耳で沙汰してしまい、胸によって沙汰するということがない。 文の意味だけで、早くも道理をつけてしまう。 ただ胸切りに捌いて、乗らないものは乗らないとしていくようにすれば、聞くとすぐに、このあの意とフツフツと胸で分かるはずである。

『鈴木正三著作集Ⅱ』加藤みち子〔編訳〕中公クラシックス 235頁

 正三道人が云うように仏教においては信仰や行が「正」であり、学問や智解は「助」に過ぎない。この辺りを気を付けていないと正・助が逆転してしまう。

釈尊の態度を見習う・学解は仏教ではない

 三昧発得された浄土宗の山崎弁栄上人が宗教上の心理は三昧や信仰に属すものであり、理性的に理解することではないという。云わく、

理性は宗教上の真理を理論としては識りうるも実現はできぬ。若し宗教の真理が理性にて悟り得らる物なれば教祖釈尊は有ゆる学者を聚めて正覚を得べき筈なるに然らずして超然と入山修道し竟に霊性開発し正覚無限の光をえ涅槃の無量寿を発見なされたのである

 『大霊の光』山崎弁栄 光明会本部教学部 25頁

 仏教が学解で良いならば、出家などされずに国中の学者を集めて研究すればいいはずが、どうして釈尊ご自身が入山修道されて、修行を専らにされたのかということを弁栄上人は主張されるのである。
 釈尊その人を伺えば仏教が学問ではないことがわかるのである。

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