RIDE ON TIMEが生まれた1980年。 シティポップ元年の名曲プレイリスト Vol.1
RIDE ON TIMEがヒットした1980年は、アンダーグラウンドだったシティポップが黎明期を経て、勃興期に差し掛かり花開いたシティポップ元年とも言える。残念ながら山下達郎の曲はプレイリストには入れられないが、1980年に生まれて巷を賑わした30曲のプレイリストを作成。裏舞台から表舞台へとメジャー化した80年のシティポップを振り返ってみた。
シティポップ元年;1980年のプレイリスト30
1980年、『RIDE ON TIME』発売
5月の「FOR YOU」に続いて山下達郎のアナログリイシュー第2弾。6月になると『RIDE ON TIME』が届いた。
『RIDE ON TIME』は1980年9月に発売された山下達郎5作目のスタジオ・アルバム。そしてその年の5月1日には先行シングルとしてRIDE ON TIMEも発売された。
この曲はマクセル・カセットテープのTVCMのタイアップ曲として、そしてそのCMに山下自身が出演したため、全国的にその名が知られるきっかけとなった。
山下の理想のリズムセクションとしてその後レコーディングとライブに起用され続ける青山純(ドラム)、伊藤広規(ベース)との最初のレコーディング曲でもある。シングルは50万枚を売り上げ、山下はこの曲で初めてチャート入りし、しかもチャート3位と初めてベスト10入りも果たすなど、彼のポジションを飛躍的に押し上げた曲と言える。
そして同名のアルバム『RIDE ON TIME』は1980年10月6日にオリコン・チャートで初の1位を記録する。
Daydream
夏への扉はバンドメンバー難波裕之に書き下ろした曲のセルフカバー
青山純、伊藤広規起用に関しての経緯は以下の記事で書いた。
(この投稿後に音楽プロデューサーの松尾潔氏が、山下所属事務所のスマイルカンパニーから契約解除されたことを晒して話題になった。理由はメディアで松尾氏がジャニーズ問題に言及したことにあり、山下達郎もその圧力に加担したのではないかと憶測を呼んだ。その背後にいると目されるのが元スマイル社長の小杉理宇造氏である。山下と小杉氏の関係はデビュー作に遡り、その辺りの経緯は下記記事で書いた。
そして、マクセルTVCMのタイアップの仕掛け人も小杉氏なのである。映像に出るのを嫌がる山下を無理矢理出演させるも、それがこのブレイクに繋がったわけで、氏の山下への影響力の強さが窺える。
金には縁遠かった山下を、金を呼ぶ打ち出の小槌に変えのたは小杉氏で、それ故に絶体的な信をおいているのである。)
吹き荒れるテクノ旋風
さて、1980年と言うと、自分は浪人生活を経て、都内の私立大学に入学。
暗澹とした浪人生活に出会ったのがイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)が世に広めたテクノポップ。
YMOは1979年9月、2枚目のアルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』を発売、翌年1980年2月には『パブリック・プレッシャー/公的抑圧』はチャート1位となりテクノ旋風が吹き荒れ、自分もその洗礼を受けた。
大学に入学すると早速、日比谷野音などで開催されたテクノフェスティバルに参加するなど、テクノ三昧となる。
その頃、P-MODEL、ヒカシュー、プラスチックス、シーナ&ロケッツなど、YMOフォロワー達が集められ各地でテクノ系のフェスが開催されていた。
逆に、フォークやニューミュージックのような日本の音楽を軟弱なものとして見下し馬鹿にして、聴く耳を持たなかった。
夏になると海辺の喫茶店で泊まり込みのバイト生活が始まる。
この年にはポカリスエットが発売され、店に大量にあったまだ粉末状のサンプルを水に溶かして飲んで「こんなまずいものが売れるのか」と感じたことを思い出す。
そしてそこには宣伝用のシングルの見本版もゴロゴロと転がっていた。
殆どが今でいうシティポップ的な音楽が主流で、テクノに染まっていた自分には相容れないものばかり。
ターンテーブルにYMOを載せても海辺のカフェでは浮くばかりだった。
その頑なな自分に先輩が聴かせてくれたのがこのシングルレコードだった。
テクノポップ×シティポップ
