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マーラー「角笛」とニールセン「四つの気質」②〜生きろ、歌え!そして幸せになれ【C.Nielsen】《私的北欧音楽館》

 2019年9月1日(日)放送の「クラシック音楽館」(NHK)の感想、今回はマーラーとニールセンの類似点と相違について根掘り葉掘りしてみたいと思います。

N響第1915回定期公演 (2019年6月8日、NHKホール)
指揮 パーヴォ・ヤルヴィ
 
マーラー こどもの不思議な角笛
     (バリトン マティアス・ゲルネ)
 
ニールセン(ニルセン) 交響曲 第2番 ロ短調 作品16
          「四つの気質」 

 ニールセンは日本ではマイナーなので、演奏会で耳にする機会はほとんどありません。だから、今回のN響のように、「演奏会で取り上げるとしたら、ニールセンと誰の何をカップリングするのか?」という問題は考えたこともありませんでした。
 いやほんとに、どうしてパーヴォはニールセンにマーラーを組み合わせようとしたのか、不思議でなりません。

 

草莽より起つ〜マーラーとニールセンを比較する

 類似点ならあります。

 まず2人とも、1860年代生まれです。マーラーは1860年、ニールセンは1865年です。
 だけど亡くなったのは、マーラーは1911年で、勃発を怖れていた第一次世界大戦は経験せずにすみました。が、ニールセンは1931年で、第一次世界大戦をくぐり抜けています。

 2人とも、生家は裕福ではなく、兄弟が多く、しかも、早死してしまった兄弟もすくなくありません。
 ただし、マーラーの父は後に事業家として成功し、子どもたちに教育を施す余裕がありましたが、ニールセンは生活の安定のために、14歳で就職する必要がありました。

 下世話なところでは、妻が芸術家です。
 マーラーの年のはなれた妻、アルマは作曲を志していましたが、結婚を期に中断してしまいました。
 ニールセンの妻、アンネ・マリーは姉さん女房で、彫刻家として独り立ちしていました。仕事と家庭の両立は、この夫婦にとっても深刻な問題だったようです。

 また、2人とも、音楽の原体験に軍楽があります。
 マーラーは兵営の近くで育ったため、日常的に軍楽に接し、自分も弾いたりしながらして育ちました。ニールセンは14歳で軍楽隊に就職しました。
 ただし、マーラーが軍楽のメロディそのものを交響曲に持ち込んだのに対し、ニールセンはそれをしませんでした。
 あえてあげるなら、交響曲 第5番の第1楽章が行軍する軍隊を描写しているように聴こえることぐらいでしょうか。そのかわりに、交響曲 第2番「四つの気質」のように、ブラスバンドならではの音の響きを持ち込もうとしていたように思われます。

 しかも2人とも、正規教育ではないけど、音楽の才能を伸ばす環境に恵まれていました
 マーラーはユダヤ人でしたが、地元キリスト教教会の少年合唱団員でした。
 ニールセンは父親が、いわばセミプロ楽団の主宰者で、しかも、ニールセンは子どものときからこの楽団の一員でした。地元では引っ張りだこの楽団だったのいうので、腕前のほうも推して知るべしです。

 

 マーラー〜日常のなかに転がっていたものを芸術に

 さらに、2人とも歌の作曲に力を入れており、両者ともに「下からの芸術」を意識していたように思われます。

 

 マーラーは、ドイツの民謡の歌詞を集めた「子どもの不思議な角笛」にこだわりがあったようです。

 マーラーの歌曲集との混乱を避けるために、ここでは「角笛」詩集、と呼ぶことにします。

 収録されている歌詞自体は編者により、芸術的に形を整えられているらしいです。扱われている世界は庶民的でも、なかにはマーラーが取り上げた歌詞のように、世の中の不条理を鋭くえぐるものもあるようです。

