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『罪と罰』の問いと答え5 エレーナ・ゴルフンケリ

概して休止(ポーズ)の手法は、この日本人演出家が好むもののひとつだ。それが彼流のアクセントである。小さな、そして同じくドラスティックな編集を経たマルメラードフ(ルスタム・ナスイロフ)も、休止の手法をベースに作られている。果てしない自分語りのセリフから切り取られて残された断片を道連れに、何度か酔った足取りで橋の下から這い出して来ると、マルメラードフは(ドストエフスキーの原作ではしっかり馴染みになったはずの)ラスコーリニコフを見ても知らんぷりのまま、演出家が「ストップ」の声を掛け

『罪と罰』の問いと答え4 エレーナ・ゴルフンケリ

ここでまた日本で構想されたこの芝居におけるロシア性という話題に戻るべきだろう。ロシアの俳優たちは三浦基の提起した構想やイメージに従い、それもかなり正確に実現することに成功したが、成功したのはそれだけではない。彼らはそこから、作者の志を傷つけることなく、自分なりの興味や利益を引き出している。例えばセリフの冒頭の「ア」と「オ」の音だが、ロシアの俳優には日本語のような軽い音の飛翔がない。その代わり彼らには、我が国の舞台経験から生まれる自然な、微細な感情のニュアンスがある。演出家が提

『罪と罰』の問いと答え3 エレーナ・ゴルフンケリ

日ロ共同版の『罪と罰』の主題は何か? 私はこれが意識の運命的な過ちについての劇だと思えた。傲慢な知性を持った近代人が偽の目的のために一線を〈踏み越える〉物語。付言すれば、彼の知性とは、性急な知性だ。せっかちなこと――それが近代人のメンタリティーである。小説の中でラスコーリニコフは例の「論文めいたもの」を書き、あれこれと推論し、考察した。そうして自分の人生を一新することのできる出来事に向けて、準備を重ねた。ドストエフスキーの登場人物にとって大事なのは根拠であり、そしてみじめな存

『罪と罰』の問いと答え2 エレーナ・ゴルフンケリ

そして今回は日本流演出のロシア版である。何よりも興味深いのは、この地の、BDTの舞台で、京都で行われたことの多くが、より明確化されていることだ。時にはそれが全く新しい形で展開されている。それでこんな問いが生まれる――ロシア人の俳優たちが演出家の解釈に影響し、彼らが何か自分たちの、独自のものを持ち込んだのか? あるいは演出家自身が、改めてロシア的な土壌に合わせた形で、何らかの部分やモチーフについての考察を深めた、あるいはまったく発想を変えたのか? そう、影響もあったし、また発想

『罪と罰』の問いと答え1 エレーナ・ゴルフンケリ

近年ドストエフスキーの小説『罪と罰』への関心が増しており、演劇界においても同様である。関心が高まるとともに、演劇界がこの小説及び作者に寄せる問いの数も増えている。古典作品が時代を経るうえで、これは自然な現象であり、作品はますます難解なものとなる。古典は世界とともに時間の中を移動しながら、その時々の〈与えられた状況〉を吸収し、昔から知られた筋を様々な見知らぬ方向へと展開させていく。二人の人間を殺した主人公ラスコーリニコフは、後悔したか? その後悔の代償は何だったか? 自己を確立

発音の矯正、発語の強制〜三浦基演出日記【音声配信】

海外ツアー通信 その4 eSIMと台詞

今回のツアーでいよいよ実感したのは海外で通信環境が悪くて困るということも今後なくなるんじゃないか、ということでした。世界100カ国以上を旅したイモトさんが、最近はどんな僻地に行っても現地の人がスマホを使っている、と言っていたインタビューを読んだことがありましたが、われわれもスマホを手にした人類の一員として、Wi-Fiさえ通じれば自らの端末を駆使し、目的地までの交通手段を調べ、スーパーやコンビニの位置を検索するようになりました。 さて、劇場とホテル、空港や大きな駅ではWi-F