1.CARNAVAL/大貫妙子
CARNAVALは1980年8月に発売された大貫妙子のシングル。同時にリリースされたアルバム『romantique』からカットされた。この曲で大貫妙子を初めて知ったのだったが、YMO的なテクノサウンドにフォーキーな大貫のボーカルが被せられた音作りに魅了された。それもそのはず、編曲は坂本龍一、演奏は坂本と細野晴臣、高橋ユキヒロとYMOの3人に、準メンバーの大村憲司とComputer Programmingで松武秀樹が参加しており、YMOをバックに大貫が歌うと言う豪華な組み合わせとなる。
セールス的には低迷しセミリタイアしていた大貫だが、シュガーベイブの盟友山下達郎と同様、1980年は飛躍の年となる。
テクノ一辺倒だった自分も、テクノ×シティポップ的なサウンドに取り込まれ、音楽の趣味傾向も変化していくきっかけとなる。
2.憧れのラジオ・ガール/南佳孝
モンロー・ウォークが前年にスマッシュヒットした南佳孝。この曲同様、坂本龍一が編曲し、1980年4月に発売された南佳孝の憧れのラジオ・ガール。坂本龍一が主導しテクノ風味のシティポップに仕上がる。作詞は松本隆、曲は南佳孝。坂本がFender Rhodesと印象的なVocoderを聴かせ、高橋ユキヒロがドラム、 大村憲司がギター、松武秀樹がローランドMC-8と細野以外のYMOが演奏でバックアップ。洋楽のAORの焼き直しに止まらない、テクノ風味の味付けが80年代のシティポップの持ち味となる。
3.ユー・メイ・ドリーム/シーナ&ザ・ロケッツ
シーナ&ザ・ロケッツのユー・メイ・ドリーム(YOU MAY DREAM)は、「真空パック」からのシングルとして1979年12月5日にリリースされ、1980年JALのCMに起用され約20万枚のヒットを記録。曲は鮎川誠と細野晴臣が共作、細野晴臣がアレンジを担当。
THE RONETTESをテクノ風に仕上げたドリームポップで、細野風のフィル・スペクター・サウンドのよう。
ゲストで細野晴臣、松武秀樹 が MC-8、高橋ユキヒロがドラムで参加と坂本以外のYMOが揃い踏みだが、クラシックが原点の坂本とポップスが原点の細野と同じYMOでも仕掛け方が違って興味深い。
4.BLUE COLOUR WORKER/高橋ユキヒロ
BLUE COLOUR WORKERは1980年6月に発売された高橋ユキヒロの2枚目のソロアルバム『音楽殺人』に収録された。作詞はクリス・モズデル、作曲は細野晴臣。同年1980年、細野晴臣プロデュースでアルバムを出したSandiiがコーラスで参加。(後にはサンディー&ザ・サンセッツ参加)
アルバムではThe SupremesのカバーSTOP IN THE NAME OF LOVEを取り上げるなど、シナロケの「真空パック」と同じ路線を感じる。
加藤和彦&安井かずみの夫婦コンビ
5.ドゥー・ユー・リメンバー・ミー/YUKI
ドゥー・ユー・リメンバー・ミー (Do You Remember Me?) は、1980年6月に発表された。作曲・加藤和彦、作詞・安井かずみ。YUKIという覆面歌手名義だったが、発売後にYUKIは元アイドルの岡崎友紀であることが公表された。
この曲は、加藤和彦がBe my babyのような曲を思い浮かべ作曲したそうで、フィル・スペクターのウォール・オブ・サウンドを意識している。自分は前年のThe PretendersのKidsに似ているなと思ったものだが。
ミカバンドのミカと離婚した加藤は、8歳年上の安井かずみと1977年に結婚したため、当時は夫婦だった。
加藤は安井かずみが全曲作詞というヨーロッパ3部作と呼ばれるシリーズを展開中で1979年に『パパ・ヘミングウェイ』 1980年には『うたかたのオペラ』を発表。やはり、高橋ユキヒロ、坂本龍一、細野晴臣などYMOファミリーが参加していた。
6.不思議なピーチパイ/竹内まりや
加藤和彦(作曲)、安井かずみ(作詞)コンビによるもう一つの名曲が竹内まりやの不思議なピーチパイ。1980年2月に資生堂の春キャンペーンCMソングとして発売され、最高3位まで上昇し初のオリコンTOP10入りを果たした。B面の「さよならの夜明け」は、竹内自身が作詞、作曲は山下達郎が手掛けた。
そして、不思議なピーチパイのコーラスにも山下達郎がEPOと参加。
