夢のまた夢
夢に魘された経験はあるだろうか。
誰しも一度や二度は経験するものだと思うが、私は一定の周期で何度も見る夢があり、その夢に今でも魘されている。
いずれもある異性との別れのシーンが題材となるのだが、決まってとても夢とは思えないリアルな言動で人格を否定されるため、当然目覚めは悪くなる。
人生は選択の連続だが、身から出た錆はなかなか削ぎ落とせないものだ。砥石で少しずつ削ることは出来ても、自身を削る行為には違いない。擦り減らし続けられるほど、私の刀身は長くない。身から出た錆ならまだしも身に覚えがないことで、別れがやってくるのはとても苦しいものである。
アタッチメント理論によれば、人間には「安定型」「回避型」「不安型」の3つの愛着スタイルがあるとされる。
愛着スタイルの形成には乳幼児期の特定の人物との愛着形成が、このタイプを形成する最も大きな要因であるとされるが、幼少期の親との交流が少ないと回避型や不安型になりがちだという。幼少期に人生の不幸の大半を経験した私は安定型であったとは言い難い。(正確に言えば、後天的に安定型を身につけたということだろう)
不安型の愛着スタイルの人間は過度の依存や他者への高すぎる信頼・期待、その裏返しからくる失望や拒絶をしがちな傾向があるとのことだ。信頼や期待に応えられなかったのだとすれば、それは拒絶されても仕方ないのだろう。
鎖国下の日本に出島があったように、拒絶の中にも一筋の光を見出したいものだが、それぞれ数年以上経ったというのにまだその兆しはない。時が解決するかとも思ったが、まだ時は満ちていないようである。
私は絶対に拒絶はしない。誰に対しても拠り所になっていたいし、それが誰かの人生のセーフティネットになるものと信じている。そのためには誰の期待にも応えられるよう鍛錬が必要だと思う。その覚悟がなければ、大それた野望なんて口にできない。
誰にも私の刀は狩らせない。