海外ツアー通信 その3 それはmakitaの差

今回上演をしたのは、フランスのエヴルーという街とポーランドのラドムという街。どちらも郊外にある、公共の劇場でした。ヨーロッパの中心に君臨してきた(と言ってよいと思われる)フランスと、東欧のポーランド。言語の違いも文化の違いも当然あるのですが、旅する劇団として現場で味わった違い…、それは端的に言って、インパクトドライバーの違い、でした。 今回、舞台装置は日本から送ったのですが、総重量550kgほどの装置は、いずれも100kgほどの木材でいかつく梱包されて二個口に。この梱包を荷

家畜にもなれなくなった今〜三浦基・演出日記(ポーランドから)【音声配信】

海外ツアー通信 その2 ロストバゲージ〜クラクフでの15時間

海外旅行のトラブルの王道といえば手荷物遅延(lost baggage)ですが、今回のツアーで集団ロストバゲージを経験しました。フランスからポーランドまでの旅の終着点、クラクフの空港で総勢16名、合計17個の受託荷物が一つも運ばれていないという事態に。個人では一度、サンクトペテルブルクで経験していたロストバゲージ、ツアーで経験するのはさすがに初めてで、深夜の空港でかなりの絶望感を味わいました。 とりあえず他のメンバーは先にホテルにチェックインしてもらうことにして、全員の荷物タ

海外ツアー通信 その1 チェーホフの台詞といっしょに歩く外国のまち

『ギャンブラー』フランス・ポーランドツアーも、3分の2が過ぎ、エヴルー、パリ、クラクフを経てラドムにやってきました。地点の海外ツアーは2019年のノルウェー・オスロでの公演以来、ほぼ3年ぶりになります。 今回、メンバーの多くがいつもよりひどい時差ボケに悩まされている様子。久しぶりの海外だからなのか、コロナを経て、子育て中のメンバーも増えたため、夕方17:30には稽古が終わるという完璧に昼型の生活に慣らされていたためか、あるいは歳をとったからなのか……。諸説ありますが、それで

ノルウェーのニーノシュク〜『だれか、来る』(2019)

ノルウェーの劇作家、ヨン・フォッセ。毎年ノーベル文学賞候補にあがっていることは日本ではあまり知られていないかもしれません。 地点は京都移転前の2004年に『ある夏の一日』『眠れ よい子よ』『名前』の三作品を本邦初上演。同時期には、今は亡き太田省吾さんがフォッセの代表的戯曲『だれか、来る』の本邦初上演を手がけました。 2018年にアンダースローのレパートリーとして、再びフォッセ戯曲に取り組んだ地点。翌19年に、オスロのDet Norske Teatretが主催するフォッセ・

サンドウィッチとは立って食べるものだった

もう20年も昔になってしまったが、フランスはパリ郊外にあるナンテール劇場で研修していた頃、私はサンドウィッチを座って食べることがなかった。劇場の中二階にあるカフェテリアは本番がない時間帯でも常にオープンしていて、劇場スタッフや関係者の胃袋を一手に引き受けていた。休憩時間には日本からやってきた演出家の卵を珍しがってか、方々のテーブルから呼び出されては、稽古の感想や昨日見た演目についてどう思ったのかを聞かれるのである。 当時の私は毎日のように劇場に通っていた。2年間の研修期間中

ヨーロッパでもアジアでもない食堂

あれはどこの劇場だったのか。テーブルには花柄のクロス。サリャンカと呼ばれるトマトとソーセージの刻んだものが入っている酸っぱいスープ。それに黒パンを浸して食べる。食堂のおばちゃんは無言でヨーグルトをテーブルに置く。それをスープにかけろと目で言っている。酸っぱいスープはさらに酸っぱくなって病みつきになる。その魔法のヨーグルトは、スメタナと呼ばれるサワークリームで、ここの人たちはたいてい、何にでもこれをかけて食べることを知るのは、後になってからだ。そう、ここはロシアのどこか地方の劇