《大学入学共通テスト倫理》のためのイマヌエル・カント
大学入学共通テストの倫理科目のために哲学者を一人ずつ簡単にまとめています。イマヌエル・カント(1724~1804)。キーワード:「アンチノミー」「理性」「超越論的」「定言命法」「ドイツ観念論」主著『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』『永久平和のために』
カントはこんな人
話し好きでおだやかな人物だったそうです。ところで、ものすごい切れ者なライティングです。
📝カントはそれまでの哲学議論をアンチノミーで終結させました!
時間と空間に関する宇宙の限界
全ては分割不可能な原子から構成されている(略)という理論
普遍的な因果性に関する自由の問題
必然的な存在者の実在(フリー百科事典「ウィキペディア」、二律背反のページから引用)
カントは、これら「究極の問題」に対してイエス/ノーどちらで答えても対立する見解を排除できないという、二律背反(アンチノミー)を打ち出しました。それまでの哲学的言説はそのどれかに収まっています。
どちらも真である、あるいは、どちらも偽であるという結果に終わる。カントは、このような二命題間の矛盾を、論理的背反としてではなく、たんに悟性概念の適用を誤った、成り立たないものについての言述であることに帰せしめる。(フリー百科事典「ウィキペディア」、純粋理性批判のページから引用)
つまり、それまで「世界」「人間」「神」についての哲学的な議論を、アンチノミーとみなすことで「別解あり」あるいは「偽」にすぎないという判決を下します。カントのアンチノミーの議論は、200年以上経つ現在もくつがえされてはいないと思います(ちなみに、現実に論証できない世界の存在をカント用語で「物自体」と呼びます)。でも、それって人間は一つの哲学的真実がつかめないって話じゃないの!??
📝ここに発想の転換(コペルニクス的転回)をきめてきます!
意識は感性と悟性の綜合により初めて「ある対象」を表象するが、これが現象を構成するのである。このような考え方を彼は自ら「コペルニクス的転回」と呼んだ。(フリー百科事典「ウィキペディア」、認識論のページから引用)
つまり、哲学的真理を外界の対象に求めるのでなく、対象を意識する認識を主役にする転換です。認識は哲学的真理として価値があるという立場。でも、外界に根拠が求められない認識にどんな真理性があるの!??
📝合わせ技でデカルト的推論もきめてきます!
カントによれば、「時間」と「空間」、「因果関係」など限られた少数の概念は人間の思考にあらかじめ備わったものであり、そうした概念を用いつつ、経験を通じて与えられた認識内容を処理して更に概念や知識を獲得していくのが人間の思考のあり方だということになる。(フリー百科事典「ウィキペディア」、認識論のページから引用)
アンチノミーを正しく判断できるようなこの「認識」とは何かという問いを立てて、以上の引用のような結論を導き出しています。カントはここで「われ『純粋理性批判』する、ゆえにこの『純粋理性批判』する理論理性とはかような真である」というデカルト風の論法を採用しています。
📝認識の中に真理性をあぶりだす論法は「三批判」書に共通です!
「我々は何を知りうるか」、「我々は何をなしうるか」、「我々は何を欲しうるか」という人間学の根本的な問いがそれぞれ『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』に対応している。(フリー百科事典「ウィキペディア」、イマヌエル・カントのページから引用)
三書に共通するのは、正命題(テーゼ)と反対命題(ジンテーゼ)を立て、対立を解決するよりそれを認識する「認識」が何かを明るみに出す論法です。そして、それぞれが「我々はあたかも《真理》というナニカがあるように」理性して、実践して、美的判断する結果、ポジティブなものを作り上げていくものだとされる。このスタンスを「批判哲学」とか「超越論的哲学」などと呼びます。
📝たとえば、『実践理性批判』のこのスタンスもそうです!
君の意志の格率が、常に同時に普遍的立法の原則として妥当しうるように行為せよ。(カント『実践理性批判』(波多野精一、宮本和吉訳、岩波文庫)から引用)
これがカントの『定言命法』。「人を殺さない」などの道徳の根本は無条件で従うべしとする用語です。ここには「意志」が「普遍」と重なるかの「ように」振るまうことで人間の善が開かれるという発想があります。つまり、意志の自由を自分より大きな善(真理と信じるもの)のために捨てる「自律」の選択が、意志と普遍のそれぞれを「同時に」生かすただ一つの方法であるとしています。
📝こんなカントはドイツ観念論の生みの親です!
イマヌエル・カントの批判哲学およびそれに対するフリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービの批判に刺激され、神または絶対者と呼ばれる観念的原理、の自己展開として世界および人間を捉えることをその特徴とする。(フリー百科事典「ウィキペディア」、ドイツ観念論のページから引用)
フィヒテ、シェリング、ヘーゲル、ヘルダーなどの哲学者を分類するのが「ドイツ観念論」です。ところで、カントは大陸合理論とイギリス経験論を総合したと言われますが、めちゃくちゃ観念的(というか観念というものの真理性を打ち立てた)な哲学なので、「ドイツ観念論」を生んでいることはすごく自然だと思う。センター倫理的には、ヘーゲルへの予習として知っておく知識だと思います。
📝最後に『永遠平和のために』をのぞいておきましょう!
国家としてまとまっている民族は、個々の人間と同じように判断されてよい。つまり諸民族は、その自然状態においては(つまり外的法則に拘束されていない場合は)、隣りあっているだけですでに互いに害しあっているのであり、そこで各民族は自分たちの安全のために、それぞれの権利が保障される場として、市民的体制と類似した体制と一緒に入ることを他に対しても要求でき、また要求すべきなのである。これは国際連合と言える(カント『永遠平和のために』(宇都宮芳明訳、岩波文庫)から引用(原文は「国際連合」には傍点があるが略しました))
観念の中から「最高善」を引き出すカントの思考は、単に観念的というだけでなく現在の国際標準に近い倫理性を記述したことを確認しましょう。カントの「目的の王国」という理想国家の観念は、その後200年くらいの時間をかけて現実化するに足る価値を持っていたということになります。
あとは小ネタを!
カントの『純粋理性批判』など、哲学書で有名なドイツの出版社を「マイナー出版社」と言う。これは創業者がフェリックス・マイナーであることが由来で、哲学がマイナーだと自嘲しているわけではない。規則正しい生活を送り、人格的にすぐれ、快活で、独身であるというカントは、小ネタ要素が少なめです。夜ルソー読んでて夜更かしして、朝の散歩に出なかったことが時計扱いだった町の人をざわつかせたなどの逸話もあります。
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