「陰翳礼讃」臭いモノには蓋をしない
久しぶりに「陰翳礼讃」を開いてみた。
結構、最初のほうに厠に関する、谷崎流の解釈が書かれている。
されば日本の建築の中で、一番風流に出来ているのは厠であるとも云えなくはない。総べてのものを詩化してしまう我等の致祖先は、住宅中で何処よりも不潔であるべき場所を、却って、雅致のある場所に変え、花鳥風月と結び付けて、なつかしい連想の中へ包むようにした。
谷崎潤一郎「陰翳礼讃」 中公文庫より引用
この考え方はいい…と思った。
臭い物に蓋をする
という言葉がある。谷崎のこの厠への捉え方は、いわば、この考え方の逆だからだ。
「臭い物に蓋」をした、その時はいいかもしれない。隠すことで、一時は忘れられる。けれど、根本的な解決にはならない。
「蓋」をすることで、中で思いもよらぬ醸成がなされたり、化学反応が起きたりすることがある。そして時を経て、「蓋」をしたことさえも忘れた頃に、突如爆発して凄まじい威力で持って、私たちのエネルギーを根こそぎ持って行ってしまうことがある。
私たちの人生では、常に起こりうる。
「蓋」の下に閉じ込めるのは、自分の仕事の失敗であったり、人に知られたくない秘密であったり、様々だろう。
隠し続けるというのは、意外と精神的な苦痛を伴うこともある。それをずっと背負い続けるのは、大概辛い。そして、いつ「蓋」が外れるのか…という不安を抱えるリスクをも負う。
ならば、それを典雅なものに変えてしまえばいい。そして包み隠さず、公衆に晒す。
もちろん、もともとが臭いものなのだから、美しいものに変えるのは、大層難しいであろうし、面倒くさいだろうとも思う。
とは言え、そこで労力を使っておけば、後々思わぬ発酵をされて、異臭を放ち始める心配をする必要もないし、異臭を放ち始めた際に損なわれるかもしれない人間関係や、自分への信頼を失うことのリスクなどを思えば、十分に時間を割くに値するのではないだろうか。
大抵嫌なことの尻ぬぐいというのは、精神的ダメージが大きいのに変わりがない。それならば、まだダメージが小さいうちに、敢えて、それがあっても邪魔にならぬ、寧ろ居心地がいいモノになる趣向へと変える。
何ともまあ、人生を楽にする粋な工夫ではないかと思った。
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