高橋幸宏追悼 名盤と人 第23回 ユキヒロ、歌う 『サラヴァ!』 高橋ユキヒロ
高橋幸宏(ユキヒロ)さんが2023年1月11日誤嚥性肺炎のため70歳で亡くなった。何とも早すぎる死で悼まれる。YMOデビュー直前、1978年6月にリリースされ、細野晴臣、坂本龍一、高橋幸宏の3人が本格的に揃い踏みしたユキヒロさんのソロデビュー作『Saravah!』(サラヴァ!)。YMO前夜、このアルバムを契機にボーカリスト高橋ユキヒロが誕生する。
1978年の高橋ユキヒロを辿る
サディスティックスとYMOの狭間で
『Saravah!』(サラヴァ!)は、高橋幸宏のソロデビュー作品。
高橋ユキヒロ名義で1978年6月にキングレコードから発表された。
サディスティックスにドラマーとして在籍中に録音したソロ・アルバムで、リリースの翌月7月10日にはYMOとしてレコーディングを開始している。
さらに8月にはサディスティックスの「WE ARE JUST TAKING OFF」もリリースされている。
つまりサディスティックスに所属しつつも、YMOに片足を突っ込みながらの両属中と言う狭間時期に作られた作品だ。
サディスティックスは1975年にサディスティック・ミカ・バンドが解散し、残った高中正義、後藤次利、今井裕と高橋で76年に結成された。
そして「Saravah!」リリース後の8月九段会館で行われたライブ(ゲストに村上秀一等)をもってサディスティックスは活動休止した。
高中は併行してソロ『SEYCHELLES』を発表、フュージョンブームに乗り、後には人気ギタリストとなる。
「Saravah!」録音前の1978年2月19日。細野晴臣のソロ「はらいそ」のファム・ファタールのレコーディングで、細野晴臣、坂本龍一、高橋ユキヒロのYMOの3人が初めて揃って演奏することになった。
この日、細野が2人を自宅に招き、コタツを囲んでYMO構想を話したと言われ「こたつの夜」とも呼ばれ、ここにイエロー・マジック・オーケストラが事実上結成されたのである。
ボーカリスト高橋ユキヒロの誕生
そして78年3月には「Saravah!」のレコーディングとなる。
「Saravah!」には坂本龍一が全曲の編曲に携わっており、細野はベースで坂本はキーボードで全曲に演奏に参加し、3人の絆は急速に深まっていく。
細野の『はらいそ』からYMO結成に至る重要な過渡期に「Saravah!」は制作されていた。
本作にはYMOの2人が全面参加、他にも鈴木茂、加藤和彦、高中正義、山下達郎、吉田美奈子、斉藤ノブ、バズ、大村憲司、Rajieと豪華なメンバーが参加した。
サディスティックスからYMOに至る中間点に作られ、またドラマーだった高橋ユキヒロがYMOでボーカルをとるきっかけとなった本作。
「あの頃、歌なんて歌ったことないんだから」と語る高橋。サディスティックスで数曲歌ったことがあるくらいで、ほとんど歌ったことがなかった。むしろ細野晴臣の方が歌手として実績があった。当時は細野晴臣の歌い方が好きで「細野さんのように歌った」とも語っている。
坂本龍一の証言
「『サラヴァ!』は僕と幸宏で作ったようなものじゃないですか。完成したときに、すぐ細野さんにカセットで聴かせたんです。細野さんにどう評価されるかっていうのに、僕らはすごく関心があって。とにかく幸宏のヴォーカルがいいというのを、最初に言っていたんですね」
細野はこのアルバムのボーカルを聴いて、YMOのボーカルはユキヒロと決めたと言う。
1978年4月、細野晴臣「はらいそ」リリース。
6月に高橋ユキヒロ「Saravah!」リリース。
7月10日、YMOがレコーディングを開始。(9月5日まで)
9月に矢野顕子の「ト・キ・メ・キ」ツアーにYMOのメンバー3人が参加。
10月には坂本龍一の「千のナイフ」リリース。
ジャケットのスタイリストは高橋ユキヒロが担当。ジョルジオ・アルマーニのジャケットにリーバイス501ジーンズというスタイリングで、草履履きだった坂本のイメージを一変させた。
YMOの3人にとって多忙な1978年は後半に差し掛かり、11月25日YMOはデビュー・アルバム『イエロー・マジック・オーケストラ』をアルファレコードより発売する。
しかし、発売直後はチャートは69位と振るわなかった。
シティポップの名盤「Saravah!」を聴く
パリ好きとファッション
ユキヒロはファッションブランド「Bricks」を運営しデザイナーとしても活動しており、コレクションを観るため毎年パリに行っていた。
