この一枚 #13 『Remain In Light』 トーキング・ヘッズ(1980)
この2月に『ストップ・メイキング・センス 』が4Kレストアとして再公開されたトーキングヘッズ。バンド結成50周年となり再びブームとなっている。
そしてこの映画の3年前、彼ら飛翔のきっかけとなった1980年の『Remain in Light』は、今も名盤として語り継がれる。当時ニューウェイブと括られていた彼らのサウンドは、今聴き直すとアフロビートを取り入れた強烈なファンクサウンドに感じるのだ。
『Remain in Light』とは
『Remain in Light』は1980年10月に発売されたトーキング・ヘッズ(Talking Heads)の4枚目のアルバムです。
ブライアン・イーノがプロデュースし、彼と共にアフリカンビートをロック界として導入した先駆的な作品です。
米国ビルボードで19位、英国アルバムチャートで21位に達し、彼らにとって、これまでの最高ヒット作となりました。
ローリングストーン誌が発表した80年代の名盤の4位に選ばれ(『London Calling』が1位)、「オールタイム・グレイテスト・アルバム500」(2020年)では39位にランクインしています。
発売当初はこの不気味なカバーアートとオープニングのBorn Under Punchesのイントロの奇妙なサウンドに拒絶感があり、聴かないまま放置されていました。
ワールドミュージックという言葉が80年代後半に音楽業界での流行になった頃、CDで聴いて、その良さに病みつきになり虜になった名盤(迷盤)です。
We are the Worldとデヴィッド・バーン
最近相次いで公開された、80年代をテーマにした音楽映画を観ました。
一つはNetflixの最新作でWe Are The World(1985年)録音の裏舞台を描いた『ポップスが最高に輝いた夜』。
もう一つは先頃公開された1984年のトーキング・ヘッズのライブフイルム『ストップ・メイキング・センス 』(4Kレストア版)です。
一見何の繋がりのない2つの作品ですが、デヴィッド・バーンという人物を通して接点があったのです。
『ポップスが最高に輝いた夜』ではWe Are The Worldへの参加ミュージシャンを誰にするか、その交渉過程が描かれます。
例えば、プリンスは参加する可能性もあったが、最終的には参加には至りません。また、初期段階にデヴィッド・バーンにも参加要請がありますが、速攻で断られたようです。ジェイムズ・ブラウンにも参加要請があったようで、この3人が参加したらさらに混乱しつつも、ファンクテイストのある作品になったかもしれません。
「USAフォー・アフリカ」と名付けたられものの、初期段階では音の方向も未定だったため、バーンのアフリカ音楽の知見に期待したのかもしれません。1980年の『Remain in Light』にはほぼロック界では初と言えるほど、大胆にアフリカン・ビートが取り入れられていましたから。
或いはアメリカでは数少ないニューウェイブ系の代表として、白羽の矢が立ったのかもしれません。
1980年という年
1980年という80年代の幕開けとなる年。
1980年の年間アルバムチャートの1位はピンクフロイドの「THE WALL」、2位はイーグルスの 「Long Run」と大物バンドが占めていますが、既に全盛期を過ぎていて、イーグルスに至ってはラストアルバムとなっています。
アメリカンロックが下降線を辿り、代わって産業ロックと揶揄された商業主義的なバンドが売れ行きを拡大。ジャーニー、スティクス、スーパートランプ、フォリナー等のわかりやすいメロディを持つバンドが幅を利かせます。
それに対抗するようにイギリスから台頭したのがニューウェイブ。
そのニューウェイブからは、ブロンディが8位、プリテンダーズが19位。B-52'S、カーズ、クラッシュ、ゲーリー・ニューマンあたりが年間50位圏内に入り、アメリカでも主流の一つとなりつつありました。
まさに新旧交代時代のニューウェイブ全盛時に本作はリリースされました。
デヴィッド・バーンとブライアン・イーノ
デヴィッド・バーンという人物
トーキングヘッズは、デヴィッド・バーンを中心に、クリス・フランツ(ドラム)、ティナ・ウェイマス(ベース)、ジェリー・ハリスン(キーボード、ギター)の4人編成で1977年にデビュー。ティナ・ウェイマスは当時は珍しい女性ベーシストで、クリス・フランツと夫婦となります。
デヴィッド・バーンはソロアーティストとしても知られていますが、最近では映画『アメリカン・ユートピア』で久々に脚光を浴びました。
2020年に公開されたこの映画の監督はスパイク・リー。
グラミーでも最優秀音楽映画賞を獲得するなど、世界中で大ヒット。
