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自灯明・法灯明の本当の意味

「自灯明・法灯明」の言葉は原始仏典の『涅槃経』に説かれているものであり、有名な経典の文句である。しかしながら、この教えについてはよく聞く言葉でありながら、表明上の言葉をさらうだけで一体どういう内容なのかをあまり耳にすることがない。

 今一度経典を紐解いて「自灯明・法灯明」とはどのような教えなのかを窺ってみたい。

 原始仏典の『涅槃経』に説かれるのは次のような文句である、

アーナンダよ、わたしは、なにごとも考えず、なにものも感じないで、無相の心三昧に入って住する時、そのような時こそ、わたしはいちばん安らかである。アーナンダよ、だからして、自己を洲とし、自己を依処として、他人を依処とすることなく、法を洲とし、法を依処として、他を依処とすることなくして住するがよい。

『阿含経典3』増谷文雄〔訳〕ちくま学芸文庫 368頁

 これは原始『涅槃経』の有名な文句であるが、上記釈迦如来の仰せを伺うと、「無相の心三昧」に依るので、自己と法を依処とすることができるという。
 では「無相の心三昧」とは何であるかといえば、その直後に説かれている。

では、アーナンダよ、比丘は、どのようにして、自己を洲とし、自己を依処として、他人を依処とすることなく、法を洲とし、法を依処として、他を依処とすることなくして住することを得るであろうか。 アーナンダよ、ここに比丘があり、彼は、わが身において、熱心に、正念に、正知にしてその身を観じ、貪欲より起るこの世の憂いを調伏して住する。また、受(感覚)において……受を観じ、……心において……心を観じ、……また、法において、熱心に、正念に、正知にしてその法を観じ、貪欲より起るこの世の憂いを調伏して住するのである。
アーナンダよ、このようにして、比丘は、自己を洲とし、自己を依処として、他人を依処とすることなく、法を洲とし、法を依処として、他を依処とすることなくして住するのである。

『阿含経典3』増谷文雄〔訳〕ちくま学芸文庫 368~369頁

 この文言をから「自灯明・法灯明」というのは、「身・受・心・法」を観察するいわゆる「四念処」のことであるのがわかる。
そして「四念処」というのは、「八正道」の中の「正念」に当たる。

『相応部経典』には、

比丘たちよ、いかなるをか正念というのであろうか。比丘たちよ、ここに一人の比丘があって、わが身において身というものをこまかく観察する。熱心に、よく気をつけ、心をこめて観察し、それによってこの世間の貪りと憂いとを調伏して住する。また、わが感覚において感覚というものをこまかく観察する。熱心に、よく気をつけ、心をこめて観察し、それによってこの世間の貪りと憂いとを調伏して住する。あるいは、わが心において心というものをこまかく観察する。熱心に、よく気をつけ、心をこめて観察し、それによってこの世間の貪りと憂いとを調伏して住する。あるいはまた、この存在において存在というものをこまかく観察する。熱心に、よく気をつけ、心をこめて観察し、それによってこの世間の貪りと憂いとを調伏して住する。比丘たちよ、この時これを名づけて正念というのである。

『阿含経典2』増谷文雄〔訳〕ちくま学芸文庫 174頁

上記の経文を拝読すれば解るように、「自灯明・法灯明」とは単に今ある自分を信ぜよというような教えではなく、「四念処」によって「正念」に住せよという観察の行を修していくことなのである。
勘違いしやすいのが、「自灯明」の教えを煩悩だらけの自己を頼りにすることと捉えてしまうことである。それは「自灯明」の教えでは全くない。

『スッタニパータ』にも「犀の角」の中に説かれている、

異説の論争を超越し、確実に目的に達する自信を得、(修行の)道にいたり、〝私は智慧を得た、他者の指導を必要としない〟と、犀の角のように、ただひとり行動せよ。

渡辺照宏〔訳〕「スッタニパータ」『ワイド版世界の大思想 第3期〈2〉仏典』 9頁

 ただひとり行動するということの前提には、「道にいたり、私は智慧を得た」境地がある。「四念処」に依って「正念」を得て三昧に至っているが故に「自灯明」として犀の角ようにひとりで闊歩することができるのである。
「自灯明」というのは、単に現在の凡夫であるところの自分に依ることではないので、よくよく聖教を拝読して吟味しなければならない。

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