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Bøhmisk-Dansk folketone ② 【C.Nielsen】《私的北欧音楽館》
YouTubeで、再生リストを公開しました。
ニールセン (C.Nielsen) 作曲
Bøhmisk-Dansk folketone Parafrase for strygeorkester
(CNW 40 /1928)
弦楽合奏のためのパラフレーズ「ボヘミア-デンマーク民謡」
今回も長編になったので、土日のお休みで、前回の記事と合わせて、ゆっくりお楽しみください。
さて、まずは前回の復習からまいります。
まず大前提として、この Bøhmisk-Dansk folketone Parafrase for strygeorkester に用いられている「ボヘミア-デンマーク民謡」とは、次の曲である。
ボヘミア民謡……Tecˇe voda, tecˇe (水は流れ、流れて)
デンマーク民謡……Dronning Dagmar ligger i Ribe syg (ダウマー王妃はリーベで病の床にふせている)
気がついた4つの謎
《謎 ①》
Bøhmisk-Dansk folketone は、たいてい6分台で演奏されるようだが、ブロムシュテット指揮の録音↓だけ、7分以上とかなり長いのが不思議。なぜわざわざゆっくり演奏したのか。
《謎 ②》
オーフス交響楽団の演奏↓は、Dronning Dagmar ligger i Ribe syg の引用部分(3:08ごろから)で、ため息のような空白の入る、特徴あるフレージングをしている。楽譜に指示はあるのか。
《謎 ③》
Tecˇe voda, tecˇe の引用部分(曲の冒頭)を、楽譜のスラーのとおり歌おうとすると、なんだかうまくいかない。どうしてこんな歌いにくいスラーをつけたのか。
(リンク先のいちばん下にBøhmisk-Dansk folketone があるので、タイトルをポチると楽譜が出てきます)
《謎 ④》
Dronning Dagmar ligger i Ribe syg の引用部分が、Laub の合唱用編曲↓とほぼ同じに聞こえる。パクリだったらどうしよう……。
それぞれの謎への答えと推理
《謎 ②の答え》
楽譜には引用部分の全部の音符にテヌートがついているだけで、特別な指示はない。どうやら、自分たちが Dronning Dagmar ligger i Ribe syg を歌うとき、自然に入るフレージングを採用したらしい。
だけどこのテヌートは、この歌の原始的な、縦に刻む感じを残すためにつけられた、と解釈できそうだ。
《謎 ③の答え》
このスラーにより、Tecˇe voda, tecˇe ののびやかさやうねりといった独特のニュアンスをクラシック音楽の枠内でも再現できる。
《謎 ④の答え》
このことについては、ニールセン自身が《Th.Laub のメロディから》とメモを残している。
Laub の編曲を取り入れることで、原始的な Dronning Dagmar ligger i Ribe syg が、メロディアスで横にのびる歌であるTecˇe voda, tecˇe や現代のニールセン自身の音楽と馴染みやすくなったのではないか、と思われる。
以上、前回わかったことをもとに考えると、もし、自分がこの Bøhmisk-Dansk folketone を指揮するとしたら、2つの民謡の持ち味を活かし、いかに歌わせるかが大事なようです。
・◇・◇・◇・
さて、今回は《謎 ①》に取り組むわけですが……その前に。
そもそも「パラフレーズ」ってなに?
って思いませんか?