自分も映画館で3回も観返し、エンターテナーに変貌したバーンに感心したものです。
ここでも6人のパーカッション奏者が起用され、ラテンやアフリカなどバーンのリズムやダンスへのこだわりが並々ならぬことが分かります。
また90年にはワールドミュージック専門のレコードレーベルLuakaBopも創設して、彼はワールドミュージックの地位向上に尽くします。
ブライアン・イーノからの影響
この連載で前回紹介したロキシー・ミュージックの『AVALON』。このロキシーにブライアン・イーノが僅かな期間在籍していました。デビュー作と2枚目の2作に参加し、1973年には脱退します。
その後はむしろプロデューサーとして名を上げ、特にデヴィッド・ボウイのアルバムである77年の『ロウ』から始まる『ヒーローズ』『ロジャー』と続く「ベルリン三部作」を共作し、世に知られる存在となります。
そして続く代表作となるのがこの『Remain in Light』なのです。
イーノとトーキングヘッズ(以下ヘッズ)の付き合いは1978年の『More Songs About Buildings and Food』から始まります。
これに収録されたアル・グリーンの「Take Me to the River」のカバーが初のヒットなり、自分が彼らの存在を知るきっかけともなります。
カバーの収録を反対するバーンを説き伏せたのがイーノでした。
そしてイーノの貢献は79年の『Fear of Music』収録のI Zimbraで開花し、『Remain in Light』への道筋となるのです。
I Zimbraではイーノから教わったナイジェリアのフェラ・クティ(Fela Kuti)を参考にしたアフロビートを、ファンクやディスコにブレンドしつつで大胆に取り入れます。ロバート・フリップのギターに打楽器奏者5人が加わって録音されました。
『アメリカン・ユートピア』でもラテンの躍動感溢れる編曲に仕上がりました。
アフロ・ビート
Remain in Lightの録音
1980年『Remain in Light』は、バハマのナッソーにあるコンパス・ポイント・スタジオで録音されます。このスタジオはアイランド・レコードのクリス・ブラックウェルによって1977年に設立され、多くの話題作がここから生まれました。
日本では加藤和彦 が『パパ・ヘミングウェイ』(1979)を録音し、後にはロキシー・ミュージック が『AVALON』(1982)を録音し、その際に本作をメンバーがよく聴いていたことは前章で紹介しました。
また当時バハマに住んでいたロバート・パーマーがなぜかパーカッションとして参加しました。そのお返しに同年同所で録音されたパーマーの「Clues」にヘッズのドラマーのクリス・フランツが参加しています。
因みにもう一名のパーカッションとして参加したホセ・ロッシー (Jose Rossy)は、後にウェザー・リポートに加入する実力者です。
バハマでの録音を終えるとNYのシグマ・サウンド・スタジオで後にキングクリムゾンに加入するエイドリアン・ブリュー(G)、元ラベルのノナ・ヘンドリックス、トランペット奏者のジョン・ハッセルなどが招かれて、オーバーダビングが施されました。
アフロビートを取り入れつつ、多くの曲はワンコードで延々と反復されるリフとリズム。その上に次々と重ねられていく楽器や歌。
アフロ・ファンク的ですが、ファンクとロックが絶妙のバランスで共存している斬新な作品でした。
Born Under Punches (The Heat Goes on)
A-1のBorn Under Punches、ベースは2本で、スラップベース担当とフレーズ弾き担当という役割分担。リリース後のライブでもサポートの黒人ベースが入っていてダブルベースです。そしてゴスペル調でトライバルなHeat Goes onというコーラスの響きがアフリカの呪術を想像させます。
発売後のツアーにはエイドリアン・ブリュー、バーニー・ウォーレルなど5人のサポートミュージシャンが加わり9人の大編成となります。
Crosseyed And Painless
バーンは、本作ではベースは一定のグルーブの繰り返しにした、と述べているが、それがトランス感をもたらしています。A-2のCrosseyed And Painlessでもそんな単調なベースが心地よく感じます。
映画「Stop Making Sense」に収録された1983年のライブ。
野生的なものからかなり洗練されて来たダンスミュージックになっています。この時も5人の黒人ミュージシャンが加わり、ファンクバンドに変身しています。キーボードのバーニー・ウォーレルはパーラメントに所属していたPファンクの達人です。コーラス2人の内、1人はスライ・ストーンのコーラスだったリン・メイブリー。