 マーラーがこれらの歌詞を用いた歌曲には、「子どもの不思議な角笛」と、そのまんまなタイトルの歌曲集と、「若き日の歌」第2集と第3集があります。
 さらに交響曲 第2、3、4番は、「角笛」詩集の歌詞を用いた歌付きの交響曲で、俗に「角笛交響曲」と呼ばれたりしています。

 

 オーストリアのボヘミアの行商人の息子として生まれたマーラーにとって、「角笛」詩集で歌われていたような風景は、日常のそこかしこにあったのではないでしょうか。
 そして、毎日のように耳に馴染んだ、近所の兵営からのラッパの音や軍楽。
 そもそも芸術からほど遠いものを、いや、ほど遠いと決めつけられていた、少年時代の日常にごろごろところがっていたあれやこれやを、要素として取り上げ、芸術の域に高めたのが、マーラーだった、のかもしれません。
 前々回の記事では、軍楽にこだわるのは少年時代へのノスタルジーだ、みたいに書いてしまいましたが、それはとんでもない勘違いかもしれない、という気がしてきました。

 そういえば、交響曲に合唱を取り入れているのもマーラーの特徴です。これもまた、「教会の合唱隊にいた」という、少年時代の日常が反映されているのかもしれません。

 (追記)
 投稿後、思い出したのですが……マーラーの交響曲はレントラー、めっちゃひらたくいうと、ドイツ圏南部(ドイツ南部、スイス、オーストリア)の「ワルツみたいな田舎のダンス音楽」を用いがちです。これも、地元の日常風景を芸術の要素にした例にふくめてよさそうです。
 
 私もふくめ、「マーラー = 病んでるし、世界観が中二病」というとらえ方をしている人は少なくないと思います。
 だけど、こんなふうに土俗的なところや、土着のものを積み上げて出来た図太さなんかにも焦点を当てないと、真価を見誤ってしまうかもしれません。

  

 ニールセン〜日常のなかをさりげなく芸術で満たす

 マーラー「若き日の歌」は、原題は Lieder und Gesänge、グーグル翻訳にかけると「歌と歌」というミもフタもない訳され方をしてしまいますが、「芸術的な歌と庶民的な歌」と訳すくらいが適当かと思われます。
 でも、歌詞を「角笛」詩集からとり、タイトルで「Gesänge」とうたいながらも、作られた歌自体はコンサートで歌われるものです。根っこは日常でも、花が咲いているところも、花を咲かせる人も、日常からは遠いところです。

 だけど、ニールセンが目指したところは違っていました。「デンマーク国民がデンマーク語で、いつでもどこでも歌える歌」、それがニールセンの作った歌であり、ニールセンのライフワークでありました。
 その成果のひとつが、Thomas Laub と共同で作曲した、En sens danske viser です。……えーと、何回やり直しても、リンクのサムネイルがへんになるんですが、つながることはつながるみたいです。

 ニールセンといっしょに歌集に取り組んだ Laub も、ちょっとロマンティックないいメロディをかく作曲家で、デンマークでは今でもいくつかの歌が愛されているようです。
 しみじみと聴きたくなるやさしいメロディが特徴で、ニールセンがやたらと元気がいいのとは好対照です。

 お聴きのとおり、ニールセンも Laub も、ひとつも手抜きなくメロディをつけています。歌詞も、Aakjær 等、当時の気鋭の詩人や、アンデルセンのものもあったりするので、古今のすぐれた詩を用いているようです。

 ニールセンや Laub、詩人 Aakjær らの間では交流があり、庶民にむけてどんな文化を発信してくか、という問題意識が共有されていたような雰囲気を感じます。
 また、これらの歌自体からも、日本の「赤い鳥」や、北原白秋山田耕筰のコンビ、弘田龍太郎らの童謡……といったものと似た気風を感じます。
 だけど、このへんのことについての情報って、なかなかネット上でもぶち当たらないんで、詳しいことがよくわからないんですよね……。

 

 さらに困ったことに、ニールセンの場合、「芸術として作られた独唱の歌曲」もなぜか、庶民化してしまってるですよね↓……

 これ↓は、独唱の歌曲が合唱に編曲されたものなのですが、歌ってるみなさんが楽しげすぎでしょ……

 これ↓も合唱用になった歌曲。
 いや、さいしょから合唱曲でしょ?といいたくなるくらい楽しい。
 歌に上手下手なんて関係ない!とにかくいっしょに歌いたくなる!合唱は、青春だっ!

