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道徳の授業通りに進まないのが、大人の愉しみ/「痴人の愛」谷崎潤一郎
小学生のときの「道徳教育」、あれは何だったんだろうと思うときがある。
初めから「善」と「悪」の模範解答がくっきり決まっていることがらに対して、「みんなはどう思いますか?」と先生は聞いた。
私たちは「それは良くないと思います」と、大人の望み通りの答えを言って、そして滞りなく授業は終わった。
それから時が流れて、学校という枠の外に放り出された私たちは、「道徳的に正しいことをしても必ずしも報われるわけではない」「道徳に背いたほうが幸せを感じられることもある」ことを知るのだ。
こと恋愛において、それはものすごく残酷なカタチで現れる。
***
女の子は10歳にもならないうちから、「Aちゃんってさ、男好きだよね〜」「Bちゃん、男の子の前でだけ声が高くなるよね」なんていう陰口を叩くようになる。陰口を言っている本人たちは、「男女分け隔てなく接する私たちは、いい子だ」と半ば本気で思っている。
そして彼女たちは、数年後、AちゃんやBちゃんのような子に惨敗するという屈辱を味わう。それは、実らない片思いだったり、彼氏の心変わりだったりする。世知辛い。
「痴人の愛」で主人公を振り回し破滅させていく「ナオミ」は、ここでいうAちゃんBちゃんにあたる。
もしも道徳の授業でこの作品を扱ったとしたら、「ナオミは悪いと思います」「譲治とナオミは一緒にいないほうがいいと思います」という結論で物語は片付くんだろう。子どもの正義は、揺るぎない。
ここで「いや、そうは言ってもさ…」と反論するのが、大人だ。「これは良い」「これはダメ」という、まっすぐで邪気のない判断基準を失って揺らぐ大人の姿は、かっこ悪いけれどある意味愛おしいものだ。
「ナオミさんに懸った日には、どんな男でもそうなりまさあ」
「あの女には不思議な魔力があるんですな」
(中略)
「だがいいですよ、一編はああ云う女に欺されて見るのも」
と、私は感無量の体でそう言いました。
ナオミに振り回された男二人が、お互いをなぐさめ合いながら、「あいつはひどい女だ」と悪口を肴にお酒を飲み交わす場面は、特に滑稽だ。
だけど「ひどい女、最低な女」は、悪口の皮をかぶった最上級の賛辞だと私は思う。(「同性の友達がいなさそう」も、しかり。)その言葉を口に出した時点で、もう勝敗は決まっている。
「痴人の愛」に登場するのは、いわゆるダメな大人ばかりだ。ところどころで気持ち悪さすら覚えるし、彼らが友達だったらあきれ返るしかない。
でも、まあ、気持ちはわかるよ……と若干の擁護の気持ちが芽生えるのが、年をとったということなんだろう。世界は、道徳の授業の通りには進まない。
***
「道徳的に正しい」を行動の基準に据えて、それを貫くのも一つの生き方ではあると思うけど、「だって私はそうしたいんだもん」で筋を通す場面だって絶対にあるし、あってもいいと思う。
そして、周りから明らかに「それはダメだ」「辞めたほうがいい」と思われることに流されるのだって、あってもいいと思う。その代わりに、責任は自分で負わなきゃいけないけれど。
その自分なりの判断基準を、自身の痛みを糧に整えていくのが、大人の「勉強」の仕方なんだろうな。
と、そんなことを思ったのでした。
欲を言えば、高校生くらいで読みたかったな。
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