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【人物月旦 #08】😁編集プロダクション社長のはなし

はじめに
このエッセイでは、登場人物のプライバシーを守るため仮名を使用しています。物語や感情は真実に基づいていますが、名前にとらわれず、本質や物語そのものを楽しんでいただけることを願っています。

👇本編要約
著者は当時「海外に出たい」という目標を抱きながら厳しい現実に直面していました。そんな中、雑誌編集のアルバイト先で出会った編集プロダクション社長が、著者に大きな影響をもたらします。未経験の編集作業に挑む中で、時に厳しくも温かい指導を受け、次第に自信と成長を実感。深夜の寿司屋でのご褒美や社長の家庭で感じたやさしさなど、社長のさりげない気遣いが、著者を支え続けました。最終的に贈られたオーストラリア行きの航空券を通じて、社長の言葉と行動は著者に新たな未来への扉を開く力を与えます。このエッセイは、人生の転機に寄り添った恩師の存在と、その深い影響を描いた一篇です。

P/S:いつも温かい「スキ」をありがとうございます。気に入っていただけたら「スキ❤ボタン」で執筆を応援してもらえると心強いです。これからもよろしくお願いします!


今回の人物月旦8回目は、人生の舵を少しだけ強く握らせてくれたアルバイト先の社長との出会いの話です。
私は東京郊外で、ギリギリの生活をしながら「海外へ行きたい」という曖昧な夢を胸に抱えていました。毎日が必死で、アルバイトを探しては落ちる繰り返し。夢の実現には程遠い現実の中で、「これ以上、どうにもしようがない」と思い詰めていたあの時期。ふと目に留まった雑誌編集のアルバイト募集の一枚の広告が、私の人生を静かに、しかし大きく変えていく始まりでした。
編集プロダクションという未知の現場での仕事。それは過酷で、挑戦の連続でしたが、そこで出会った西本社長の何気ない一言や、時に厳しくも温かい気遣いが、私の心に灯りをともしてくれました。彼の下で過ごした日々は、ただ言葉だけで夢を追いかける若者が、現実を踏まえながらも未来を切り開く力を身につけていく時間だったのです。
これは、夢と現実の狭間で揺れ動きながら、自分の可能性を信じて進む物語です。それでは本編をどうぞ。


夢と現実の狭間で

あの頃を振り返ると、焦りと期待、そして若さゆえの無鉄砲さが胸に渦巻いていたことを思い出します。日本はバブル経済の入り口に差し掛かっていましたが、社会人になる前の若者にとってその恩恵はまだまだ遠いものでした。私が1人暮らしていた八王子の相原は、東京の郊外にありながらも田舎の風情を色濃く残した場所でした。駅前には商店街が並び、のどかな雰囲気が漂っていましたが、アルバイト情報に掲載される求人は少なく、時給は500~600円が一般的。若者が夢を抱えるには、少しばかり厳しい環境でした。

それでも、私の胸の中には漠然とした「海外へ行きたい」という思いが燃え続けていました(背景については人物月旦#02)。

幼少期に義兄から受けた影響で映画や文学に触れ、「この狭い世界から飛び出してみたい」と強く感じるようになったのがきっかけです。当時はインターネットもなく、海外の情報は雑誌や映画を通じて得るしかありませんでした。その手探りの憧れがかえって私の想像を膨らませ、見たことのない世界への情熱をさらにかき立てたのです。

しかし、現実は夢とは程遠いものでした。アルバイトを探しては不採用が続き、次第に財布の中身が底を突き、ついには家の中の食料も尽きてしまいました。棚を漁って見つけたのは一袋のソーメン。それを見つけたとき、「これでしばらくは大丈夫だ」と少し安堵しましたが、すぐに問題が発覚。ガスが止められていたのです。

