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『罪と罰』の問いと答え5 エレーナ・ゴルフンケリ
概して休止(ポーズ)の手法は、この日本人演出家が好むもののひとつだ。それが彼流のアクセントである。小さな、そして同じくドラスティックな編集を経たマルメラードフ(ルスタム・ナスイロフ)も、休止の手法をベースに作られている。果てしない自分語りのセリフから切り取られて残された断片を道連れに、何度か酔った足取りで橋の下から這い出して来ると、マルメラードフは(ドストエフスキーの原作ではしっかり馴染みになったはずの)ラスコーリニコフを見ても知らんぷりのまま、演出家が「ストップ」の声を掛けた時のような格好で数秒間その場に凍り付く。大きく開けた口、左右に大きく開いた手、途方に暮れたまなざし――その姿は罪のために動きを封じられ、塩の柱と化した人のようだ。だがたちまちわれに返ると、巨大な道化人形さながらに、あたりをふらふら動き回る。きっとマルメラードフのこのストップモーションは(日本の伝統芸能の用語をあえて使わせていただくならば)、歌舞伎の一要素である〈見得〉、すなわち感情を圧縮し、シーンの絵画性を強化するために必要な、生ける塑像なのだ。だがもしマルメラードフがいつも酩酊状態であるのを考慮するなら、古来の日本演劇伝統のうちでも、これはむしろ狂言から持ち込まれたユーモラスな手法かもしれない。おまけにマルメラードフが固まってしまう場所がほぼ橋のたもと、ほぼ足場のふもと、ほぼ〈花道〉(これも十分伝統的な通路だが、ただし180度客席の方に向けられている)のたもとであるところからして、笑劇とドストエフスキー流悲喜劇的メロドラマを巧妙に結びつけようという、このエピソードのアイロニカルな含意が理解される。
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膝をついた姿勢で演じられる場面が多い――カテリーナ・イワーノヴナとルージン、ソーニャ、ラスコーリニコフとソーニャなどなど。カテリーナ・イワーノヴナにいたっては、ルージンの悪だくみを暴くため、ソーニャの周りを膝立ちで回って反対側のポケットを裏返して見せようとする。我々ロシア人の目で見ると、これは恥ずかしくまた滑稽だが、日本の演出家の観点からすれば、幾分の滑稽味はありうるものの、ピッタリ効果的な表現のようだ。登場人物たちはまるで足萎えか小さな子供のようだ。情熱的表現、張り切った大声の演説、悲劇的なポーズといったものは排除されている。三浦演出は言葉の緊張を、ストイシズム(ロシア風にいえば雄々しい忍耐性の意味)を緩和し、演劇らしい生き生きとした表現を存分に展開する。ラスコーリニコフとソーニャが膝立ち状態でもみ合い、腕がもつれ合う場面では、芝居のテクストが言葉だけでなくエネルギッシュな身振りで成り立っている。我が国の観衆には奇妙な言語、私流にいえば〈異国の言語〉である。三浦演出でラスコーリニコフが周囲の目に見えぬハエを追い始めるシーンでは、一般の観衆はさらに理解の困難さを覚えるかもしれない。そんなナイーヴな相手には、誰かが、これはサルトルの悲劇『蠅』からダイレクトに採られた報いの比喩だよと教えてあげることになるだろうか? あるいはもしかして、何も教えるには及ばないだろうか?
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三浦演出において、身振りは普通のありふれた概念から多義的なシンボルとしての概念に移行している。たとえば『ワーニャ伯父さん』では、劇の登場人物たちがちょっとでも体が触れ合うとぱっと互いに飛び退く。ボール同士がぶつかると音がするように、三浦版チェーホフの主人公たちは、他人の体に接触すると驚きの叫びをあげるのだ。近さが、それも身体的な近さだけでなく、あらゆる近さ、人間的な近さが、この人たちにとっては問題となるのである。彼らは互いを恐れている。お互ひとつの狭い空間にいて、血縁的にも近いのは疑いないし、昔から互いに見知っているのに。この恐れは日常を超えたもので、音や驚きの声といった演出法で伝えるほかはないのだ。
『罪と罰』の身振りも同じく、大小、快不快を問わず、関係の、コミュニケーションの指標である。この点から見るとアリョーナ・イワーノヴナは〈無言の人〉で、彼女には(主なセリフを除いて)言葉でも身振りでも語る中身がない。レベジャートニコフは本の山のかげにとどまっていて、身振りのシンボルどころではない。ミコールカは何かしら頭について離れないトレモロに合わせて絶えず片手の指をくねらせている。アクティヴな人物ほど身振りも多くなり、注意を喚起したり、咎めたり、急かしたり、呼び止めたり、笑ったりする。通例の身振り同士の衝突(セリフ同士の交通事故とでも例えることができるかもしれない)の後では、互いの笑いで緊張が緩和される。すると主人公たちは身振りと交歓と笑いに心を満たされ、一時ばらばらに散っていく。このような演劇言語に対して観客には、すくなくとも注意深く見ることが要求されるし、より深く理解するためには素養が要求されるものだ。
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三浦基の芝居は観客を成長させる――そんなふうに私は言いたい。それもうれしいことにゴーリキー記念であれトフストノーゴフ記念であれ、ボリショイドラマ劇場の観客に限らず、偉大なる舞台の伝統について共通の記憶を持った全ロシアの観客を。今回の企画の大胆さは、この日本人の演出家がわがロシアの演劇に合わせようとしなかったことにある。彼は自分の原則を提起した。劇団はそれを受け入れた。二つの顔を持つ『罪と罰』の命運は、今や第三の者たちの手中にある。それが幸せな運命をたどることを、そして今度のことがヨーロッパとアジアの共同創作の最後とならないことを願いたい。
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エレーナ・ゴルフンケリ
ロシア国立舞台芸術大学(サンクトペテルブルグ)教授
原文
Елена ГОРФУНКЕЛЬ «Вопросы и ответы «Преступления и наказания»», 『Slavistika: 東京大学大学院人文社会系研究科スラヴ語スラヴ文学研究室年報』37巻、2023年、5-20頁。
https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/records/2008004