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「悟り」をどう定義するか
個人的な話になりますが、最近「音律学」という分野に強く関心を持っています。
ざっくり書くと、音楽理論の基礎である「音程」という概念について、そもそも音とは何なのかという物理的な視点を加味しながら、ピッチ(音の高さ、振動数㎐で考える)の配置をどのようにするのかを考え、それをピアノのような鍵盤楽器の調律法などに活かしていく、みたいな学問領域です。
そこについて見識を深めていくうちに、音の高さだけでなく、世界の「周期性のある運動現象」について、広く興味を持つようになってきました。
それは光も該当しています。
可視光線は電磁波のうちに含まれており、人間の眼球の受容体に届く直前に反射した物質によって色が決まるとのこと。
つまり、例えば緑のモノからの光を受容して「緑」を認識しているのではなく、人間側の脳が “勝手に” これは緑だと思ってしまうから、あたかも最初から緑色が存在していたかのように感じられます。
はじめから用意された環境に自分の身を置いているというより、自分という1人の人間が何かを認知・判断する、…いや、もしかすると、自分にとって都合が良いように享受することによって「脳が世界に色を塗っている」のだ、というふうに極めて主観的に世の中を捉えることも可能であるような気がしてきました。
実際、むかし僕の友達で、茶色とカーキグリーンを区別できなかった人がいました。意外にも、男性の2割が、重度に差はあるものの色覚障害があるらしく。だから、少なくとも「色の認識」という基準では、僕とその友達は異なる世界を生きていると解釈できないこともないわけです。
そこからさらに思考を進めると、仮に存在することと人間の認知がセットになっているのならば、
誰もいない南極で5秒だけエイリアンが居たとしても、それを「見た」という人が現れない限りは「存在しない」ことと一緒であるかもしれません。
これは、天文学のダークマターの研究にも繋がりそうです。人間は視認できないけれど、計算してみると “理論上は” 多量に存在しているという事実。
…そろそろまとめましょっか。
今回のタイトルである「 “悟り” の定義」として、現段階の僕はこんな感じで考えています。
あるモノが「存在する」状態と「存在しない」状態の二重性を帯びている、ということを、実感を伴って理解する
という感じでいかがでしょうか。
何かが存在し、「It is」の状態になっていることの客観的証明なんて、ほぼ不可能かもしれません。1人の人間がそれを「信じるのか疑うのか」という、非常にミクロな話でありながら、されどそれこそが宇宙の全て…、な~んてね。 (完)