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“セッションマン”ニッキー・ホプキンズ 名演で辿る軌跡1. 60's Best Play30

伝記映画「セッションマン」が公開され、俄かに注目となるニッキー・ホプキンズ。ストーンズ、ビートルズ、キンクス、ザ・フー、ジェフ・ベックとイギリスロックシーンの大物と次々と共演した歴史に残るピアニスト。まずは前編として60年代の活躍を振り返る。


伝記映画「セッションマン」

ニッキー・ホプキンズの伝記映画「セッションマン」を公開初日に、ピーターバラカン音楽映画祭で観てきた。

「セッションマン ニッキー・ホプキンズ ローリング・ストーンズに愛された男」という邦題が付けられたが、ストーンズ時代だけでなく数多くのセッションに参加した輝かしい記録と共に、クローン病に苦しんだその闘病についても描かれている。(クローン病は炎症性腸疾患のひとつで、小腸や大腸などの粘膜に炎症が起きる粘膜にびらんや潰瘍ができる原因不明の病気。 主な症状には、腹痛、下痢や血便、体重減少などがある。)

ニッキー・ホプキンズ1960's Best Play 30

1.キンクス

ニッキーホプキンスNickyHopkins、1944年2月24日 - 1994年9月6日)は、王立音楽アカデミーでクラシックピアノを学ぶが、自主退学する。
クラシックベースの専門的な素養があり楽譜が読めることが強みとなり、後の人生でセッションマンとして大成する。

10代からいくつかのバンドに在籍し、特にシリル・ディヴィス・オール・スターズでの活動は有名で、キースとミックもこの時にニッキーの演奏を観て驚嘆している。
しかし1963年、病院に緊急搬送され、クローン病と診断され一年半もの闘病生活を過ごす。

クローン病により長期のツアーが難しくバンド活動から遠去かったニッキーに、セッションマンになるように勧めたのは当時ストーンズのエンジニアだったグリン・ジョンズだと言う。
このグリン・ジョンズは友人のビル・ワイマンと共に、しばしばこの映画にも登場してインタビューに答えている。またジョンズは若き日にストーンズのオリジナルメンバーイアン・スチュワートと同居しており、ストーンズにおける2人の鍵盤奏者と親しい間柄だった。

ポール、ミックとジョンズ

そしてジョンズ紹介のシェル・タルミーがプロデュースしたThe Whoの「My Generation」(1965)を皮切りに、セッションマン人生が始まる。

1968年までにはキンクスの4枚の作品に参加。キンクス4枚目のスタジオ・アルバム「Face To Face」収録のSession Manはニッキーにインスパイアされてレイ・デイヴィスが書いたと言う。
しかし、自分の演奏をデイヴィスが演奏したと主張されたり、演奏対価としての報酬が支払われていないことに立腹し、キンクスとの関係は悪化して終了した。

2.Rolling Stones

1967年からストーンズの作品に参加し「Their Satanic Majesties Request」「Beggars Banquet 」「Let It Bleed」と1969年にアメリカに渡るまでの間3作に参加。She's a RainbowSympathy for the Devilなど、歴史に残る名演を残した。

ストーンズと

We love you

映画には出てこないがニッキーが最初に参加したストーンズの曲は、1967年6月17日に録音されたWe love youだ。エンジニアはグリン・ジョンズ、ポールとジョンがコーラスで参加、ブライアン・ジョーンズがメロトロン。冒頭のピアノ・リフはニッキーが演奏した。
映画当日のトークショーのゲストはピーター・バラカンモット・ザ・フープルにも在籍したモーガン・フィッシャー(Morgan Fisher)だったが、彼の一番好きなニッキーのピアノはこの曲だと言う。
そしてフィッシャーはこの映画にも登場している。

She's a Rainbow

同時に録音された「Their Satanic Majesties Request」にも全面的に参加。AppleのCMなどでも聴き覚えのあるShe's a Rainbowのイントロは最も知られる彼のプレイでもある。
「スチュはブルースを弾かせれば右に出る者はいないほど優れたブルース・ピアニストだった。でも彼はブルース以外の音楽には興味を示さなかった」
とニッキーが語るように、イアン・スチュワートはブルーステイストの曲しか関心を示さないため、それ以外の曲調はニッキーに振られたがこれは典型だろう。
当時はセッション・ミュージシャンだったレッド・ツェッペリンのジョン・ポール・ジョーンズは、この曲のストリングスをアレンジした。