「パラフレーズ」ってつく有名なクラシック音楽って、ぜんぜん知りません。
漢字でどう書くか調べてみたら「敷衍曲」って……見たこともない。
いろいろ調べながら自分なりに考えてみました。
原曲を違う楽器で演奏できるようにすることを、ふつうは編曲といいます。だけど、パラフレーズは、編曲のように楽器を移し替えるだけでなく、なんか作曲者のオリジナリティも付け加わらないといけないようです。
Dronning Dagmar ligger i Ribe syg について調べていたら、サン=サーンスもDronning Dagmar ligger i Ribe syg を取り入れた奇想曲「デンマークとロシアの歌による奇想曲」というのを作っているのが出てきました。ただし、この古謡は何通りかメロディがあるようで、サン=サーンスはニールセンとは別のものを取り入れているようです。
やっぱ、ニールセンもこのことは意識してたのかなぁ……なんて思います。だけどそれにしても、ニールセンが選んだのは、編曲でもなく、奇想曲でもなく、変奏曲でもなく、バラードでもなく、「パラフレーズ」です。
奇想曲等、それぞれの音楽の形式は、原曲を素材として作曲者が自由に料理をするイメージです。とくに、変奏曲は豆腐を素材にありとあらゆる料理を試みた「豆腐百珍」みたいなイメージです。
だけどパラフレーズは、もっと料理の素材がそのまま出てくる感じがします。素材そのままだけど料理人の手がちゃん加わって、盛り付けも工夫されているわけだから、「刺し身」もしくは、加熱してもう少し加工度の高くなった「カツオのタタキ」、盛り付けに花がある「カルパッチョ」のようなものでしょうか。
どうやら、あくまでメインは原曲で、作曲者は原曲を別の楽器に編曲しつつ、さらに「オレ流」のオリジナリティをいかに付け加えるか、それがパラフレーズという形式のようです。
だとしたら、《謎 ④》の Laub の問題も、「Laub が合唱用に編曲したものを弦楽合奏に置き換えて、さらにオレ流にしてみた」ということだから、パクリでもなんでもないわけです。いわば、ニールセンは Laub を本歌取りした、ということになります。
また、演奏する者もやはり、原曲の味わいを損なわないことをニールセンに求められている、と考えたほうがよさそうです。
・◇・◇・◇・
ダウマー王妃とニールセンをとりまく女性①
つぎは、Dronning Dagmar ligger i Ribe syg の主人公であるダウマー王妃について↓。
いろいろ調べてみましたが、確定していることは、1205年、ボヘミアからヴァルデマー2世のもとに輿入れし、1212年5月24日に亡くなったということだけのようです。生まれたのは1186年ごろとされているので、死んだときには、まだ、20代だったようです。
伝説では、囚人を解放したり、農民の暮らしが楽になるようとりはからったりした、心やさしい王妃として描かれているようです。が、どうやら、ヴァルデマー2世の後妻が不人気だったため、ダウマーがより称賛された、という側面もあるようです。
また、ダウマーは次男の出産が原因で亡くなり、ヴァルデマーはお付きのものがことごとく脱落してしまうくらい速駆けしたが、死に目には間に合わなかった、とされているようです。
グーグル翻訳は不十分なので断言はできないのですが、ネット上のいろんな記事を総合して考えるに、どうやら時代が新しくなってきてから(といっても、ニールセンの生きていた時代を含むのですが)、国威発揚というか、愛国心を奮い立たせるためというか、そんな理由から光が当てられた人物であるように思われます。
もしかしたら、ニールセンの生きていたころは、一種の「ダウマー王妃ブーム」みたいなのがあったのかもしれません。
こういうことは、やっぱり地元自治体にとっては誇らしいことのようです。リーベ1300年を記念したサイトに、ダウマー王妃の記事↓があります。
ダウマー王妃の伝説については、要領よくまとまっていると思います。
http://www.ribe1300.dk/Om%20Ribe/Historier%20om%20Ribe/Dronning%20Dagmar.aspx
が……見てほしいポイントはそこではなくって……。
気がつきましたか。
銅像の写真がありますよね。
うんうん、デンマークでも有名人の銅像作りがち、みたいですねー!……ではなくて。
ちょっと、キャプションを見てくださいな。
Dronning Dagmar skuer ind mod Ribe. Statue af Anne Marie Carl-Nielsen.
