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天才騎手を襲った悲劇〜三輪和雄「騎手 福永洋一の生還」を読んで
医学の専門家によるドキュメント作品
先日ダービー3勝目を飾った福永祐一騎手の父で1970年代に七年連続でリーディングジョッキーに輝き一時代を築いた福永洋一騎手の落馬事故、手術、リハビリまでの過程を描いた医学ノンフィクション。
著者は脳神経外科の医者であり、ノンフィクション作家としても数十冊の著作があるという。
専門家による落馬事故直後の容体や緊急処置、症状や手術の描写は生々しく、息を呑んで読んだ。本書では事故やその後の経緯以外に、天才と称された騎乗ぶりについてもページが割かれ紹介されているので、福永洋一について断片的にしか知らなかった自分にとってはすごく新鮮だった。
福永洋一の事故、その後のリハビリ、息子・祐一のデビューについて、何冊か書籍が出ている。インタビュー記事も多く、福永洋一の存在というのはそれだけ稀有だったし、その後の家族のドラマもまた作り物の物語を遥かに上回る悲喜こもごもがあるのだと思う。
自分も、この本をきっかけにして他の関連の書籍にも手を伸ばしている。
![騎手 福永洋一の生還](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/56530795/picture_pc_c9d2deaa22a3da73821bca59043258a4.jpeg?width=1200)
スター騎手が表舞台から消えた日
昭和54年3月4日。
この日、阪神競馬場のメーンレースとして組まれていたのが毎日杯。このレースに勝った馬は、中山競馬場で行われる皐月賞への最終切符を手にできるということで東上最終便と言われていた。
そして福永洋一が騎乗していたのが牝馬のマリージョーイ。
トップジョッキーの彼にとってマリージョーイは牡馬戦線の皐月賞ではなく牝馬クラシックの一冠目・桜花賞を狙う手駒の1頭であり、この毎日杯でマリージョーイの実力を見極める意図があったようだ。(他のお手馬として、桜花賞を実際に勝ったホースメンテスコ、3着のマーブルマッハもいたという。)
好事魔多し。悲劇は最後の直線で起きた。
前を走っていた馬が落馬し、落馬した騎手に接触したマリージョーイがバランスを崩し、福永洋一は馬場に叩きつけられた。福永洋一の反射神経が良すぎたせいで却って最悪の事態が引き起こされてしまったとも言われているらしい。(上・本書の表紙写真の白いメンコをつけた馬がマリージョーイ。)
福永洋一はこの年も順調に勝ち星を積み重ねリーディング1位だった。しかし、翌週から競馬場に彼の姿はなくなった。
当時のライバル、武豊の父である武邦彦は福永洋一がいなくなった後の競馬について、こう言ったという。
洋一くんがいなくなって、レース展開が変ったというわけでもないけれど、彼はひとりで勝ってたから、今はみんなで勝っているという感じだね。
天才と言えば福永洋一
自分は福永洋一の現役時代は見ていない世代だけど、田原成貴が「天才と言えば(自分などではなく)洋一さんでしょう。」と答えているのをインタビュー記事で読んだことがある。
今回、この本を読んだことをきっかけに福永洋一のことをもっと知りたくなっていろんな本や記事を改めて漁っていたら、息子・福永祐一の師匠である北橋調教師はこんな風に福永洋一を評していた。
独特の閃きで乗った騎手で、野球でいえばファインプレーの連続やった。(Number No.389「福永祐一は、北橋厩舎一年生。」より)
ファインプレーの連続
”ファインプレーの連続”とは、どういうことだろうか?
言うまでもなく、ファインプレーと言えば野球の試合で一日にあって一度、多くて二度、というイメージ。一日に一度も生まれなくても、ちっとも不思議ではない。そのぐらい、見ていて「・・あっ!」と思い、嘆息をもらし、その後何度も反芻するような珍しいプレー、そんなイメージだ。
今現在、日本の競馬ではルメールが圧倒的な成績を残しているけど、天才か、と言うと何となくイメージに合わない。天才じゃない、と言いたいわけではなく、たとえば「名手」とか、別の表現の方がしっくりくる気がする。(個人的には、「大体勝負になる位置につけてくれる=軸にして負けても納得感がある騎手」・・長いけど。。)
ルメールの“ファインプレー”というと、無敗のディープインパクトを先行策で封じ込めた有馬記念でのハーツクライの騎乗や、スローペースを見切って向正面で仕掛け先行集団に取り付きしかもピタリと折り合わせて見せたダービーでのレイデオロの騎乗を思い出す。
あれらのレースはファインプレーだと思うが、福永洋一はそんな騎乗ぶりをレースの格を問わずあらゆるレースで見せていたという。著者の三輪氏は、毎日杯の事故と福永洋一の性格・レース運びに何らかの遠因があると睨み、過去のレースを調べた結果、以下のように書いている。
調べるほどに福永さんのレース運びは、渓谷のあいだを飛び抜けてゆく猛禽のようにスリリングで、危険なものであったような気がする。しかも小さなレースのすべてについて、その放れ業を観客に見せてくれるのだから、彼の人気もまたひとしおであった。たとえば絶えず高空を舞っていて、大レースの賞金だけを目指して、獲物をさらう鳶のような騎手などにくらべると、福永さんの栄光は永遠に消えることはないと思われる。
「困ったときは洋一から。」という格言もあったぐらい、頼りになる騎手だったらしい。人気薄でも多少強引な乗り方で上位に持ってきてくれたようで、そこはルメールとは違うようだ。(そもそも、ルメールはほとんど人気薄の馬には乗らないけど。)
洋一スマイルと祐一スマイル
本書の最後の方に「洋一スマイル」という章があり、事故にあった昭和54年の12月、福永洋一31歳の誕生日の様子が描かれている。
この頃から、特に家族や古い友達に対し笑顔を見せるようになったという。
落馬事故に遭い、そのまま命を落とす騎手も少なくない中で、笑顔を見せられるまでに回復したのは奇跡的なことだと思う。
また、息子の福永祐一が騎手になることを決断し、時が流れ、父が(短かったとは言え)騎手生涯において勝てなかった日本ダービーを三度も制する一流ジョッキーとなったのもまた奇跡的な、本当にドラマでも書けないような話だと思う。
2018年に福永祐一がワグネリアンで初めて日本ダービーを制した時の勝利ジョッキーインタビューを見直すと、インタビューの終わり際にインタビュアーから「洋一さんにはどんな報告をなさいますか。」と聞かれ、「本当に、いい報告ができると思います。・・福永家にとっての悲願でしたから。・・よかったです。」と、少し照れ臭そうな笑顔で答えている。
このインタビューを改めて見て、本当によかったね、と思うし、2013年のエピファネイアでのダービー、最後の最後で武豊のキズナに差された時の”首がっくん”を思い出し、豊容赦ないな〜(笑)とも思った。