ファッションのプロでもあり、後のYMOの赤い人民服も彼のアイデアだ。
自分も大学生の時にはミーハー気分で渋谷PARCO Part2の地下にあった
「Bricks」に通ったものだったが、高くて自分には手が出なかった。
自分はアウトドアやトラッド好きだったが、ついでにPARCOに入っていたBIGI、NICOLE等のデザイナーズ・ブランドを見学するに連れてデザイナー系の服にも関心が湧いてきた。
後には自分もファッションに関わる仕事をするのだが、その道標はユキヒロさんが作ってくれたと感謝している。
UAの栗野宏文さんとの対談ではファッションは加藤和彦の影響が強いと明かしている。
アルバムタイトル「Saravah!」はフランスの音楽家ピエール・バルーのボサノヴァを広めるためのレーベル「サラヴァ」が由来である。後にバルーのアルバム『ル・ポレン(花粉)』は、高橋幸宏、加藤和彦らがサポートしている。本作のビジュアルイメージはフランスを借りながらも、実はラテン風味なのもバルーのレーベル(サラヴァ)の影響なのか。
A-3のシングルカットしたC'est si bon(セシボン)は、シャンソンのスタンダードナンバーをレゲエ風のアレンジにしている。
参考にしたのは、映画『パリのめぐり逢い』で好きになったイヴ・モンタンの「セ・シ・ボン」。この映画で音楽を担当していた映画音楽の巨匠フラシス・レイにも憧れていた。
またジャケットのため写真だけ撮りにパリまで行き、写真家・鋤田正義がコンコルド広場で撮影した。鋤田正義はYMOとの仕事で知られるが、David Bowie「Heroes」のジャケット写真は彼のものである。
ギターは鈴木茂。コーラスはバズ(BUZZ)とラジ(Rajie)が担当している。
BUZZはユキヒロの兄信之がプロデュース。メンバーの東郷昌和は立教中学校時代の同級生であった高橋とバンドを結成していた。
Rajieは高橋が全面的にサポートしていた女性シンガーで、77年リリースのHoldme tightは高橋の曲。
A面はカバーで構成
『Saravah!』においては、C'est si bon(セシボン)以外にもカバー曲を取り入れている。
スタンダードナンバーのカバーと言うと、同じドラマーからボーカルに転身したRingoStarrの「センチメンタル・ジャーニー」が想起され、発売当時は本作は購入しなかったが、後にはその認識が誤っていたと気付いた。
A-1「VOLARE (NEL BLU DIPINTO DI BLU)」の原曲はイタリア歌曲カンツォーネで、Gipsy Kingsによるバージョンが有名である。本作ではボサノヴァのリズムにすることでラテン風になっている。
ギターは鈴木茂。坂本龍一がピアノ、そしてストリングス・アレンジで「教授」と言われるのも頷く活躍をしている。
高橋は「音楽的なことを彼に相談すると、非常に明快でロジカルな答えが返ってくるわけ。そこで彼に『教授』というあだ名を付けた。命名者は、僕です」と明かした。
A-5「MOODINDIGO」はDuke Ellingtonのカバーだが、歌に重なるシンセに、直後のYMOの原型がある。
山下達郎、吉田美奈子のコーラス
「Saravah!」B面のトップElasticDummyはinstrumentalで坂本の曲。YMO直前のinstrumentalということで、YMOへの橋渡し的なニュアンスもある。
まずは山下達郎と吉田美奈子による豪華なコーラスに耳を奪われる。。
当時の山下は77年に名作『SPACY』をリリースするが、売り上げは不調に終わっていた。78年にはライブ『IT'S A POPPIN' TIME』リリース。1977年よりバックバンドは村上秀一(ドラム)、岡沢章(ベース)、松木恒秀(ギター)、坂本龍一(キーボード)で、坂本と山下の関係性が濃厚な時期でもあった。
山下達郎の売上が軌道に乗るのは1979年の『MOONGLOW』まで待たなくてはならない。(日本レコード大賞ベスト・アルバム賞受賞)
アース・ウィンド&ファイアー的なストリングスとブラスが入り、達郎バンドの同僚、松木恒秀によるギターのカッティング、軽快なパーカッション、ファンキーな細野のベースライン、そして、高橋らしいドラムミング。さらには中盤で、坂本の早弾きシンセソロもフューチャーされており、ソウル的なインストながらテクノ的なエッセンスが散りばめられる。
坂本によると『これが出来て……40年前にね。すぐ細野さんに聴かせたんですよね。そしたらね「ELASTIC DUMMY」のアレンジはすごいいねって』と賞賛されたらしい。