もうひとつの銅像の写真にもキャプションがあります。
Dronning Dagmar i stævnen på det skib, der førte hende til Ribe. Statue af Anne Marie Carl-Nielsen.
たぶん、みなさん、きょとん、ってなってますよね?
だけど、全国のニールセンファンは知っています。
彫刻家の嫁……ここに、降臨!
これには私もおったまげてしまいました……Anne Marie Carl-Nielsen はニールセンの妻です。旧姓は、Brodersen になります。
Bøhmisk-Dansk folketone について述べた文章で、アンネ・マリー作の銅像について言及しているものは、私の知っている範囲では見たことありません。
デンマークでは周知のことかもしれませんが、日本では、ほとんど知られてないのではないでしょうか。
2歳年上で、彫刻家。夫婦ふたりが芸術家でそれぞれ忙しかったから、いつも夫婦仲がぎくしゃくしていたけど、最後には和解した、あの、アンネ・マリーです(しかも、ニールセンが不倫していた時期もあるから、ちょっとひいてしまう)。
ニールセンの年譜を見てると、3行に1回くらいは夫婦の危機がきているような気がするくらい、よくもめてるのですが(もちろん、そこまでひどくはありませんが、回数は多いです)、それでも彫刻家であることをやめなかったアンネ・マリーは女傑です。
また、国王クリスチャン9世没後、亡き国王の銅像建設のコンペを勝ち抜く実力者でもあったようです。
ところで、このWikipediaの記事を見ると、
it was the first equestrian statue of a monarch created by a woman sculptor.
「君主の騎馬像を女性彫刻家が作ったのはこれが初めて」とあるから、デンマークという国は男女平等の面で、なにげにすごいです。
ニールセンとアンネ・マリーが生きていた時代は、シューマンの妻のクララや、まさに同時代人のマーラーの妻のアルマが、音楽家の夫に作曲することを禁止され、泣く泣くしたがったような時代です。
おそらくはアンネ・マリーが彫刻家として経済的に自立していたから、仕事を続け、国民的音楽家の夫とも対等にけんかができた、ということなのでしょう。
気になるのは、アンネ・マリーがダウマー王妃の銅像を作った時期と、Bøhmisk-Dansk folketone が作曲された時期の時系列です。
この2つの銅像は、1913年と1914年に作られたみたいです。が、いかんせん、相手がデンマーク語なので確たる記事を見つける前に手詰まりになり、お手上げになってまいました。
この記事を投稿したあと、また別の記事が見つかったりしたのですが……どうも、1912年には「ダウマー王妃没後700年記念」の行事が行われていたようです。アンネ・マリーの銅像制作も、それに関係がありそうです。
また、2012年にも、800年記念のイベントが開催されていたようです。
Bøhmisk-Dansk folketone は1928年で、銅像のあとなので、ニールセンもアンネ・マリーの流麗で凛然たるダウマー王妃像を意識しないわけにはいかなかったでしょう。
このころには夫婦仲も修復していたので、ふたりの間では、ダウマー王妃や銅像作成時のエピソードについて、なにか会話があったかもしれません。
また、若くして罪人や貧しい人々の救済を行おうとしたダウマー王妃の伝説と、結婚後もずっと女性芸術家として道を切り開き、歩み続けてきた老妻とが重なって見えたかもしれません。
1928年、ニールセンは63歳で、アンネ・マリーは65歳です。
ちなみに、ふたりは旅行先のパリで出会い、電撃的に恋に落ち、アンネ・マリーの親の許可を待たずしてパリの仲間内で結婚パーティーを開き、新婚旅行にも行き、1ヶ月後に教会で挙式してデンマークに帰ってきた、というつわもの同士です。1891年のことです。
このころのアンネ・マリーは、1898年にパリ万博で作品が入賞していくばくもたっておらず、若きカール・ニールセンの目には彼女がどれだけ輝いて見えたことかと思います(なにせ、パリにいながら、ドビュッシーにも会いに行かなかった、っていうくらいですから……)。
