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文章と自分のリハビリ ⑧(2022年 9月中旬)

 只今、こころの充電中につき。
 一日一題、お題にそってものを書いて投稿するサイトに出したものより。

 そこは、私にとっては、note から逃避した隠れ家、です。だから、どこのサイトかは探しに来ないでください。
 だけどもしどこかで見かけたら。声をかけずにそっとしといてください。いにしえの仮面舞踏会では、仮面の下の顔は知らぬものとして、互いが手を取り、ダンスしていたように。

・◇・◇・◇・

 

① 一人称の視点人物の厚みと敬語にてこずる

 もはや、これまでのようだった。如何に祈りを尽くしても、火の山の憤怒はおさまらなかった。
「わたくしは、命が燃え尽きるまで、この祈祷所で、御山にむかって祈り続けます。されば、オサよ。みなを御山の怒りのとどかぬ静かな場所へ……」
しかし、オサは。首をたてにふらなかった。口もとに、ただ、やさしい笑みをうかべていた。
「御山がここまで怒ったことはない、とジイ様がいうておった。これは、祈りでどうこうできるような段階をとうからこえている、ということであろう……天の御鉾を、お出しなさい」
オサの物言いは穏やかであったが、私は怯んだ。顔面が蒼白になっていくのが、自分でもはっきり感じられた。
「ワシが、御山神をお諫め申し上げる」
オサは、そう告げた。
 
(以下省略)

 これは長い文章になったので、続きはまた別の note で。

 一人称の視点人物「私」を描くのが、意外とむずかしかったです。あとから読み返してみて、「私」の存在感がイヤになっちゃうくらいうすくって。つぎにとりあげている ② の文章ように、ごくごく短いものだとそれでも話がすすむけど(むしろ、キャラが無味無臭のほうが、話がサクサクすすむのでたすかる)、長くて主題の濃い文章では、登場人物にもそれなりの濃さが必要なのですね。
 一人称の視点人物は、自分と一心同体のつもりで語らせることが可能なので、キャラと距離を置く労力が減り、書くのがめちゃくちゃラクになります。毎日、お題を見て反射でなにかをひねり出す、というシチュエーションで書いてるので、このラクさは私にとっては捨てがたいです。だけど、それだけに、自分から独立した人格として厚みをもたせるのはむずかしくなるのだな、というのがこの失敗からの学びです。

 それと、さらにこの回でひっかかったのは、敬語のしゃべらせ方。巫女である「私」と「オサ」の地位の上下関係の設定があいまいであることに途中で気がついて、敬語をどうしゃべらせたらいいかわからなくなったり、そこにさらに、「女性のほうがつつましやかな言葉遣いをすべき」という現代的なジェンダー意識前提でキャラに敬語を使わせていたのに気がついたり。これらの難点については、いまだに未解決です。


② そこはかとないつながりのよさ

毎朝、8時から9時までのあいだに届く、君からのLINE。ボクはいつも怠惰にふとんの中にこもったまま、既読スルーをする。
内容は、たわいもないんだ。今朝の朝ドラ神回で泣いた、とか。前髪ウルトラ跳ねててアニメの主人公になっとる草、とか。快晴すぎて布団干した、とか。ほんとに、もう、どうでもいいことばっかり。
べつに既読すらつけなくてもいいようなLINEだけど、10時までに既読がつかなかったら、それはボクからのSOSとみなす、って約束だから。朝からゲームに夢中でスマホを開くのを忘却してた日、君はほんとに、ボクのところにとんできた。仕事は早退けして。そして、なんだ、よかった、死んでたらどうしようかって思ってた、心配させんな、ばーか……ってふたりでけたけた笑って、いっしょにゲームして、昼ご飯食べて、晩ご飯までいっしょにいたんだっけ。
それ以来だ。ちゃんと時間までに既読をつけるよう、ボクが朝、がんばるようになったのは。

こんなボクが今日もなんとか死なずに生きてるのは、まちがいなく、毎朝の君からのLINEのおかげだ。君がお釈迦様なら、ボクはカンダタ。君からのLINEという蜘蛛の糸にすがりついている、死にたがりのどうしようもないヤツ。
だけどね。最近は、君からの恩に報いるために、もっとちゃんと生きたいとすら、おもってるんだ……これにはボクが、いちばんおどろいている。

 《君からの LINE》というお題。LINE がお題になるのは2回目です。またもや、LINE は家族以外ではつかわないからよくわからない、という悩みにおそわれつつも、インターネット経由のそこはかとないつながりには、いまの自分はずいぶん救われている、とはおもっていて。そこを糸口に物語をひねり出してみました。
 たとえば、いま、うちの子どもは全然学校にいけてないんだけど、友だちとは LINE でうっすらつながってるらしいから安心、とか。親と先生とのやりとりも、メールを使えるから手間的にも精神的にもずいぶんラクチンだな、とか。かつては、先生とのコミュニケーション手段は、電話か面談かお手紙しかなかったわけで。ただでさえ子どもが引きこもってて気がひけてるのに、双方のスケジュール調整をしながら時間を割いて、直にやりとり……だなんて、想像しただけで重くて潰れそう。時代が変化してて、ホントによかったです。
 それと、LINE の既読スルーって独特のコミュニケーション手段ですよね。ちなみに、うちの家族同士の LINE は情報伝達が主途なので、ほぼ、既読スルーで終了。既読がついて、伝わったってことがわかればそれでよし、です。一般的に、既読スルーについてはあまりいい印象では語られないけど、うちの家族内では便利に使わせてもらってます。
 なんらかのメンタルダウンを経験したひとならわかってもらえるとおもいますが、気持ちが落ち込むと、既読スルーという、超消極的なリアクションすら精神的に負担に感じられることってないですか? だとしたら、しんどさのあまり、既読スルーというギリギリのリアクションでかろうじて外部とつながることができてる誰かの物語があってもいいのでは、と想像をひろげてみました。