そこで私が考えたのは「水で戻す」という方法でした。鍋にたっぷりの水を張り、ソーメンをそのまま沈めて一晩待つ。翌朝、鍋を開けると、水を吸ったソーメンが鍋の形そのままに固まり、まるで巨大な白いおもちのようになっていました。それを包丁で一口サイズに切り分け、醤油や塩をつけて食べる。食感はもちもち、味は…控えめに言っても微妙でしたが、それでも空腹を満たすには十分でした。

さらにデザートとして、小さなメイプルシロップの袋を発掘。「スイーツソーメン」と名付けて自分なりの豪華な食事にしました。あの時の自分は、極限状態を少しでも笑いに変えることで、なんとか前向きに生きようとしていたのかもしれません。

そんな生活の中、本屋で立ち読みしたアルバイトニュースに、「時給1000円」「ゲーム雑誌の編集補助」という募集を見つけました。当時の相場からすると破格の条件です。「雑誌の編集補助」という響きにも心が躍りました。すぐに掲載されていた番号に電話をかけ、面接の約束を取り付けました。「履歴書を持参してください」と事務的ながらも丁寧な指示を受け、私はわずかな希望を胸に新宿へ向かう準備をしました。

面接当日、新宿の事務所で

面接当日、問題は交通費でした。当時の私は、往復分の電車賃すら確保できないほど追い詰められていました。財布を開き、小銭を数えて片道分だけギリギリ捻出。行くだけは何とかなると自分に言い聞かせ、中央線に乗り込みました。車内では「もし面接で断られたらどうする?」という不安が何度も頭をよぎりましたが、「このチャンスを逃すわけにはいかない」という気持ちが勝り、吊革を握る手に力を込めました。

面接場所は、雑居ビルではなくマンションの一室でした。鉄製の郵便ポストが並ぶエントランスを抜け、エレベーターで指定された階に上がると、簡素なプレートに社名が記されている部屋がありました。インターホンを押すと、少し間を置いて扉が開き、中に案内されました。

部屋に足を踏み入れると、リビングだったはずの空間が事務所として使われていました。ダイニングテーブルが作業台代わりになり、雑誌や原稿が山積み。壁際には古びた本棚が並び、机には先客と思しき男性が忙しそうに原稿を書き込んでいました。その雑然とした雰囲気に少し圧倒されながらも、そこに漂う「モノづくり」の熱気に胸が高鳴ったのを覚えています。

「君が応募してくれた子だね」と声をかけてきたのが、西本社長でした。細身の体に上質なシャツを着こなし、眼鏡と口ひげが印象的な知的な雰囲気の男性です。一見すると少し近寄りがたい印象でしたが、その目元には柔らかな親しみやすさがありました。

「どうぞ、こちらに」と促され、折り畳み式の簡素な椅子に座りました。「西本です。この会社ではいろんな雑誌を作っているんだけど、ゲーム雑誌は新しい挑戦なんだ」と、まず彼の簡単な自己紹介から始まりました。

「ゲーム、好き?」と聞かれ、私は少し緊張しながら「はい、小さい頃からよくやっていました」と答えると、「そうか」と穏やかに微笑み、履歴書に目を通し始めました。その表情は真剣そのもので、緊張が走りました。

履歴書を読み終えた西本さんは、少し考えるようにして言いました。「正直に言うと、君の経歴だと即戦力という感じではないかな。でも、やる気があるのは伝わってくる。」

その言葉に胸がズキンとしました。「ここで終わりか」と思いながらも、「せめて帰りの電車賃だけでも」と心の中でつぶやきました。意を決して、「あの…すみません。帰りの電車賃を貸していただけませんか」と伝えると、西本さんは一瞬驚いたような表情を見せた後、大きな声で笑い出しました。

「いやあ、面接で落ちた会社で電車賃を借りようとする人なんて、初めて見たよ!」と。笑いながら椅子に深く腰を下ろし、「じゃあ、給料を前払いしてやるから、明日から来てみるか?」と提案してくれました。