このアルバムの裏話が満載の高橋・坂本対談があるので、貼っておく。
ドラマー高橋ユキヒロとベース細野晴臣のコンビ開始
また、この作品は「はらいそ」のファム・ファタールで実験的に演奏したYMOの3人が、本作で初めて一枚丸ごと演奏を共にした、という意味で歴史的な一枚でもある。
特に、ドラマー高橋ユキヒロとベース細野晴臣という、長きに渡ってコンビを組むリズムセクションのテクノではないシティポップが堪能できる。
加藤和彦よるラテン風味のAORナンバーのA-4 La Rosaはそんな曲。
松木恒秀 加藤和彦 鈴木茂 大村憲治という4人のギタリストが演奏。
林立夫がパーカッションでも参加。
細野がティンパンアレーで林立夫、鈴木茂らと作り上げたサウンドをひと世代下の坂本、高橋と昇華させたようなシティポップが展開される。
一聴して細野とわかるチャック・レイニーのようなベースラインと細野を手本にした高橋のボーカルは、細野のアルバムと勘違いしそう。
La RosaとA-2のSunsetには76年リリースのスティーヴィー・ワンダーの『キー・オブ・ライフ』 (Songs in the Key of Life)の影響があるらしい。
Sunsetで見せる坂本龍一の100%手弾きらしいシンセが、すぐ後にやって来るYMOへの流れをここでも感じさせる。そしてここでもチョッパーなど小技も効かせた細野のベースが躍動する。ギターソロはプリズムの和田アキラ。
ジャケットのイメージやスタンダードのカバー等でヨーロピアンなイメージを勝手に思い浮かべ敬遠して、当時は本作を購入に至らなかった。
が、これは全くの誤解で、特にB面は1曲目のソウル色のあるインストナンバーで開始し、その後に続くのは紛うことない「シティポップ」だった。
ラテンやソウルの香りをさせつつも、ヨーロピアンでテクノ的なエッセンスも匂わせたユキヒロならではのシティポップの名盤。
アレンジと斬新なキーボードプレイでこの世界を実現した坂本、そして強烈なベースでリズムを導いた細野。
「シティポップ」という言葉がなく話題は乏しかったが、2人とのトリオで高橋はボーカリストとしての最良のスタートを切ったのである。
本作が名盤であることは、レコードコレクターズの「シティポップ名曲ベスト100」にここから4曲も選ばれたことからも伺える。
『Saravah!』のヨーロッパテイストは先駆者として路線は、1980年のフランスをテーマにした大貫妙子の「romantique」、ヨーロッパ三部作の一環でベルリン録音した加藤和彦の「うたかたのオペラ」に引き継がれて行く。
そしてYMOへ
YMOのリード・ボーカル高橋ユキヒロ
そして高橋はリリース後の翌7月から録音が始まるYMOの「中国女」の頃から、歌うことを本格的に意識し始めたと言う。
『細野さんに「幸宏をリード・ボーカルにしよう」と言われて。それで、この「中国女」や「デイ・トリッパー」を歌ったんですが、特に「中国女」は音程があるのかないのか、みたいな歌い方(初期のブライアン・フェリー的、もしくはディランを気どって)に加え、あえてエフェクターでグシャグシャにしていたから、しばらくの間、フー・マンチュー唱法と呼んだりしていましたね。』
ブライアン・フェリーはサディスティック・ミカ・バンドが前座も務めたRoxy Musicのボーカル。
実は自分はYMOを聴き始めてから一切アメリカのロックは効かなくなり、イギリス、ヨーロッパのロックに転向するのだが、手始めがロキシーだった。Roxy Musicは解散中だったがこの頃再結成。 「Manifesto」 (1979年 )『Fresh + Blood』(1980年)。そして名作『Avalon』(1982年)をリリース、ドラマーにAndyNewmarkを起用するなどアメリカ寄りのサウンド志向となり、自分のようなリスナーにも聴きやすくなった。
そして78年11月YMOのデビュー・アルバム『イエロー・マジック・オーケストラ』が発売されるが69位止まり。
『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』から『BGM』
翌年1979年8月にThe Tubesの前座としてロサンゼルスGreek Theaterで初の海外公演、その模様がNHKのニュースで報道されると人気に火が付く。
そして1979年9月にリリースされた『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』は1位を獲得し、爆発的なテクノブームが巻き起こる。