 かくのごとく、インターネットの時代だからこそのコミュニケーションの軽やかさをふまえたうえで、インターネット以前の時代にとある先生がやってた、不登校児への取り組みが、最近やっと意味がわかってきた、っていうのもあって。その先生の取り組みを、今の時代にうつしかえながら文章をかきました。
 その先生は、「学校にこれてない子どもには、とりたててなにもしなくていい。毎日、折り鶴を届けてあげたらいい」といっていました。で、その折り鶴には、天気がいいね、とか、桜が咲いたよ、とかそこはかとないことをかいとくんだそうです。そして、くれぐれも、登校をうながすようなことはかいてはいけない、ともいっていました。
 一見、不登校対策とはおもえない、のほほんとした教育実践ですが、これってつまり、折り鶴を受け取った子どもにとっては、既読スルーでオーケーな、負担感のすくないつながりを保持することだったんだな、っていうことが、いまやっとわかるようになりました。先生からのメッセージつき折り鶴、というつながりがあることで、その不登校の生徒は、かろうじて、学校という社会のなかに居場所を保つことができてたんじゃないでしょうか。そして、先生は、折り鶴がむすんでくれるひとすじのか細いつながりをこまめにたもちつつ、生徒に立ち上がる元気が充実し、折り鶴でつながった糸をたぐり寄せて再び登校しくれることを、ただひたすら待っている。
 物語のなかの「君」の行動は、この折り鶴の実践を、LINE で実行させてみたものです。ていうか、不登校への社会的な理解すらほとんどなかった時代に、いまだからこそやっと理解がおいついてくるような教育実践をすでにしていただなんて、この先生の本質を見抜く眼には感服というほかありません。

 少々心配なのは、この文章にただよう空気感とか文脈が、メンタルダウンなり大病なり失業なり不登校なり、社会からのドロップアウトとでもいうべき大きな挫折を経験したことのないひとに、どこまで理解してもらえるだろうか、ということです。
 わかってもらうには書き込みが足りないな、とはおもいつつも、構想を練ってから書く、ではなく、書くと同時に構想も練っている即興書きなので、そこまで手を広げるのは、さすがにキャパ超えでした。


③ 一人称の視点人物に語らせるのって、やっぱりむつかしい


「空が泣く……って、そりゃあ、雨が降るってことだろ?」
いったいそのなにが不思議なことなのか、意味有りげな口調で切り出したアイツを、オレはそうさえぎった。
「そうですよ。たしかに雨ではありますね」
「雨ではありますね……って、なんだよ、そのふくみのある言い方は」
アイツは落ち着きはらってモンブランにフォークを刺した。一口食べた。美味で美味でたまらない、とでもいうふうに目をとじながら。オレもしかたなく、アイツが手土産で持参したモンブランを食った。たしかに、美味かった。きっとこれが高級洋菓子店の味ってヤツだ。しかし、オレは話の続きが気になり、パティシエの妙技の極みを味わうどころではない。
結局、アイツは一口一口、味わいを堪能するが如く、ゆっくり無言でモンブランを食べ続けた。つまり、オレは、アイツが全部平らげるまで待たされたってわけだ。
「教えたら一緒に来てくれますか」
コーヒーをすすりながらアイツはオレの目を真っ直ぐ見た。
「かなり過酷な探検にはなると思います。だからこそ、この話は、キミにもちかけようとおもいました」

(以下省略)

 少女漫画や BL 漫画にでてくる、「いかにも」なイケメンデコボココンビにしたれ!、と思いながら書きました。
 「オレ」は、頭ボサボサでさっぱり気質のワイルド系、「アイツ」は、端然と頭髪をなでつけた腹黒インテリ系で、俳優でいうなら、安田 顕さんと及川光博さんのおふたりに、30代にもどっていただいたようなイメージです。
 この文章でも、一人称の視点人物「オレ」に語らせるむつかしさを感じました。作者としては「オレ」には「食う」で、「アイツ」には「食べる」と動詞を使い分けたいわけなのですが、その使い分けのとおり視点人物に語らせてよかったのか、これも途中で気がついて頭をひねることに。

 さて。① の文章にみられるように、私はこれまでずっと、登場人物については、棒人間に服を着せたていどのあっさりしたあつかいしかしてきませんでした。② のように短い文章になると、「僕」とか「君」とかという人称代名詞で、記号ていどに区別がついたらいいや、ぐらいのあつかいでした。瞬発力でパパッと書いて、即投稿、というやりかたなので、削れるものは削って、余った力をストーリーを破綻なく仕上げるのに傾注するためです。
 しかし、① であまりにも視点人物の「私」のキャラがぺらぺらだった反省からか、ついに、この回では、具体的な描写に手を出してしまい、具体的になった分、予想どおり文章が長くなりました。
 そのうえうっかり地雷をふんで BL 風味をつけてしまいまして……BL 風味がつくと、読者がめっちゃひく、ということがよくわかりました(=_=;)

 つづきと反省についてはまた、別の note で出します。


・◇・◇・◇・

 

 5000文字にはやや不足ですが。
 今回はここまで。

 こんな感じで、われながら気に入った文章と、自己分析的なものを、つれづれに書いています。

 

 

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五百蔵ぷぷぷッこ / 140字のもの書き / Espansiva の中の人
いま、病気で家にいるので、長い記事がかけてます。 だけど、収入がありません。お金をもらえると、すこし元気になります。 健康になって仕事を始めたら、収入には困りませんが、ものを書く余裕がなくなるかと思うと、ふくざつな心境です。