「え、つまり…雇っていただけるんですか?」と驚きながら聞き返すと、西本さんは「そういうこと」と笑顔で答えました。その瞬間、私の中で何かが大きく変わった気がしました。これが新たな変化のきっかけになることを、私はまだ知らなかったのです。

雑誌作りの現場で

アルバイトが始まると、私はまさに未経験の世界へ足を踏み入れました。新宿御苑近くのマンションの一室を事務所に改装した編集プロダクションの現場は、初めて見ることばかりで、目の前に広がる活気に圧倒されました。生活感が抜けきらないリビングルームは作業スペースとしてフル活用され、ダイニングテーブルが即席の作業台に。そこには原稿用紙、写真、写植シール、コーヒーカップが所狭しと並べられていました。

「じゃあ、最初に覚えてもらうのはこれね。」先輩スタッフに渡されたのは、何枚かの写真のネガと赤いダーマトグラフ。暗室に入ると、独特の薬品の匂いが漂い、ライトボックスが白く柔らかい光を放っていました。その光の下、ネガの上にセロファンを重ね、赤いダーマトで指定範囲を描き込むという作業が始まりました。これが雑誌に掲載される写真の仕上がりを左右するのだと思うと、緊張で指先が少し震えたのを覚えています。それでも、手を動かしていくうちに次第に楽しくなり、「雑誌作り」に関わっているという実感が湧いてきました。

作業は写真だけにとどまらず、写植屋への往復も大切な仕事の一つでした。当時は、文字の配置やフォントはすべて写植シールで作られており、完成したシールを受け取りに行くため、京橋にある写植屋に頻繁に足を運びました。昼時に訪れると、そこのおじさんが「腹減ってるだろ」と銀座アスターのエビあんかけラーメンをご馳走してくれることがありました。それは私がそれまで口にしたどんな食事よりも高価で、かつ美味しく、「こんな贅沢がこの世にあるのか」と感動しました。写植屋という職業が、その瞬間、私にとっての憧れの的になったのです。

仕事のハードさと、深夜の寿司のご褒美

雑誌作りは締め切りが命。どんなに手間がかかっても、納期を守らなければなりません。週末や祝日は関係なく、追い込みの時期になると徹夜は当たり前でした。事務所の床に寝袋を敷いて仮眠を取るスタッフの隣で、私は雑誌の最終確認をする先輩の動きをじっと見ていました。目の前で雑誌が形になっていくプロセスに感動しながらも、慣れない仕事に疲れ果て、早朝には体が鉛のように重くなるのを感じていました。

そんな徹夜明けの夜には、西本社長が「夜食を食べに行こう」と声をかけてくれるのが恒例でした。当時、新宿御苑近辺には深夜に食べられる飲食店がほとんどなく、唯一開いているのが高級な寿司屋でした。その寿司屋は、普段の生活では到底手が届かないような価格帯の店で、初めてカウンターに座ったときは緊張で体が硬直しました。

寿司が目の前に並べられると、徹夜で空腹だった私は一貫目のトロを口に運びました。脂が酢飯と絡み合い、口の中でとろけるような食感と味わいが広がり、それまでの人生で体験したことのない美味しさでした。疲労で鈍くなっていた感覚が一気に目を覚まし、心から「美味しい」と言える瞬間に驚きを覚えました。

その時、西本さんが「ビールも飲むだろう?」と提案してくれました。ビールはこれまでに何度か飲んだことがありましたが、特に好きというわけではありませんでした。それでも、一口飲んだビールの冷たさがトロの脂と酢飯を絶妙に洗い流してくれる感覚に驚きました。アルコールを飲むと通常は眠くなることが多いのですが、その時は不思議と眠気がまったくなく、むしろ体がシャキッとするような感覚さえありました。

「これ、すごいな…」
私は、トロ、酢飯、ビールの完璧な組み合わせに驚嘆しながら、こんな贅沢な体験がこの世にあるのかと心から感動していました。それは、徹夜で体力を使い果たした後の最高の癒しであり、心にエネルギーを取り戻してくれる瞬間でもありました。