ならば不仲になるなよ!ってつっこみたくなりますが、それも人生、ってことでしょうか……。
ダウマー王妃とニールセンをとりまく女性②
ダウマー王妃は若くして亡くなってしまいました。ニールセンの自伝「フューン島の少年時代」を読んだことがある人はすぐに、ダウマー王妃と同じように早世した、ニールセンの姉たちのことを思い出すとおもいます。
おそらく唯一の日本語の文献です。
いつもデンマーク語とグーグル翻訳の謎の日本語で挫折しているので、ちゃんとした日本語であることがホンマにありがたいです(以下の記述は、この本の内容からの要約しました)。
しかも、日本語なのにニールセンの肉声が伝わってくるような気がします。ニールセンの目になって、ものごとを見ているような気持ちになります。
ニールセンは作曲だけでなく、文章もほんとにうまかったのだと思います。
このことには、ニールセンはひとつの章を割いて記述しています。
まず、3番目の姉、カーレン-マリー。
彼女はニールセンが7、8歳のころに結核で亡くなりました。彼女の奉公先の10代のふたりの娘も同じく結核で亡くなりました。
つぎに、2番目の姉、ソフィーの奉公先の女の子、アンネ−ソフィー。
アンネ−ソフィーの一家は、幼いカール・ニールセンを気に入り、母親は、勝手にアンネ−ソフィーの婚約者にしてしまうくらいでした。
だけど、彼女も重い病気にかかり、喉の手術までしましたが、助かりませんでした。
そして、とりわけ長く哀切な文章で記述されているのが、一番上の姉、カロリーネ。
カロリーネは、奉公先から、結核の咳と、婚約者に捨てられた傷心とを抱えて実家に帰ってきました。ニールセンが10歳か11歳のときのことです。
カロリーネはかつての恋人をあきらめきれず、10歳ばかり年下の弟を連れ、病身をおして、彼の住むところの近くに散歩にでかけます。ひと目なりとも、と願ってのことです。そうやって何度かでかけたようですが、願いはかなわなかったようです。
だけど、こっそりと手紙をやりとりしていたようなので、もしかしたら彼のほうもなにか事情があってカロリーネから別の婚約者へのりかえたのかもしれない、なんて想像してしまいます。
しかし、カロリーネもまた衰弱して、やがて亡くなってしまいます。
前回の記事を読んでいる人は、思い出したとおもいます。
ニールセンが Bøhmisk-Dansk folketone に引用したボヘミア民謡 Tecˇe voda, tecˇe も、恋人に捨てられた歌でした。
若くして命を落としたダウマー王妃を歌う Dronning Dagmar ligger i Ribe syg といい、Bøhmisk-Dansk folketone は否応なく、カロリーネの非命と重なります。
もしこの曲に描きたい女性像があるとしたら……
ここからは、完全に空想の世界に入っていきます。
Bøhmisk-Dansk folketone は、そもそもデンマーク放送交響楽団からの委嘱作品で、チェコスロバキア共和国建国10周年を記念したコンサートに際して演奏されたようです。
前回の記事中で「うっかりダウンロードした資料」↓にはこうあります。
Like A Fantasy Voyage to the Faroe Islands, Bohemian-Danish Folk Songs too is a commissioned work. The occasion was that the (then very new) Danish Radio Symphony Orchestra (today the Danish National Symphony Orchestra/DR) was to give a concert with a programme consisting exclusively of Czech music to celebrate the tenth anniversary of the foundation of the Republic of Czechoslovakia – an occasion also marked by several other events in Copenhagen.
