「自灯明・法灯明」の言葉は原始仏典の『涅槃経』に説かれているものであり、有名な経典の文句である。しかしながら、この教えについてはよく聞く言葉でありながら、表明上の言葉をさらうだけで一体どういう内容なのかをあまり耳にすることがない。
今一度経典を紐解いて「自灯明・法灯明」とはどのような教えなのかを窺ってみたい。
原始仏典の『涅槃経』に説かれるのは次のような文句である、
これは原始『涅槃経』の有名な文句であるが、上記釈迦如来の仰せを伺うと、「無相の心三昧」に依るので、自己と法を依処とすることができるという。
では「無相の心三昧」とは何であるかといえば、その直後に説かれている。
この文言をから「自灯明・法灯明」というのは、「身・受・心・法」を観察するいわゆる「四念処」のことであるのがわかる。
そして「四念処」というのは、「八正道」の中の「正念」に当たる。
『相応部経典』には、
上記の経文を拝読すれば解るように、「自灯明・法灯明」とは単に今ある自分を信ぜよというような教えではなく、「四念処」によって「正念」に住せよという観察の行を修していくことなのである。
勘違いしやすいのが、「自灯明」の教えを煩悩だらけの自己を頼りにすることと捉えてしまうことである。それは「自灯明」の教えでは全くない。
『スッタニパータ』にも「犀の角」の中に説かれている、
ただひとり行動するということの前提には、「道にいたり、私は智慧を得た」境地がある。「四念処」に依って「正念」を得て三昧に至っているが故に「自灯明」として犀の角ようにひとりで闊歩することができるのである。
「自灯明」というのは、単に現在の凡夫であるところの自分に依ることではないので、よくよく聖教を拝読して吟味しなければならない。