西本さんはいつも穏やかで、私の話をじっくりと聞いてくれました。「海外に行きたい」という漠然とした夢や、義兄から影響を受けた映画や文学の話を熱っぽく語る私に、「それはいいね、若いうちにいろんなものを見るのは大切だ」と静かにうなずいてくれました。寿司とビールを味わいながら、その時間は私にとって、非日常の中に潜む特別なひとときでした。

深夜の寿司屋での食事は、単なる夜食ではありませんでした。それは、雑誌作りという現場の厳しさを乗り越える力を与え、未来への希望を膨らませてくれる、一種のご褒美のようなものでした。徹夜が多い仕事の中で、寿司屋で過ごす時間は、この仕事を続ける上でのひとつの原動力になっていたのかもしれません。

判断を迫られた瞬間、そして成長の実感

その日、大日本印刷の入稿準備室は緊張感に包まれていました。雑誌の締め切りが目前に迫り、すべてのページを確定させる作業が急ピッチで進められていました。私も作業の一端を担い、ストリップ修正の工程に取り組んでいました。

ストリップ修正とは、製版上の変更部分を削り、ストリップフィルムと呼ばれる非常に薄いフィルムに写した正しい文字を張ることによって修正する工程で、文字を正確に配置されるようフィルム上に修正を施す作業です。写植文字の位置を微調整し、この作業は、細かい神経を要求されました。赤ペンで指示を書き込み、修正が必要な箇所をマーキングしていくこの作業は、雑誌の最終仕上げにおいて重要な役割を果たします。

しかし、作業が進む中で問題が発生しました。ページの構成に必要な写植が一部不足していることに気づいたのです。写植が揃わなければ、ストリップフィルムに正確な文字を配置できず、入稿データとして完成させることができません。当時、写植は専門の写植屋で制作され、ページごとに切り出したシール状のものが提供されていました。これが揃わない限り、次の工程に進めないという深刻な状況でした。

「どうしよう…」
私は焦りました。締め切りまでの残り時間は限られていますが、その場には責任者が不在で、判断を仰ぐことができませんでした。スタッフも他の作業に追われており、誰もこの問題をすぐに解決できそうにありません。

「このまま何もせず待つわけにはいかない。」
私は覚悟を決め、京橋の写植屋に直接連絡を入れました。電話越しに事情を説明すると、写植屋のおじさんは事情を察して「すぐに作るから取りに来い」と言ってくれました。

そこからは時間との戦いでした。私は必要な修正箇所をメモにまとめ、全速力で京橋に向かいました。電車の中でも時計を何度も確認し、遅延がないことを祈りながら、心臓がバクバクと音を立てていました。写植屋に到着すると、おじさんがすでに準備を整えて待っていてくれました。追加発注した写植シールを受け取ると、私はすぐに事務所に戻るため電車に飛び乗りました。

入稿準備室に戻ると、すでにスタッフ全員が準備万端で待機しており、私が持ち帰った写植がすぐさま作業に使用されました。ストリップ修正が完了し、最終的な版下データが完成したのは締め切りぎりぎりの時間でした。

その夜、事務所に戻ると西本さんが待っていました。私の動きを聞いていた彼は、満足げな表情で言いました。
「よくやったな。おかげで間に合った。」

その一言に、胸が熱くなりました。私はただ指示を受けて動く存在だと思っていましたが、この日は自分の判断で動き、それが仕事の成否を左右する結果に繋がったのだと感じました。それは、私にとって小さな成功体験でありながら、確かな自信を与えてくれる大きな一歩となりました。

後日、写植屋に再び足を運んだ際、おじさんが昼時に「お疲れさん、ラーメンでも食べてけ」と銀座アスターのエビあんかけラーメンをご馳走してくれました。その味の贅沢さに感動しつつ、「あの日、自分の判断が正しかったんだ」と改めて思いました。こうした経験が、仕事への姿勢を変えるきっかけとなり、次第に仕事への自信と責任感が芽生えていくのでした。

