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【要約】正義とケアの現代哲学

正義とケアの現代哲学
 プラグマティズムから正義論、ケア倫理へ
徳永 哲也 (2021年)


要約

1.プラグマティズム

プラグマティズムは、哲学の方法論の一つで、哲学の重要な命題である「真理」をどう捉えるかについての一つの立場を提示する。「プラグマ」とは「行為」や「行動」という意味で、プラグマティズムは哲学的探究の方法として、思弁よりも行動を重視する。

プラグマティズムが始まったのは19世紀末のアメリカだが、それまでの西洋哲学の主流は――信仰を通してであれ、理性を駆使してであれ――思弁的に「絶対の真理」に到達しようとしていた。それに対して、プラグマティズムは「一時的な真理」(17)を想定する。

例えば、Aという観念は、「Aを基に実際に行動し、その結果が有用である場合(効果がある、その通りにワークする場合)、その限りにおいて真理と言える」というのがプラグマティズムの態度となる。
そして、もしAが現実と齟齬が出るようなら(その通りにワークしなかったら)、それはAという一時的な真理が疑われたということになる。しかしその場合、Aをその齟齬に応じて修正したアイデアA’を、新たな真理として仮採用することができる。このように、まるでPDCAサイクルを回すように一時的な真理を仮定し、トライアンドエラーを繰り返して現実世界に向き合うのがプラグマティズムである。


プラグマティズムで有名なのはパース、ジェイムズ、デューイという三人のアメリカの哲学者である。パースはプラグマティズムの創始者、ジェイムズはそれを受け継いだ確立者、デューイはさらにその後の応用者、という理解が一般的である。

パース→ジェイムズ→デューイの順に、哲学的な要素が「濃い→薄い」へと、論理の質感が「固い→柔らかい」へ、という特徴がある。

本書でこのあと語られる正義論やケア倫理に関する議論は、それらの哲学や思想が「実際の」制度にどう適用されるべきか、どういった考えが人や社会にとって「有用か」を問題にしているので、必然的にプラグマティックな発想、アプローチが含まれる。(33)



2.正義論の概要

正義――つまり、何が「よい」か、正しいか、正当か、どこがちょうどよいか、何が公正か、平等か――についての議論は、大昔から大問題(興味関心の対象)だった。それは紀元前ギリシャのプラトンやアリストテレスなどにとっても重要なテーマだった。
現代の正義論を語る前に、正義についての一般的な、素朴な感覚に基づく三つの視点・考え方を整理する。

① 応報的正義
「応報、つまり相応しいものを与える/返す、というのは正しいことだ」という直感的・原始的な感覚のこと。「罪には罰を、損害には補償を、功績には報奨を、労働には対価を与えよ」(57)ということだ。ギブアンドテイク、やられたらやり返す、というのは、自然に受け入れやすい とても単純で強力なステートメントだ。

② 交換的正義
交換に向き合う二人がいて、一方の財物をもう一方がふさわしい対価で受け取るという行為は正しい=正義だと考えること。(61) お互いが自由な立場で、理性的に行った交換行為は尊重されるべきだし、その行為を反故にするのは不正義だと考える。同じ原理で、「契約の順守」も正義となる。

③ 分配的正義
「分配に配慮することは正義だ」という考えのこと。平等という正義感覚を基に、過度や極端な格差を分配によって解消し、「ちょうどよい状態」を正義として志向する。現代の正義論はこの分配的正義についての議論が多い。分配的正義の具体例として累進課税制度がある。

これらの三つのどれも無視することなく、バランスよく配慮した、合理的で納得感のある正義論とはどのようなものなのか。この難題に、古代ギリシャから現在に至るまで、古今東西の思想家や哲学者、為政者が挑んできた。



3.現代の正義論――リベラリズムとリバタリアニズム

現代の正義論は二つの主流な論調に分けられる。リベラリズムとリバタリアニズムであり、一般的に前者は政治左派、後者は右派とされる。

「どちらの流派も「リバティー=自由、解放」が基本であり、その意味ではどちらも広義のリベラリズム=自由主義なのだが、「自由が大前提ではあるが、弱肉強食ではなく、ある程度は平等も考えよう」というのがリベラリズムで(中略)他方、「自由こそが全てで、勝者がどんどん儲ければ国富が増えて、結果的に敗者にも富のおこぼれが来るからいいじゃないか」というのがリバタリアニズム」(83)と説明することができる。
政治・経済の立場の一つであるネオリベラリズム(新自由主義)は、リバタリアニズムと「ほぼ同義」(同)と言える。


リベラリズムの代表的な論者はジョン・ロールズである。彼の書いた『正義論』(1971年)の影響は大きく、これ以降に正義論や政治哲学を語る際に無視することはできない本となっている。
ロールズは、啓蒙主義時代に起こった社会契約論的な発想から、公平・平等な社会を考える。その際、彼は「無知のヴェール」という特徴的な概念を用いた思考実験をする。