Sympathy for the Devil

本人がベスト3にも選んでいる名演がSympathy for the Devil

Sympathy for the Devilの録音

1968年3月17日より録音され、12月にリリースされた「Beggars Banquet 」に収録。Sympathy for the Devilは6月4日から翌日まで録音された。
映画でキース・リチャーズは「自分が曲の半分を持ってスタジオに入ると、残りの半分はニッキーが仕上げてくれた」と語っていた。まさにSympathy for the Devilもそんな曲なのか、キースが弾くベースとニッキーのピアノが骨格となり、曲を終始リードする。

そして、同年の12月に撮影された映画「Rock and Roll Circus」にも参加。ニッキーが彼らと共演した初めてのライブでもあった。まだリリース前のYou Can't Always Get What You Wantが演奏されたが、レコーディングではアル・クーパーがキーボードを弾いていてニッキーは参加していない。

Monkey Man

1969年11月28日にリリースされた『Let It Bleed』にも断続的に参加。
1969年4月に録音されたMonkey Man
このリリカルに響くイントロのピアノはニッキーでしか出せない感覚で、ブルースカバーから始まったストーンズの幅を広げ、ここまでビッグな存在にした一端が垣間見えてくる。

Jamming with Edward!

1969年4月23日『Let It Bleed』の録音中にロンドンのオリンピック・スタジオで、3年後の1972年に「Jamming with Edward!」としてリリースされるジャム音源が演奏され録音された。
メンバーはニッキーとキース以外の3人(ミック、チャーリー、ビル)、そしてライ・クーダー。キースはライ・クーダーがサポート・ギタリストとして参加したことに反発して去った、と言う説があるが定かではない。

ライ・クーダーとミック

何れにしてもクーダーとキースの間では盗用問題が横たわり一筋縄ではなくここでは言及は避けるが、その影響でこのジャムは後日陽の目を見る訳だ。そしてこのEdwardとはニッキーの愛称で、文字通り彼のピアノが大活躍する貴重盤ではある。

3.ジェフ・ベック・グループ

1967年、彼はジェフ・ベック・グループに参加した。後にFacesを結成し大物となるロッド・スチュワートロニー・ウッドが在籍し第一期と呼ばれた時期だ。参加したもののジェフのやり方に嫌気が刺したニッキーはアメリカツアー中の69年の6月に脱退する。

ロッド・スチュワート、ロニー・ウッドと

Beck's Bolero

1967年3月10日にリリースされたシングルのB面のBeck's Bolero。
このレコーディングセッションにニッキーはジミー・ペイジキース・ムーンジョン・ポール・ジョーンズと共に参加した。

1968年、このインストはジェフ・ベック・グループの実質的なデビューアルバム『Truth』に収録され、広く知られるようになる。
『Truth』ではゲスト扱いだったが、発売後に正式メンバーとなる。彼はジミーペイジからニュー・ヤードバーズ(レッド・ツェッペリンと改名)への誘いを断り、ジェフ・ベック・グループに参加したのだ。

Mill Valley

次作「Beck-Ola」ジェフ・ベック・グループが初めてクレジットされたアルバムで、ニッキーも正式メンバーとして録音に参加した。
レコーディングは1969年4月で、同年6月にリリースされた。
Girl from Mill Valleyはニッキーによるインストナンバー。
グループでのアメリカツアーで訪れたサンフランシスコ近郊のMill Valleyについて書かれている。
現地で少女と知り合い、Mill Valleyを案内されその素晴らしさに感銘を受けて作ったらしい。
そしてその後にMill Valleyがすっかり気に入り、住むことになるのだ。
Mill Valleyには、多くの芸術家、作家、ミュージシャンが住んでいて、多くの芸術作品の舞台になっていた。マイケル・ブルームフィールド、ダン・ヒックス、ジャニス・ジョプリン、ヒューイ・ルイス、ボニー・レイット、ピート・シアーズ、ボブ・ウィアーなどのロックミュージシャンが居住し、LAのLaurel Canyonにも似ていた。

Mill Valley

ジェフ・ベック・グループは5月に10日間のアメリカツアーを行い、最終ギグのサンフランシスコが終わるとベックの気まぐれとゴタゴタに嫌気が刺してニッキーは脱退。そのツアーのギャラは未払いのままだと言う。
ニッキーは「Beck-Ola」発売直前の6月にグループを脱退、アルバム発売時には既にメンバーではなかった。そしてこの第一期はウッドストックにも出演予定だったが、ベックは前日にバンドを解散。あっけない最期となる。

Sweet Thursday

ジェフ・ベック・グループと併行し、68-69年ニッキーはロンドンでスウィート・サーズデイ(Sweet Thursday)と言うグループに加入する。メンバーには後にマーク・アーモンドを結成するジョン・マークが含まれていた。一枚で自然消滅する地味なフォーク・ロック・バンドだが、今や幻の名盤として隠れた人気を誇る。