西本さんの気遣いと、思いがけない家庭の温かさ

家に帰るのは週に数えるほどで、気がつけば事務所の一角に寝袋を常備していました。まるで「事務所住人」と化していた私は、ほかのスタッフたちと肩を並べ、雑誌作りに没頭する毎日を送っていました。深夜まで続く作業の果て、机に伏せて仮眠を取るときも、「こんな自分が何か役に立っているのだろうか」という疑問がふっと湧くこともありました。でも、どんな疲労感も、完成した雑誌が印刷所から届くときの興奮ですべて吹き飛んでしまうのです。

生活費については、ほとんど西本さんが面倒を見てくれていました。昼食代はもちろん、遅くまで作業をしていると、たまに「ほら、これでも食って元気出せ」と言いながら差し入れをしてくれるのです。その中には、ちょっとした贅沢品。高めのカツサンドやデパ地下で買ったらしいチーズケーキが入っていることもありました。それを開けるたびに、徹夜で疲れた心と体が少しずつ癒やされるのを感じました。

「社長、また高いもの買ってきましたね。」と軽口を叩くと、西本さんはいつものように肩をすくめて言いました。
「働き盛りが腹減らしてるのは見てられんよ。甘いもの食べて脳みそ回せ。」
その飄々とした口調に、スタッフみんなが救われていました。

さらに特別な日もありました。たまに西本さん自身が徹夜で一緒に作業をすることがあると、「おい、もう帰るぞ」と言われることがありました。疲労困憊していた私は、言われるがまま西本さんの車に乗り込み、連れて行かれたのは彼の自宅でした。

西本さんの家は事務所とは打って変わって静かな住宅街の一角にあり、どこか温かみのある雰囲気が漂っていました。家に入ると、「ベッドで寝てこい」と促され、心地よい布団に体を横たえると、一瞬で深い眠りに落ちてしまいました。

朝、目を覚ますと、キッチンから美味しそうな匂いが漂ってきます。西本さんの奥さんが作ってくれたご飯でした。ほかほかの白ご飯に味噌汁、焼き魚というシンプルながら贅沢な朝ご飯が並べられていて、どんな高級な寿司よりもその温かさが胸に沁みました。
「朝から豪華すぎますよ」と言うと、西本さんの奥さんは笑いながら「若い人はちゃんと食べなきゃ」と、さらにおかわりを勧めてくれました。

その家庭の温かさに触れると、「自分がこんなふうに支えられているんだ」という思いが改めて胸に湧き上がりました。それは、西本さんが単に「社長」として接してくれるだけでなく、人として深い愛情を持って私たちを見守ってくれている証でした。

こうした細やかな気遣いやサポートがあったからこそ、厳しい仕事にも真正面から向き合えたのだと思います。時には厳しくもあった西本さんの背中には、いつもその優しさが隠れていたのです。

西本さんの助けと、具体的な夢のかたち

そんな気遣いのおかげで、私は貯金に集中することができました。漠然と「海外に行きたい」という夢を胸に抱きながらも、当時の自分には具体的な計画や行動の手段が見えていませんでした。それでも、西本さんは「若い時に金を貯めるってのはいい習慣だ。将来役に立つぞ」と飄々とした調子で、さりげなく背中を押してくれていました。

そんなある日、事務所で雑誌の広告ページの入稿を手伝っていると、一つの広告が目に留まりました。それはオーストラリアの語学留学を紹介するもので、美しいビーチと広大な青空の写真に、「夢の海外生活をあなたに!」というキャッチコピーが添えられていました。広告に目を奪われながら、「ああ、こんな場所に行ってみたい」と思わずため息をつきました。

しかし、その下に記載された金額を見たとき、現実に引き戻されました。航空券、授業料、滞在費などを含めて、総額150万円。夢が一瞬で遠ざかるような気持ちになりました。