ロールズはこのような仮想的な質問を立てる。
「仮に、私たちが生まれる前に「どんな社会を望みますか」と聞かれたとする。その時、自分がどんな境遇に生まれるかが分からないヴェール(無知のヴェール)をかぶっていたら、どう答えるだろうか?」
ロールズはこう推論する。
「こう問われた人の多くは、自分が最悪の境遇、その社会ではもっとも貧しい家に生まれる場合を考えて、最も不利な立場の人でも何とかはできそうな社会がよい、と答えるだろう」と。(87)

この思考実験から導き出せる主張はこうだ。人の能力や選択や生き方によって、社会にある程度の格差(勝者と敗者)が生まれることは認められるべきだが、その格差は敗者をして完全に希望を失わせるような極端な程度にならないように調整=再分配されるべきである。こうしてロールズの有名な「格差原理」が生まれる。すなわち、「社会的・経済的不平等は、それが最も恵まれない人たちにとって利益になる時にのみ正当化されうる」となる。


リベラリズムを批判するリバタリアニズムの代表選手はロバート・ノージックである。ノージックは、ロールズの無知のヴェールを「自説を通すために都合よく作った非合理な想定だ」と批判する。重視すべきは まがい物の社会契約論ではなく、(ロックが主張した)所有権の徹底的な保障である、とノージックは訴える。彼の主張をざっくり言うとこうなる。

土地や財産の所有権が脅かされるところには自由などなく、よって正義はない。我々が互いの所有権を保証しながら、理性的で自由な交換行為=経済活動を行うことで、市場は社会の調整機能を正常に働かせることができる。そのために必要なのは いわゆる「小さな政府」であり、政府による再分配は最小限となるべきである。成功者はその徳に応じて恵まれない人々へ「自発的に」慈善行為を行うのであって、累進課税などは窃盗に等しい。



4.正義論への批判としてのケア倫理

1980年代に、正義論の(特にロールズの)批判として提唱されたのが「ケア倫理」である。その先駆者はキャロル・ギリガンである。彼女はこう主張する。

正義論は「自立し自律した主体」という人間を前提にしている。つまり、「理性的で独立した存在」というのを人間の唯一の理想像としている。しかし、それは人間の実情にも理想にも合っていない。常に理性的で独立した人間などおらず、もともと人間は相互依存的な存在である。頼ったり頼られたりする関係性を中心に置いた哲学を、これまでの正義論とは違う「もうひとつの倫理」として見出すべきではないか。(107)

ギリガンは、このような視点を、師匠である著名な心理学者 ローレンス・コールバーグを批判する中で培っていった。コールバーグは、人間の道徳的発達過程を(つまり人間の理想的な発達を)研究したのだが、彼は研究サンプルに「男性」しか採用していなかった。師匠の研究に疑問を持ったギリガンは、女性の声を丁寧に聴くことで、「もう一つの道徳性発達パターン」が見えた、と主張したのである。

彼女の分析では、コールバーグが(男性たちから)見出した道徳性は正義や権利を中心としたものだったが、それは人間の一側面でしかなく、女性たちの経験や思考から、それとは別に道徳性の発達についての「もうひとつの」合理的なパターンがあることがわかった。それは関係性やケアを中心とした道徳である。


ギリガンに続いて、ネル・ノディングスやキティといった論者によりケア倫理は深められていった。
ノディングスは、ケアという行為はもとより、ケアしケアされるという関係性も重視し、ケアする人とケアされる人を詳しく分析した。その中で、両者の理想的な依存・協力関係について思考した。
キティは、ケアする人の負担に着目し、「ケアする人をケアする人」の必要性を訴え、その連鎖=ケアのネットワークを社会に広げるよう訴えた。



5.正義論か、ケア倫理か

以上を踏まえて、これからの「正義」の話をどう進めるべきか。
正義論もケア倫理も一定の説得力がある議論なので、どちらかを全否定することはできない。となると、両者を互いに尊重し、補い合わせるように混ぜた上で、
①正義論をメインとする(人間の本質は自立であるという立場)
②ケア倫理をメインとする(人間の本質は相互依存であるという立場)
③正義論とケア倫理の二本立て
のいずれかの道が合理的だと思われる。

筆者は、ここで「共感の哲学」という考え方を採用することで、正義論とケア倫理の両立がしやすくなると考える。なぜなら共感は、多様性の現代に向き合う気配り=ケア的感情の発露でもあるし、正義感の基盤となる感情でもあるからである。(157)
「リバタリアニズムが持つ開拓者的な強引さも、リベラリズムが持つ紳士的な配慮も、ケア倫理が持つ依存者への気配りのよさも(中略)上手に活用して、「時に自立者。時に依存者。依存も許しながらの自立と自律」」(159)という人間像を基にした福祉社会の実現のため、「共感の哲学」を「ケア的配慮でありながら人間本来の正義でもある象徴語」(157)として提示したい。

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