【感想】教育の目的は主体化か
よい教育とはなにか 倫理・政治・民主主義
ガート・ビースタ (2016年 日本語訳 出版)
結局のところ著者が一番言いたいこと
を大胆に推測する
「よい教育とはなにか」という議論、つまり「教育の目的」についての議論が軽視されすぎ。教育の目的について、専門家や教師、親だけでなくあらゆる立場の人が議論すべきだよ。それは民主主義の根幹だからね。
学校教育は「主体化の機能」を最も重視すべき。つまり、子どもをして既存の秩序や価値を飛び出したり、作り替えたりできるように働きかけることが大切だよ。
この本を読んで、
想起し発想し、
感想して思い出す
教育哲学の話では鉄板中の鉄板――というかむしろコレを議論する以外に教育哲学の役割はないのかも知れない――という話題、、、
「教育の目的」の問題がこの本でも取り上げられている。
まぁ、この記事では教育の目的の話はしないとして、だ。興味深いのはビースタさんが教育の目的の議論のための視座を与えるという意味で、「教育の三つの機能」を提示していることだ。
僕の浅い理解ではビースタの言う教育の「機能」と「目的」はほとんど同じに聞こえるんだが、とりあえず三つ機能というのを超略省整理しよう。
・「資格化」の機能・・・知識や技術を付けさせること
・「社会化」の機能・・・その社会の文化とか価値の枠組みを(陰に陽に)教え込むこと
・「主体化」の機能・・・その社会の文化とか価値の枠組みを飛び出す力を付けさせること
ビースタはこの三つの機能を便宜的に区別してはいるが、実際の教育活動では常にこの三つが複合的に働いているという。つまり、例えば 資格化だけを行い、社会化や主体化の機能が発生しない教育などありえないという。教師は、この三つの機能が互いに影響し合いながら同時に作用しているということを認識しながら教育をすべきと主張する。
・・・ふむふむ、なるほど。
この三つの区別、果たしてこれが教育の実状をもれなく網羅しているかどうか直ちにわからないけど、そう言われると まぁ正しいかもね、という気はする。
さてしかし、ここからがビースタの主張の本番で、かつ意見が分かれるところだ。
ビースタは三つの機能のうち、はっきりと主体化に特別な地位を与えている。ニュアンスからすると、学校や公教育の場では特に主体化を重視して教育活動を行うべきと思っているようだ。「教育と呼ぶからには、主体化があらゆる教育の本質的な構成要素であるべきだ」(111)
彼からすると、教育論争は資格化主義者―社会化主義者―主体化主義者の綱引きと言えるだろう。ちなみに、資格化主義者と社会化主義者は巷に溢れている。
乱暴にデフォルメするならば、資格化主義者は、今の時代ネットからいくらでも知識や技術を習得できるんだから、従来の学校の価値はどんどん無くなっていくと言う。各教科やテーマごとに「世界一面白く、わかり易く教えることができる超達人」の授業をデータ化し、それを全ての子どもに見せれば一番効率がいい。学校の先生はそのフォローでもしておいてよ、と言うわけだ。
社会化主義者は、学校の役割は「社会を学ぶ場」だという。教師との関係、友人、クラス活動、行事、部活、校則… そういったもろもろを通じて人との関り方を学び、常識や礼儀を身に着け、挫折や喜びを味わいながら「真っ当な人間」になっていくんだという。まぁ、成績優秀じゃなかったとしても、厳しい部活でビシッと指導してもらって、社会でちゃんと生きられるようになればいいさ、てな感じ。
しかし主体化主義者はわかりやすくデフォルメすることが難しい。
一つ言えるのは、主体化と前の二つ、資格化と社会化には明確な違いがあるということ。それは、既存の価値観を相対化し、批判的に見るかどうかだ。資格化にしろ社会化にしろ、既に存在する価値観――つまりその社会で良しとされている知識、技術、文化、秩序、常識などなど――は前提とされ、その枠組みは基本的に疑われることはない。それに対し、主体化はその価値観を相対化し、場合によっては破壊する方向性でもある。
まぁ、このように言うと少し大げさだが、わかり易く言うと「周りに流されず、自ら理性的に善悪の判断をし、行動ができるような人」を作るのが主体化だと言っていい思う。もーーっとざっくり言うと、「自分の頭で考える人になろうや」ってことかな?
巷の教育談義の勢力図は置いておいて、実は多くの教育論者はビースタと同じく、主体化こそが最重要としている気がする(僕の狭い見識では)。たぶん、その根拠は民主主義に価値を置くことにある。民主主義とは主体化された個人によって体現される、っていうのが啓蒙主義の時代から今まで積み上げられた西洋哲学の(現時点の)結論なんだろう、たぶん。(たぶんばっかやん)
ただ、問題は単純ではなくて、多くの人が主体化を最終目標としてるんだけど、その順序というか手段については本当にたくさんの主義主張がある。ある人は、主体化のためには資格化が必要(あるいは十分)と言っていて、また ある人は、主体化のためにはまず社会化をする必要があると言う。この、手段・方法・順序に関して完全な答えというのはおそらくなく(少なくとも現時点では)、だからこそビースタも「三つの機能が複合的に同時に作用することを意識しろ」という言い方をするに留まっているのだろう。
確かに、それだけでも現場の教師にとっては十分価値のある示唆だとは思う。
実際、教師は子どもを目の前にして「資格化 or 社会化 or 主体化だけ働きかける」というのはありえない。
教師は主体化を目標としながら、例えば歴史の授業で「フランス革命と人権の起こり」という知識を教えるし(資格化)、人との/社会との健全な関り方ができるように、まずルールの大切さを教えたり部活で「指導」したりするのだろう(社会化)。
一人の教師が子どもを教育する時、資格化は手段だとか、社会化が先だとか、主体化が本質だとか、そんなことイチイチ深く考えなくても、十分に教育的に素晴らしい実践を行うことは可能だろう。ビースタの言うように、それぞれが複合的に同時に作用しているということさえ忘れなければ。
…しかし、学部生の頃の僕は、その結論にどうしても納得がいかなかった。
(続く)
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