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「書く」って何だ?
noteで他の方々の記事を読むのもとても楽しく,ほとんど日課になっている。ほぼ毎日,すべてのジャンルの記事を読んでいて,皆さんいろんな視点で物事を見ているんだなあと本当におもしろい。
「書く」ということについて書いている記事も結構あり,時々読ませて頂いている。自分もここで書いているのだし,少し立ち止まって「書く」とはどんなことかについて考えてみた。
とはいえ,もう言いたいことはほぼ出尽くしているので,改めて何かということもない。オリジナリティはおそらく何もないが,読んだものを一旦捨てて,「自分にとって」今思うことを書いてみたい。
最初に浮かぶのは「書き付ける」ということだ。英語でもwrite downと表現する通り,ふわふわ頭の中で漂っている考えを,紙だったり,電子媒体に書いて落とす(downは「落ちて」「着地」するまで)。そうするとただなんか安心する。
「記憶に残そう」と考えることはあまりない。そう考えないからこそ「書いている」部分もある。自分の外に委託して,記憶をサボっている(そしてどこに書いたかを忘れる)。
人は機械ではないので,書いたことがすぐに役立つことはあまりない。大体長くて半年ぐらいしてから,そこで書いたことが活きてきたりする。「人間って機械じゃなくて『自然』だよなあ」と思うときはそんなときである。
このnoteで何かを書く理由を上げるとしたら,おそらく一番にそれが来る。ただ書いていると楽しいのと,安心する。
「頭に漂っている考えを書き付ける」のだから,これは一種の「表現」である。だから,絵を描いたり,彫刻を彫ったりするのと本質的には何も変わらない。
表現=アウトプットするためには,まず対象をよく観察=インプットする必要がある。観察する必要があるので,当然しっかり見るなり聴くなりする必要がある。ここで五感をうまく働かせられないと,表現は不完全なものになる(いつも不完全なので私の五感はおそらく死んでいる)。
絵だったらよく「見る」ことだし,音楽だったらよく「聴く」ことだ。文章だったら,他人の文章を論理的に読んだり,何かを感じることだろう。アウトプットの質はインプットの質と量に比例するとどこかでも聞いた。
それから,できるだけ元の形に近い形で表現したり,抽象化してみたり,他のものにたとえてみたりする。道具の使い方でも印象は変わってくる。この辺りはアウトプットの話だ。
文章の場合は「言葉」を知っていると表現の幅が広がる。また,言葉をどう並べるのかも大事だし,書く媒体によっても書き方は変わってくる。「書く」とはとてもクリエイティブな作業だと思う。
だから書くことで悩むというのはある意味当然である。自分の感性がろくでもなく,うまくインプットできずに悩んだり,自分の思考力や表現力がろくでもなく,アウトプットできずに悩む(これも何度書いては消したかわからない)。
上に書いた「書く」ことについて書いた記事は,その手助けをしてくれるので,noteには親切が集まっている。
こんなことを考えながら今も文章を書いているが,実は私は絵が描きたい(描くと苦笑が起きるレベルだが)。また,立体でも何かを作ってみたいし,映像も作ってみたい。身体表現もしたい。
というのは,「書く」ことには限界を感じるからである。
どんなに表現がうまい人でも,複雑なキャラクターを詳細に文章で表現すれば,「いいから絵に描いてよ」と言われてしまうだろう。小説の映画化では「原作のイメージと違った…」となる。
「棒が一本あったとさ」と言って,いきなり縦に棒を書いて終了することもある。
裏を返せば「読者の想像力を育む」ということになるのだが,「書く」ことしかできないと,どうしてももどかしさを感じてしまう。これは最近出てきた感情だ。
当然すべてを一人でやるのは大変なので,個性の違う友人がいることが有難く思えてくる。そういう点で,noteにはエッセイから,情報記事,詩や写真,漫画,映像までいろんな表現の仕方をされている方々が集まっているので,楽しい場所だ。
一方で,「ほどほど(苦笑が起きないレベル)」でいろいろなことをやってみたいなという気持ちが出てきている。
「書く」ということを考えていたら,「表現」にたどり着いた。そこではまず感性を磨いてインプットし,整理する。そして様々な方法を使ってアウトプットする。それを通じて技能を習得・向上させていく。
「ああ,やっぱり表現って追求しきれない良いものだな…」と思っていたら,ふと,
「『表現』というのか『表象』というのかわからないが,身体そのものが,ある意味表現体だよな…」と思った。それが何を表現したものなのかを考えてみたら,自分の思考や想いであった。
そうなると「生きる」ことそのものが表現であり,これについて説いてきたのが宗教であることにたどり着いた。この一瞬に表現をしていると思えば,何気ないと「思っている」人生も,常に何かが起こり続けていることがわかる。行動はそこから生まれるのかもしれない。
最後は非常に話が飛躍した。別次元の話だが,つながりのないものはない(と思っている)ので,なんだかしっくり来た。
だからと言って特定の何かにハマるのかということも,また別次元の話。
(写真はアジサイ。知人が綺麗に撮れたのでと送ってくれた。私には撮れない綺麗な感性を写していると思う。)