アメリカン・ロック少年だった自分も大学に入るとテクノカットになり、日比谷野音で開催されていたシーナ&ロケッツやプラスティックスたちが出ていたテクノ・フェスを観に行くようになる。
1980年12月のYMO武道館4Daysには何枚も葉書を買いて応募し当選。矢野顕子、大村憲司、松武秀樹を加えたベストメンバーでのライブを拝んだ。
ファッション好きな自分は自然と3人の中ではユキヒロ推しとなった。
デビューアルバムから1979年『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』、1980年『パブリック・プレッシャー/公的抑圧』『増殖 - X∞ Multiplies』と買い続け、1980年のソロ2作目「音楽殺人」も買った。
ドラマーとして参加したサディスティックスの1979年「LiveShow」、坂本と渡辺香津美とのプロジェクト「KYLYN」も買い、彼を追い続けた。
が、1981年の『BGM』も予約して買ったが、実験的な内容過ぎて困惑してしまう。(今では一番好きな名盤だが)
BGMでYMOからは離れるが、洋楽の趣味もアメリカ志向からヨーロッパ志向に変わりRoxy Music(1983)、David Bowie(1983)、Culture Club(1984)と観る来日公演も様変わり。
ハイライトは1983年の夏の暑い日に箱根の野外で開催された高橋ユキヒロ・スペシャルバンドとRCとのジョイントフェス「POP'83 inHAKONE」。
スペシャルバンドと言うだけあってツアーメンバーは豪華だった。
・鈴木慶一(キーボード)
・立花ハジメ(サックス)
・ビル・ネルソン(ギター)
・デヴィット・パーマー from ABC(ドラムス)
ゲストに細野晴臣
ドラマー高橋ユキヒロの変貌
『サラヴァ!(Saravah!)』を聴いて印象的だったのはサディスティック・ミカ・バンド→サディスティックス→YMOと進化した高橋のドラムに知られざる「ミッシングリンク」があったこと。
パワードラマーではない代わりに、手数の多いテクニシャンだった高橋がフュージョンを経て、YMOでクリックと同期するような正確無比なドラマーに進化したと理解していた。
ミカ・バンドの「黒船」のイントロで聴かれる高橋のフィルは最高!
実は、村上秀一などとツインドラムをすると、グルーヴ感が違い「走る」と言われ悩んでいて、という意外なエピソードもある。それがクリックで矯正されたらしい。
『Saravah!』では、好きなドラマーとして挙げていたBernard PurdieやAl Jacksonのような手数の少ないタメを効かしたドラミングとユキヒロらしいスネアの響きも印象的だった。
インタビューで『Saravah!』はイギリスでない自分のルーツであるアメリカ西海岸やソウルの影響を受けた数少ない作品、と高橋は語っていた。
当時チャック・レイニーにはまっていた細野とのコンビもそのリズム感を引き出したのだろう。
1978年9月という『Saravah!』直後にリリースされた大貫妙子の『MIGNONNE』。海と少年では、高橋ユキヒロ(Drums)、細野晴臣(Bass)、坂本龍一(Keyboards)という『Saravah!』と同じメンツで、半年で終わった高橋の「シティポップ」ドラムが聴ける。
このドラムスタイルは封印され、YMO的無機質なドラミングがしばらく続くのである。
最後にYMOのプログラマー松武秀樹の言葉を引用してこの回を終わる。
松武:ドラムはリズムキープもすごいけど、音色の作り方というか叩き方というか、それを表現できるドラマーはその頃、幸宏さんしかいなかったと思います。
追伸
その後放送された細野晴臣氏のDeisy Holidayで高橋幸宏特集が放送。オンエアされたプレイリストが公開され、その中の2曲がSaravah!からだった。
『サラヴァ!』(Saravah!)
A面
VOLARE (NEL BLU DIPINTO DI BLU) / ボラーレ
SARAVAH! / サラヴァ!
C'EST SI BON / セ・シ・ボン
LA ROSA / ラ・ローザ
MOOD INDIGO / ムード・インディゴ
B面
ELASTIC DUMMY / エラスティック・ダミー
SUNSET / サン・セット
BACK STREET MIDNIGHT QUEEN / ミッドナイト・クィーン
PRESENT / プレゼント