※太字は筆者
※Fantasy Voyage to the Faroe Islands は、「フェロー諸島への空想旅行」で、ニールセンの代表作のひとつ。たまたまですが、前回の記事でも動画を上げています。
そんなわけで、まずはチェコスロバキアへのお祝いファーストで、Bøhmisk-Dansk folketone に Tecˇe voda, tecˇe が用いられているのはニールセンの意図というよりは、チェコスロバキアの初代大統領がこの歌を好きだから、です。
Dronning Dagmar ligger i Ribe syg はチェコスロバキアとの友好を表すために、チェコスロバキアに縁がある人物を選んだから、のようです。
この選曲は、ニールセンの姉、カロリーネの短い人生と重なりますが、それはまったくの偶然であるようです。
たしかに偶然なのですが、聴くものとしては、また、演奏する者にとっても、このことはついつい意識してしまうし、ニールセン自身にだって、なんの感慨もなかったわけではないと思います。
それでも、極力、感慨を廃して音楽に徹したか、やはり、なにか思うことを込めたのかは、厳密なことはもう、書簡や日記をあたるほかありません。それについては、ネット上に資料があるのかも、よくわかりません。
そこで、ひとつ問いをたててみたいと思います。
なぜ Bøhmisk-Dansk folketone は、かくも曲調は明るく、エンディングもハッピーなのか?
おそらくデンマーク国民は、「ダウマー王妃=悲しい、可哀そう」という図式に慣れきっているはずです。
女性が歌うとこうだし……
男性が歌ってもこうです。
Erik Harbo はこう見えても、れっきとしたクラシックの歌手です。
私もこの写真にだまされて、個性的だけどめちゃめちゃ歌のうまいフォークシンガーだと思いこんでいました。
いままで聞いたなかでは、いちばん発音がクリアな歌い手で、「なに言ってるのかよく聞き取れない」イメージの強いクラシックの歌手にも、こんな人がいるのかとびっくりしました。
解釈も独自で、ニールセンを聴いていくなら、Aksel Schiøtz と並んで注目すべき人です。
チェコスロバキア共和国建国10周年のお祝いだから明るくした、というのは当然としても、聴衆たるデンマーク国民から「これはダウマー王妃とちがう……」とそっぽをむかれたらおしまいです。
ニールセンは、「なるほど、これも確かにダウマー王妃に間違いない」と感じてもらわないといけなかったはずです。
だから、
ニールセンは音楽をとおしてダウマー王妃の物語をパラフレーズした
というのが、私の仮説です。
早死にしてしまった姉たちの思い出を語ることは、きっと、ニールセンの家族にとって、つらく悲しく、胸のつぶれるようなことだったでしょう。だけど一方で、「あのときは、楽しかった」と明るい思い出が語られることもあったはずです。
ことに、カロリーネについては、ニールセンも10歳になっていたのですから、生きよう、なんとか健康になろうと懸命になっている姿をつぶさに見、明瞭に記憶にとどめていることでしょう。
その毎日が沈鬱の一色だった、なんてことはあるわけがなく、たんたんと何ごともなく終わる日がほとんどで、大笑いで上機嫌で過ごした日だって、たくさんあったことでしょう。
前掲の自伝「フューン島の少年時代」では、早世した姉たちのエピソードを、ニールセンはこうしめくくっています。
後年、文学作品で美しく薄幸の女性について読むたびに、悲しそうですばらしかった姉(カロリーネ)の運命を知っていた私には、もうすべてがよくわかっているように思われたものです。(P.86)
※太字と( )は筆者。
ニールセンは、カロリーネの人生を「すばらしかった」と表現しています。
だから、ダウマー王妃の人生だって、哀悼一色で塗りつぶすのは「ちがう」と思った。精一杯生きて、輝いていたことを、短かったけど、家族にとっては、そして領民にとっては、彼女が生きていることが喜びであったことを、そしてなにより、彼女自身が(伝説では、貧困などの問題をとおして世の中と主体的にむきあいながら)この世に生をうけたことを謳歌していたことを、つまり、「生身の人としてのダウマー王妃」を音楽で表したい、と試みたのではないか、という気がしています。
この「フューン島の少年時代」の出版は1927年で、Bøhmisk-Dansk folketone よりも1年前ですが、「私には、もうすべてがよくわかっているように思われた」というのは、そういうことを指しているのではないかと思います。
アンネ・マリーのダウマー王妃の銅像も、流れるように美しく、堂々として、伝説の王妃にふさわしい風格を備えていますが、顔立ちををよく見ると、幼く、あどけなく感じます。
アンネ・マリーも、美化された伝説の王妃のなかに、若いころの自分と同じ、等身大の「少女」や、カール・ニールセンと結婚した当初の情熱、を見ていたのかもしれません。
……作曲しながらそんなことも夫婦で語り合っていたのかもしれない、と想像する楽しみは、後世の者の特権ですよね!