彼女から遅れること3ヶ月。山下も同じくCMタイアップ曲RIDE ON TIMEをリリースし大ヒット、奇しくもまりや同様チャート3位となる。
2人揃ってメジャーミュージシャンの仲間入りをし、同格となった2人は結婚に向けた環境が整う。
CMにはマリアンが出ていた。
山下達郎と竹内まりやの動向
山下達郎は78年の竹内まりやのデビューアルバム『BEGINNING』に夏の恋人を楽曲提供しており、それが最初の出会いと思われる。79年には大貫妙子との共作ブルー・ホライズン (Blue Horizon)を提供。そしてこの1980年には仕事の機会が増加して急速に接近している。
7.リンダ/アン・ルイス
竹内まりやはその年の8月初めて他の歌手に楽曲提供する。
リンダは、竹内まりやがアン・ルイスに桑名正博との結婚を祝うために、プレゼントした楽曲で、リンダ(Linda)という名前はアン・ルイスのミドルネーム。作詞・作曲は竹内まりや、 編曲に山下達郎が加わり、コーラスにも竹内まりやと共に参加した2人の共同作品とも言える。
このアルバムの録音が二人の結婚のきっかけとなったらしく、シティポップの代名詞のカップルが成立した曲としても重要だ。
8.DOWN TOWN/EPO
EPOは、大学在学中からセッションボーカルとして活躍し、竹内まりやのSEPTEMBERのコーラス&コーラスアレンジを担当した。
DOWNTOWNは山下達郎と大貫妙子が所属していたシュガーベイブのシティポップ屈指の名曲で、作曲・山下達郎、作詞は伊藤銀次。
EPOがRVCのスタジオで録音していたところ、山下達郎が目の前を歩く姿を偶然見かけ「ぜひカバーしたい」と直接かけ合ってカバーが実現した。こうしてDOWN TOWNは、1980年3月にEPOのデビュー・シングルとして発売された。
演奏はドラムが林立夫、ギターは今剛、Synthesizerと編曲は清水信之。さらにSEPTEMBERの作者、林哲司も編曲に参加している。
フジテレビの『オレたちひょうきん族』のエンディングテーマとなりヒットする。番組サイドから「シュガー・ベイブのDOWN TOWN」を使いたいと打診したが、テレビ嫌いの山下達郎が断って、EPOに話が回ってきたらしい。
山下と竹内が急接近する中で、2人の中を取り持つようにEPOは2人と濃厚な関係となるキーパーソンなのである。
確かにSEPTEMBERのコーラスはEPOの声。ディレクターがたまたま会社に遊びに来ていたEPOを誘って録音し、スタジオを通りかかった山下達郎も絶賛したという。
9.Dream in the street/池田典代
池田典代は、山下達郎が下北沢ロフトや新宿ロフトに出ていた頃の知人らしい。DREAM IN THE STREETは山下達郎による作・編曲で、山下本人もギターとコーラスで参加。さらにドラム・上原裕、ベース・田中章弘、鍵盤・佐藤博、ギター・椎名和夫と当時の山下バンドが全面的にサポート。こんなレア作品まで再発されるのがシティポップ現象の余波か。
10.RAINY DAY/吉田美奈子
RAINY DAYは1980年10月発売の吉田美奈子のアルバム『MONOCHROME』のために山下達郎により書き下ろされた曲。作詞は吉田で2人の共作。
RAINY DAYは山下のアルバム『RIDE ON TIME』にも収録され、1980年9月発売のため、山下のヴァージョンが一足先にリリースされた。渡嘉敷祐一、岡沢章、松木恒秀、マイク・マイニエリ、清水靖晃がバックを固めた。
シティポップの王道作家、林哲司
11.象牙海岸/竹内まりや
さてシティポップと言えば代表的な作曲家が林哲司だ。前年の竹内のSEPTEMBERでシーンに浮上。後には杏里の悲しみがとまらない、杉山清貴&オメガトライブのふたりの夏物語など、さらには歌謡曲ヒットメイカーとして中森明菜の北ウイングなど、ヒット作は枚挙にいとまがない。
象牙海岸は1980年3月リリースの『LOVE SONGS』の中の一曲。シングルではないが隠れた名曲として人気がある。作詞は松本隆。ドラムは林立夫、ベースは岡沢章、ギターは今剛、コーラスはEPOに、嘗てはシンガーソングライターだった林哲司本人も加わっている。
『LOVE SONGS』は竹内まりやとして初の一位のアルバムとなる。
12.真夜中のドア〜Stay With Me/松原みき
