「不協和音」の向こうに映る未来 森山直人
聴いたことことのない「不協和音」を聴いた。
『ノー・ライト』を見終わって、しばらく経ってから振り返り、思い出してみたとき、私自身が、この作品から受け取ったものは、ほぼこの一言に集約される。極論すれば、それ以外は、ほとんど思い出せない。私は2012年の初演も14年の再演も見ているので、木津潤平による圧倒的な舞台装置も含めて思い出せることはもちろんある。けれども、思い出そうとすると身体が拒絶する。思い出そうとして思い出せる内容が、ライブでの体験とくらべてあまりにも貧しいことが、思い出す前から分かるからである。
ともかく『ノー・ライト』の情報量の多さと密度は、圧倒的だった。それは、日本語のみで上演された初演と再演(『光のない。』というタイトルだった)の印象と比べても明らかである。いうまでもなく、イェリネクの「反‐物語的」な劇言語自体、そもそも情報量も多いし濃縮度も高い。だが、日本語のみでイェリネクが「演奏」されると、そのなかにもある種の心地よさ/ハーモニーのようなものが時折生まれる瞬間がある(ピアノソロにはピアノの響きだけで奏でられることで生じる安定感がある)。その点でいえば、今回の「マルチリンガル版」は、バラバラな楽器がバラバラに響きを奏でつづけるようなものだ。そこに初演以来の、三輪眞弘による特異な合唱隊による奇妙な声の塊が打ち寄せていく。
私は、今回の『ノー・ライト』のすべてがうまくいっていたとは思わない。特に、冒頭からの30~40分ほどは、異なる俳優による異なる言語が切れ目なく連続しすぎて、この作品を作品たらしめる固有のリズムの生成が感じられなかった。当然だが、演劇は、台詞の意味と同様に、そこに生み出される空気やリズムが物を言う。異なる俳優の声と身体がそれぞれに発する外国語のリズム――あえていえば「訛りのようなもの」――が生み出す多様なニュアンスのノイズは、もっと丁寧に活用されてもよかったはずだ。他方、ラスト30分ほどのなかで生まれたたたみかける言葉のリズム/ノリが、合唱隊の猛烈な不協和音とともにせり上がってくる時間は、まさに唯一無二というほかない。無数の重い砂粒が、突風にのって全身にこびりついてくるようなあの時間は、イェリネクの劇言語と間違いなくシンクロしていたのだと思う。おそらくそれは、「分断の時代」を生きる私たちが、いま、心の底から欲している「不協和音」でもある。左右どちらにせよ、「分断」の双方を彩る醜悪な政治的「一体感」を、断じて認めない政治的「不協和音」こそが、私たちの微かな希望なのだから。
ドイツ語、韓国語、フランス語、スペイン語、ロシア語、英語、日本語の7ヶ国語で上演する「マルチリンガル版」によるイェリネクの上演。ほとんど無謀ともいえる実験を曲がりなりにもやってのけることができる劇団は、現代日本においては、さしあたり、やはり地点を置いてほかには見当たらない。どのような経緯で生まれたものであれ、ここでの演劇的実験の成果は、まともに受けとめられるべきものである。
(演劇批評)