そのとき、西本さんが後ろから広告を覗き込み、「お、オーストラリアか」と軽く笑いながら言いました。
「こういうのはな、大抵語学学校や航空会社、それに手配会社とか、複数の中間業者がマージンを取ってる。だから、書いてある金額そのまんま信じる必要はないぞ。」

私は驚いて振り返り、「でも150万円って…」と言いかけると、西本さんは肩をすくめながら続けました。
「実際の金額は、多分半分以下だな。いや、もっと言えば3分の1くらいで済むかもな。自分でひとつずつ手配すれば、こんな大層な額にはならない。航空券を自分で探して、現地の学校に直接手紙で問い合わせるとか、方法はいくらでもあるさ。」

その言葉を聞いて、目の前に閉じかけていた扉が再び開かれるような感覚を覚えました。それまでは、「こういうプランを使うしかない」と思い込んでいましたが、自分で調べることで道を切り開くという選択肢を初めて意識しました。

インターネットがなかった当時、情報を集める方法といえば、本屋や図書館でした。私は休日になると、地元の本屋で旅行関連の書籍や雑誌を立ち読みし、海外旅行や留学に関する情報をひたすらノートにメモしていました。図書館にも足を運び、地球の歩き方や留学ガイドブックのような書籍を探しては、費用や現地での生活に関する細かい情報を調べました。

時には、旅行会社のパンフレットを集め、航空券の相場や滞在費の違いを比較しました。「自分でやればなんとかなるかもしれない」という西本さんの言葉が頭に残り、その言葉に突き動かされるように行動していたのです。

仕事の合間にその話を西本さんにすると、彼は「お、なかなかやるじゃないか。もっと探せばさらに面白い情報が出てくるかもな」と軽い調子で笑い、応援してくれました。そして、「情報を探して比較する癖は大事だぞ。それが将来、どこに行っても役に立つ」と言ってくれました。

そうして少しずつ情報を集めていくうちに、「夢に向かって進んでいる」という感覚が芽生えました。これまで漠然としていた「海外に行きたい」という願望が、具体的な目標に形を変えていく瞬間でした。西本さんのアドバイスと、その背中を押してくれる言葉が、私にとって何よりの道しるべになっていました。

50万円の重みと初めての達成感

1年間、休日も事務所で仕事に打ち込む日々。その結果、通帳には50万円という大きな金額が記帳されていました。その数字を初めて目にしたとき、信じられない気持ちで何度も通帳を見返しました。「これ、ほんとに自分が貯めたんだよな……?」と、自分自身に問いかけながら、まるで夢を見ているような感覚でした。

以前の私は、貯金といえばせいぜいお小遣いをコツコツ貯めてという感覚しかありませんでした。それが、ゼロが何桁も増えたこの金額を手にしている。「自分にこんなことができたんだ」という驚きとともに、胸の奥からじんわりと達成感が湧き上がってきました。それはただの数字以上に、1年間の努力や工夫、そして支えてくれた人たちの存在を象徴するものでした。

夜遅くの事務所で、私は一人机に向かい、通帳を開いてじっと眺めていました。通帳の数字はまるで、これまでの1年間が映し出された記録のように思えました。暗室での作業、徹夜で雑誌の校正をする日々、写植屋への往復、そして西本さんの家でお世話になった朝ご飯。すべてが走馬灯のように思い出され、その一つひとつがこの50万円という数字に込められているように感じられました。

「こんなに貯められるなんて、思ってもみなかったな…。」
つぶやきながら、私の中にじわじわと「やればできるんだ」という感覚が広がっていきました。それは初めて味わう自信であり、自分の力で成し遂げたことへの誇りでした。

しかし、感慨に浸るのも束の間、心に浮かんできたのは、「これをどう使うか」という次の課題でした。私が1年間頑張って貯金をした目的は明確でした。それは、オーストラリアに行くこと。美しい海と空の写真に魅了され、語学留学という形で海外に挑戦したいという思いが、この1年間私を動かしていたのです。