The Great Curve
A-3のThe Great Curve。フェラ・クティのレコードで聴いたリフを土台にして作り始めたというが、最もアフロっぽい躍動感に溢れたナンバー。ホーンとパーカッション、コーラスと多層的に重ねられた音。そしてエイドリアン・ブリューのギターソロが唸ります。
Fela Kutiのアフロビート
本作はブライアン・イーノがバンドに紹介したナイジェリアのフェラ・クティのアフロビートの影響を反映しています。フェラ・クティはジェイムズ・ブラウンのファンクを吸収し、アフロビートと言う独自のスタイルを発明した人物。ナイジェリアで「Band on the run」録音時のポールを突然訪れて、「アフリカの音楽を盗用するな」と脅したという逸話が著名です。
イーノはバーンと初めて会った時に、フェラ・クティのアルバムを聴きつつ「音楽の将来はここにある」と話したそうです。
そのアルバムが1973年の『Afrodisiac』です。
「僕らはアフリカのポップミュージックを聴いていた、例えばフェラ・クティ、キング・サニー・アデ。けれど僕らはああいうものを真似ようとしたわけじゃない。僕らは全部を解体して、そこから音楽を発展させていったのだ。僕らがたどったプロセスは最後にはアフロファンクと近いものにつながっていった。道に迷っているうちに、新しいものが出来上がったんだ」
とバーンは語っています。
名盤としての再評価
Remain In Lightのその後
本作リリース後、バンドは暫く休止し、1983年に出したBurning Down the Houseはトーキングヘッズの最高のヒットシングルになり、ビルボードで唯一のトップ10入りし最高9位となります。
しかし1988年の「Naked」を最後に、1991年にはバンドは解散します。
クリス・フランツとティナ・ウェイマスの夫婦はサイドプロジェクトとしてトムトムクラブを1981年に結成。Genius of Love はビルボードディスコチャートで 1 位になり、アルバムもプラチナディスクとなります。
後にマライア・キャリーはFantasyでこの曲をサンプリングします。
イーノは1987年にはU2の「The Joshua Tree」のプロデュースを手掛け、全米チャートで9週連続1位を獲得します。
ヘッズの「True Stories」(1986)収録のRadio Headは、レディオヘッドのバンド名の由来となるなど、多くのフォロワーを生み出しました。
アフリカからの返答
発売当初は賛美両論渦巻いた『Remain in Light』だが、38年後の2018年に本家アフリカからの返答が届きます。
Angélique Kidjo(アンジェリーク・キジョー)が「Remain in Light」を丸ごとカバーした作品「Remain in Light」を2018年にリリースしたのです。
アンジェリーク・キジョーは1960年西アフリカ、ベナン生まれ。
グラミー賞に4度ノミネート、2020年には最優秀ワールド・ミュージック・アルバム賞を受賞。東京五輪の開会式には、アフリカ代表としてジョン・レジェンドなど共に登場して日本でも知られることになりますが、アフリカ音楽界のスターと言えるでしょう。
Once In a Lifetime
Once In a Lifetimeは「Remain in Light」のB面のトップに収録され、シングルカットされました。
キジョーは1983年にパリに移転しますが、あるパーティーでかかった曲がこのOnce In a Lifetimeだったそうで、それ以来愛聴ソングだったそうです。
これもカバー作として現代のアフロポップに昇華されています。
ベースは名手ピノ・パラディーノ。
「Remain in Light」リリース時には西洋人による「文化の盗用」ではないかと、賛否両論が巻き起こったようです。
しかし、本作を聴いたキジョーは、ヘッズやバーンのアフリカ音楽への敬意を感じて、リアルなアフリカ音楽として再生しようとしたのです。
かつてバーンがアフリカ音楽に影響を受け、アフリカと西洋をつなげたように、今度はキジョーがアフリカの側から再度ロックを再構成したのがこの作品となります。
最後に最もアフリカンなナンバーThe Great Curve。
Alicia KeysやQuestloveらがゲスト参加しています。
キジョーのカバー作と同年の2018年にはバーンは「American Utopia」をリリース。それを原案に作られたブロードウェイのショーを、映画化したのが映画「アメリカン・ユートピア」です。
多くの賛辞と批判を受けつつも、源流のアフリカからの返答を経て、『Remain in Light』は問題作でありつつ名盤としても語り継がれるのです。