うるさくて邪心のある人
成田山で引いた御神籤が、二回連続で「第二十四番 凶」だった。
一度目は年始のお参りで。二度目はゴールデンウイークにリベンジを兼ねて引いた。御神籤は何度引いてもいいのだと言うから、流石に二度目はないだろうと思っていたら、まさか、まるっきり同じ番号を引き当ててしまった。しかも百番まである中の同じ番号である。
そういえば、凶を引いたのは人生で二回目だ。悶え苦しむ真夜中、ふと思い出す。
高校三年生の初詣、受験生だった私を不安のどん底に突き落とした「凶」。あの時の私は、どうやって苦境を乗り越えたのだろう。無理矢理回想するが、だるまの色さえ思い出せない。いいことも悪いことも全部忘れてしまう自分が凄まじく愚かで情けない人間に思えてくる。
神のお告げはこうだ。
三女莫相逢(さんにょあいあうことなかれ)
:うるさくて邪心のある人には近づいてはならない。
盟言説未通(めいごんとけどもいまだつうぜず)
:なぜなら、どんなに誠意を持って接しても、相手には一向に伝わらない。
門裡心肝掛(もんりにしんかんかかりて)
:どうして気持ちが通じないのかと悶え悩むばかりで心の休まる時もない。
縞素子重重(こうそこれちょうちょうたり)
:こういう相手の心は布で幾重にも包んだように固く閉ざされているのだ。
釘を刺すかのように私にメッセージを投げかけてくるのだから、きっとこの御神籤には意味がある。ならば、私を悶え悩ませる「うるさくて邪心のある人」とは一体誰だろう。これから会う人か、もうすでに会った人か。記憶を巡らすと、何人かの顔が思い浮かぶ。以前使用した劇場の口うるさい管理人。近所のおばさん。同業の若手演出家。腐れ縁の男友達。誰もが当てはまっているようで、誰もがそうではないような気がする。なるほど御神籤め、こうやって私を悩ませるのか。
恨んだところで、何も解決しないと気づき、考えるのを中断した。
子供の頃から初詣で必ず訪れる神社があり、紅白だるまみくじを引くのが恒例になっていた。
見えない箱の中に手を突っ込み、ごろっとした塊をかき分けてだるまを掴み取るのが年始の楽しみだった。だるまに詰め込まれたみくじは大抵は中吉か大吉で、子供ながらに自分はなんて強運なのだろうと思っていたが、今思い返せば父も母も祖母も大体大吉だった。あれは新年を明るく迎えられるようにとの神主さんの気遣いだったに違いない。家に持って帰ってきただるまみくじは、玄関を入ってすぐのところの台に並んだ。大吉が嬉しいのは引いたその一瞬で、次の日には再び、色が塗られた木の塊と化していた。
それにしても、大吉を引いたことは一瞬で忘れるのに、凶を引いた途端、延々とそればかり考えてしまうのだから、私という人間は本当に自分勝手だ。大吉に感謝しないからばちが当たったのだろうか。だるまをもっと丁重に保管すべきだったのか。
くよくよしてもきりがないし、笑い話にしてやろうとしていたら、そうはさせるかと言わんばかりに、多種多様な不幸が揃いも揃って降りかかってきた。あまりに最悪だから、いっそのこと開き直って身に降りかかる不幸を拝受してやろうかという気にすらなる。
今や、目の下のクマが消えないことも、イヤフォンが水没したことも、恋人に振られたことも、名前をつけた近所の野良猫が死んだことも、全てが凶のせいのように思える。そう思いたい。
いや、だめだ。恨むのは罰当たりだ。
何もやる気が起きない自分をむりやり鼓舞して奮い立たせる。机の上に並べた二枚の御神籤を折り畳み、手帳のうしろのポケットに挟む。こんなことじゃダメだ。とっくのとうにわかってはいたが、結局、全ては自分のせいだ。それに、不運をどうにかするのも自分だと、私は知っているはずだ。