そして林哲司が世に出したシティポップブームの象徴的名曲が松原みきの真夜中のドア〜Stay With Me(作詞:三浦徳子)。
1979年11月にデビューシングルとしてリリースされ、1980年3月にオリコン最高28位に入り、100位内に18週間もランクインして累計10万枚突破という息の長いヒット曲となる。1980年1月リリースの松原のデビューアルバム「POCKET PARK」にも収録された。ドラムスに林立夫、ベースに後藤次利、ギターに松原正樹という鉄壁の布陣。1980年のシティポップの名作にはかなりの頻度で林と松原が登場している。
2020年後半、海外でこの曲の人気が急上昇し世界各国のサブスクの再生回数で上位にランクイン。Spotifyでは2,300万回以上再生され、Spotifyグローバルバイラルチャートにおいて、2020年12月10日から12月27日までの18日間連続世界1位を獲得し、シティポップの核的な存在となる。
プレイリストに入れた音源は「FOR YOU」を手がけた名エンジニア吉田保による2023 mix。低音域もしっかり効いて歌謡曲的な音像から、シティポップそのものに生まれ変わった。
ザ・ベストテンのヒットメーカー
ニューミュージックと呼ばれていたジャンルの歌手たちはテレビを頑なに拒否していたが、柔軟に出演して売り上げを伸ばしていたのが、これから列挙する彼らである。
特に主戦場だったのが「ザ・ベストテン」。サザンを手始めにニューミュージックのミュージシャンたちのプロモーションの場となった。
13.パープルタウン/八神純子
パープルタウン 〜You Oughta Know By Now〜は、1980年7月に発売。同年のJALPAK「I LOVE NEWYORK キャンペーン」のCMソングに起用され、チャート2位、累計60万枚のセールスを記録する大ヒットとなった。78年のみずいろの雨が最高位2位、売上60万枚の大ヒットとなったのに続き、この頃の八神は日本を代表するヒットメーカーであった。
元ネタとなったレイ・ケネディのYou Oughta Know by Now。この曲の前半はYou Oughta Know By Nowをベースに作曲され、後半は八神のオリジナルという構成。しかし当初『パープルタウン』の題名で発売され、盗作騒ぎになった。再プレス盤からはタイトルに「You Oughta Know By Now」が併記され、ケネディら3人が追加でクレジットされたことで和解したらしい。
14.わすれじのレイド・バック/サザンオールスターズ
わすれじのレイド・バックはサザンオールスターズのシングルとして、1980年7月に発売された。5か月連続でシングルリリースする「FIVE ROCK SHOW」第5弾。原由子は体調不良でレコーディングには参加していない。スティール・ギター、マンドリンの音色が響くサザンロック調でリトルフィートのウィリンを思い出させる。
前年はいとしのエリー、C調言葉に御用心とヒットを連発したが、1980年はベスト10ヒットはなくセールス的に低迷期。次のベスト10ヒットは82年のチャコの海岸物語を待たねばならない。
「FIVE ROCK SHOW」の第3弾は「いなせなロコモーション」だった。
15.恋はベンチシート/ジューシィ・フルーツ
ジューシィ・フルーツはサザンと同じアミューズ所属のロックバンドで前身は近田春夫のバックバンド。1980年6月のデビュー曲ジェニーはご機嫌ななめがチャート5位のヒットとなり注目される。最近はPerfumeにもカバーされている。恋はベンチシートは1980年7月「Drink!」に収録され、シングルにもなった。エレキ歌謡曲にテクノ・ポップ風味をまぶしたサウンドは、時代を象徴していた。女性ボーカルバンドは存在していたが、ギターを弾きまくりボーカルをとるイリアは日本ではまだ珍しく、テレビでも不思議に輝いていた。
ジェニーはご機嫌ななめ
さて、1980年一年なので10曲程度と終わると思っていたプレイリストも30曲まで膨れ上がったので、Vol.1では15まで紹介して続きはVol.2に続く。
Vol.2は佐野元春のデビューから始まる。。
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