しかし、いくらニールセンが悲しみ一色の歌に「Nej (= no)」を唱えても、歌は歌詞に縛られています。
この歌の歌詞は、ダウマー王妃のいまわのきわを歌う歌詞です。
歌い手は歌詞の内容に反する表現はできません。なぜなら、歌詞の表すことを音楽的に豊かにすること、が歌うことだからです。
だけど、楽器は歌詞に縛られません。だから、メロディそのものをもっと自由にあつかうことができます。
だからこそ、ニールセンは歌詞から離れて自由になれる、弦楽合奏の曲へとパラフレーズする必要があったのかもしれません。
自分でもごちゃついてきたのでまとめます。
パラフレーズとは、次のような形式である。
メインは原曲で、作曲者は原曲を別の楽器に編曲しつつ、さらに「オレ流」のオリジナリティを付け加えたものである。
この Bøhmisk-Dansk folketone は Tecˇe voda, tecˇe と、Dronning Dagmar ligger i Ribe syg という2つの民謡を弦楽合奏にパラフレーズしたものである。
Dronning Dagmar ligger i Ribe syg は、古謡をそのまま用いるのではなく、 Laub 編曲の合唱版をパラフレーズしているようである。
とくに Dronning Dagmar ligger i Ribe syg については、ダウマー王妃の死を語る悲しい物語の歌、ではなく「生身のダウマー王妃」をうたう歌にパラフレーズしたかったのではないか。
そのために、王妃の死を語る歌詞から自由になれる弦楽合奏へとパラフレーズされねばならない必然性があったのではないか。
だから、演奏する者は、パラフレーズとして原曲の味わいを十分保ちつつ、ニールセンの打ち出したかったパラフレーズされたダウマー王妃像、つまり、短い一生をひたむきに生きた、ひとりの女性としてのダウマー王妃、を描くことを意識せねばならないのかもしれない。
はたして、ニールセンがパラフレーズという形式を選んだことにそこまで重層的な意味があったのかどうかはわかりません。
ただ、いままでニールセンの音楽を聴いてきて感じていることは、「この人は、無駄なことはしない、必然性のないことはしない」という信頼と、「この人は、人間が好きで、人が幸せになることがなにより好きである」という、深く温かな人間一般への愛です。
もしこの Bøhmisk-Dansk folketone を作ったのがニールセンでなければ、ここまでの深読みはできなかった、私に深読みをさせたのには、その人がニールセンである、という必然性があった、ということだけは確かです。
ニールセンの音楽、とくに民衆のための歌からは、ニールセンの人間性や哲学が手にとるように伝わってきます。
歌うことがそのまま歌い手の人間性を養うことにつながるような作曲家は、ニールセンぐらいしかいないのではないでしょうか。
・◇・◇・◇・
やっと。
ついに《謎 ① ブロムシュテットが Bøhmisk-Dansk folketone を7分もかけて演奏したのはなぜか?》に取り組めるようになりました。
が。
またもや、ここで10000字。
さらに続けるのはさすが強引なので、ここで区切ります。
次こそは完結したいです……。
記事は毎回、こちらのマガジンにおさめています。《https://note.mu/beabamboo/m/m63c623d2d5eb》
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