無数のセッション

1968年7月11日にはビートルズRevolutionに参加するなど、売れっ子として無数のセッションに参加する。
リック・グレッチがBlind Faith以前にいたファミリーのアルバム「Family Entertainment」に参加。これもグリン・ジョンズのプロデュースした作品で、ニッキーはジョンズ作品の常連となる。

その他、HolliesElla Fitzgeraldなど、英米を行き来しつつ多数のセッションをこなした。

4.サンフランシスコ

69年6月にジェフ・ベック・グループを抜けて、サンフランシスコに住むことになりMill Valleyを拠点にして、活発に現地のミュージシャンと交流。
卓越した技術を活かしてシスコの音楽シーンに溶け込み、その進化の立役者となるのである。
60年代をセッションマンとして駆け抜けたニッキーは、イギリスを去りアメリカに移住するのだ。

Steve Miller Band

ジェフ・ベック・グループを抜けたニッキーはロンドンでストーンズの「Let it bleed」の録音に参加するが、サンフランシスコからお呼びがかかりSteve Miller Bandの録音に参加した。
グリン・ジョンズがプロデュースした「Your Saving Grace」など3枚のアルバムに参加、一時的にメンバー扱いとなる。この時はベン・シドラン(Ben Sidran)とのツイン・キーボードと言う豪華な編成となる。
「69年半ば、当時グリン・ジョンズと仕事をしていたスティーヴ・ミラーと仕事をするためにここに来たんだ。2、3週間だけ滞在して、その後ストーンズに復帰する予定だったんだけど、サンフランシスコを離れられないって彼らに言ったんだ」とニッキーは語る。
短い予定のサンフランシスコ滞在は1977年まで続いたのだ。
名曲Baby's Houseはスティーヴ・ミラーとニッキーの共作だ。

Jefferson Airplane

ジェフ・ベック・グループのツアー中の1969年4月にJefferson Airplaneの名作「Volunteers」の録音にゲスト参加。We Can Be TogetherHey FredrickWooden ShipsA Song for All SeasonsVolunteersでピアノを演奏する。

ウッドストック

8月にはクイックシルバー・メッセンジャー・サービス(Quicksilver Messenger Service)のメンバーとなるが一時的に抜けて、8月17日ウッドストックでThe Whoの後に登場したJefferson Airplaneのステージでの演奏に加わった。
「東部で野外フェスティバルをやるからやってみないかと誘われて、3日間くらいだと聞いた。そのアイデアが気に入ったので、うん、一緒に行くよ、と答えて、一緒に行ったらウッドストックだった」。
何れにしてもイギリスでトップミュージシャンと共演したニッキーは、アメリカに来て早々にビッグミュージシャン達と同じステージに立ったのだ。
グレイス・スリックより冒頭「ニッキー・ホプキンス!」と紹介され、既に大物感を漂わせている。

ポール・カントナー、グレイス・スリック、マーティ・バリンが在籍したJefferson Airplaneの最盛期にウッドストックに出た
ウッドストックのニッキー

Jefferson Airplaneとのライブ演奏は初めてで、ほぼぶっつけ本番でブルースナンバーのUncle Sam Bluesのような曲も余裕で演奏したニッキー。ヨーマ・コーコネンジャック・キャサディと言う、後にホットツナを結成する実力者と大観衆の前で渡り合った。

イベント後のテレビ番組にも出演

Quicksilver Messenger Service

1969年8月にニッキーはQuicksilver Messenger Service(以下、クイックシルバー)に正式加入する。

クイックシルバーは1964年に結成されたサイケデリック・フォークバンド。
7月から9月まで録音を要した「Shady Grove」が12月にリリースされ、クイックシルバーのメンバーとしてニッキーの60年代は終わる。

クイックシルバーはニッキーが参加したことで大きく変貌するこのアルバムでは彼のピアノを大きくフューチャーした大幅なサウンド変化を見せ、サイケ・サウンドとメロディックで澄んだピアノの音が融合したすばらしいサウンドに仕上がっている。

Edward, the Mad Shirt Grinderはニッキーの曲で、後に彼のソロで再演される。クイックシルバーとしては異色なアルバムになるがその象徴。サイケデリックロック×プログレッシブロックのような斬新なサウンドとなる。

掘れば掘る程、ニッキーの演奏の深みにハマり、一回では収め切れずに2回に分けて紹介することにした。
その後の70年代の彼の活躍からその死までは「ニッキー・ホプキンズ 名演で辿る軌跡2. 70's 編」へ続く。


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