『人間失格』(太宰治、新潮文庫)の感想
この作品は「恥の多い生涯を送って来ました」(p9)な、太宰治自身の半生の告白として読まれることが多い。その破滅的な人生を送った心情の吐露(あるいはその演技)として読まれている。それは間違っていない。遺作として書かれた事実がそれを一層裏づけているように見える。だが、テキストの説明として扱うときに、違和感の残る箇所がテキストに生まれる。それらを箇条書きにしてみよう。
①作中で語られる苦悩の多くが鋭敏な感受性の持ち主なら誰もが感じそうな厭世観に見えること。
②未遂事件に対する反省が描かれないこと。
③「神様みたいにいい子でした」(p155)とキリストが重ねられること。
④「はしがき」「あとがき」で小説の作者が登場すること(特に「あとがき」では健康な家族生活が印象される)。
「半生の告白」説を採るものは、①~④の要素に作者の神経の痛ましい衰弱や屈折を読みとることが通例と思える。伝記的事実としても大分ガタがきている時期でもあり、小説の破綻を現実の悲惨に読み換えていくことも理解できる。
ただ私がこの作品から感じるのは、単純に作品の完成度の高さであり、モチーフが十分に展開しているような健康さだ。この感じ方、健康さからみた簡単な解釈を提示したい。
「罪と罰。ドストイエフスキイ。ちらとそれが、頭脳の片隅をかすめて通り、はっと思いました。もしも、あのドスト氏が、罪と罰をシノニム(同義語)と考えず、アントニム(対義語)として置き並べたものとしたら? 罪と罰、絶対に相通ぜざるもの」(p127)
罪と罰が対義語なら、主人公は「罰の人」だと思う。「自分の不幸は、すべて自分の罪悪からなので、誰にも抗議の仕様が無い」(p138)というフレーズにも「罪」の対義語を読み取ろう。むしろ主人公の不幸の意識は「罪のない罰」というのにふさわしい。
「罪のない罰」、そんなものがあるだろうか。ある。それはむしろ普遍的なものだ。例えば「(お前に罪はない)」(p134)妻がこうむった暴力がそれだ。罪は主人公とその妻に降りかかっている。暴力をふるったものは罰を受けず、代わりに彼らが苦しむ。この人間の悪を罰するのではなく、具体的な生の中で、自らを罰していくところに主人公の聖性があると言えないか。
そして、罪なき罰を生きる人の物語として『人間失格』を読むとき、上述の①~④は次のように答えられる。
→①一部が重なるだけで、内実をみると全然レベルが違う。
→②罪を一切犯していないという設定が通っている(現実には許し難い)。
→③罪のない罰を一身に受けるものという意味でキリスト的。
→④作者はキリストの教えを広めたパウロ(庶民的な存在)を演じている。
となる。このとき主人公は、人間全員に対して、ひたすら傷つき聖別される存在となる。そうして、この世界の傷つく無垢な人間によりそうのだ。