「この50万円で、オーストラリアに行くことができるのか?」
頭の中で自問自答しながら、これまで集めた情報を思い返しました。雑誌広告で見た留学プランの総額は150万円。到底届かない金額に一瞬尻込みしていましたが、西本さんが「自分で手配すればもっと安くなる」と言ってくれたことを思い出し、気持ちが前向きになりました。航空券を自分で手配する方法、現地で語学学校を探す手段、滞在費を抑える工夫。図書館や本屋で調べた知識が頭の中でつながり始めました。

「まだ足りないかもしれないけど、このお金をどう使うか考えれば、なんとかなるかもしれない。」
そう考えると、50万円が単なる通帳の数字ではなく、未来への切符のように見えてきました。これがスタート地点であり、自分で未来を切り開くための資金なのだと気づいたのです。

通帳を閉じたその夜、私は深く息を吸い込みながら決意を固めました。オーストラリアに行くために、このお金を最大限に活かす方法を考え、準備を進める。それが私にできる次の一歩だと心に刻みました。夢に向かっての道が少しずつ見えてきた瞬間でした。

次のステップへの贈り物

その喜びに浸る間もなく、ある日、西本さんがふいに一枚の封筒を私に差し出しました。いつもの飄々とした調子で、「お前、そろそろ次のステップだろう?」と一言。それだけ言うと、再び作業机に目を落とし、書類に目を通し始めました。

突然のことで、私はきょとんとしたまま封筒を受け取りました。封筒の中身が何なのか、全く想像もつきません。「これって何ですか?」と尋ねると、西本さんはちらりと私を見て、「いいから開けてみろよ」と軽く促しました。

恐る恐る封筒を開けると、中から出てきたのは一枚の航空券。それはオーストラリア行きの片道オープンチケットでした。手に取った瞬間、私は驚きのあまり固まってしまいました。行き先が「Australia」と記載され、帰りの日程が未定の自由な片道航空券。その文字を何度も確認しているうちに、手が少し震えていることに気づきました。

「これ…僕にくれるってことですか?」
声がかすれ、何をどう言えばいいのか分からなくなっている私を見て、西本さんは肩をすくめ、ニヤリと笑いながら言いました。
「このままここに住み着かれても困るからな。そろそろ追い出さないとな。」

そのウィットの効いたセリフに、私は思わず吹き出しました。しかし、心の奥深くにその言葉の温かみがじんわりと広がっていくのを感じました。1年間、自分がどれだけ西本さんに支えられ、導かれてきたのか。その事実に改めて感謝の気持ちが込み上げてきました。

「でも、僕がいなくなったら…人手が足りなくなって困るんじゃないですか?」
勇気を出してそう尋ねると、西本さんは一瞬だけ真剣な顔をしましたが、すぐにいつもの軽い口調で言い放ちました。
「お前くらいの人間はな、履いて捨てるほどいくらでもいる。だから、気にせず辞めてくれ。」
その言葉に思わず笑いながら、「酷いいいようですね」と返しましたが、軽口の中に、「迷惑なんて思うな、前を向け」という温かいメッセージが隠れているのを感じました。西本さんなりの優しさが、何よりも私の背中を押してくれているのだと感じました。

その夜、私は航空券を手に窓の外を眺めました。この1年間、事務所での経験はただ仕事をするだけではなく、自分自身を鍛え、成長させる貴重な時間でした。そして、このオープンチケットは、西本さんが「お前のタイミングで自由に未来を切り開け」と託してくれた贈り物そのものでした。

「よし、やるしかないな。」
その言葉を胸に、私は新しい挑戦に向けて一歩を踏み出す覚悟を固めました。このオープンチケットは、ただの航空券ではなく、自分自身の可能性を試すための鍵だったのです。

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