 

 つまりは、マーラーが、

 ありふれている、と思われていた素材から、
 思いもよらないような王侯貴族の用いる器を作る

 ような職人だとしたら、ニールセンは、

 ありふれてはいるけど良質の素材を用いて、腕のありったけをふるって、
 王侯貴族の使い心地のする普段使いの器を作る

 なのだと思います。

 だけど、両者とも、草の中から起こり、そこを立脚点としている、という点では共通しています。
 ただ、「下から上へ芸術」だったのか、「芸術を上から下へ」だったのかが大きく違っていただけです。

 

マーラー「幸せは、天国に……」
ニールセン「いや、この現世で生きてこそ!」

 さらに、今回の演奏会でパーヴォ「角笛」のなかから取り上げた曲をつぶさに見ると、ニールセンとマーラーの世界観の違いが如実に見えます。
 ただ、そこまでうがつためには、それなりにニールセンの歌も聴いておかねばならず、日本の聴衆にそれを期待するのは無理というものです。なので、パーヴォがそれをねらった、というよりは、たまたまそう解釈できる、というのが正しいと思います。

 

 あらためて、9月1日の「クラシック音楽館」で放送された「角笛」はというと……

 ラインの伝説
 美しいトランペットの鳴り響くところ
 浮世のくらし
 原光
 魚に説教するパドゥアの聖アントニウス
 死んだ鼓手
 少年鼓手

 となります。
 ご覧のとおり、「角笛」のなかでも際立っている歌が取り上げられています。

 どの歌も、戦争による生き別れ、貧困と飢え、といったままならないこの世の嘆きを題材としています。唯一、ふだんは「角笛」に入れられることのない「原光」のみが、「この世よりも天国に行きたい」と、天国へのあこがれを歌います。
 つまり、マーラーは、「この世はどうしようもない苦難に満ちたところで、救いは天国にしかない」と考えていたことになります。
 マーラーの各交響曲に描かれていることも、まったくそうで、最後は「天国の勝利!」とでもいったフィナーレで締められるが常です。そして、必ずといっていいほど、進軍ラッパのようなメロディが冒頭を飾るのは、少年時代のノスタルジーでもなんでもなく、「この世は地獄のように、生きるには辛すぎる」ことを象徴しているのかもしれません。

 この世には救いがない……という絶望感は、マーラーがユダヤ人だったことも関係していると思われます。
 指揮者として、ウィーンで頂点を極めたのに、なにごとにつけ「ユダヤ人である」という一点だけで貶められ、嘲笑される。しかも、敵を作りやすい性格だったようなので、なおさら、安心できる居心地のよい場所は少なく、遠かったことでしょう。
 ゆえに、「魚に説教するパドゥアの聖アントニウス」のように、「良いものを示しても、世間には伝わらない」という断絶感は、マーラーにとっては日常のことだったのでしょう。

 ……うーん、これ、なんだか、日本とお隣の国とが、どうのこうの騒ぎになってるのが思い起こされて、たいそう耳が痛いです。

 

 ひるがえって、ニールセンはどうか。

 マーラーは貧困を、「浮世のくらし」で、「お腹のすいた子どもにパンを食べさせるために種まきから始める」という……まあ、当然、パンは間に合わないから、小麦を種から育てた母親の努力のかいなく、子どもは死んでしまうんだけど……救いのないブラックユーモアで描きました。

 でも、ニールセンは違いました。片目が不自由で、死ぬまでハンマーで石ころをかち割り続けた爺さんのために、こんなメロディをつけました。

 ニールセンはひとことも、悲しいだとか、不幸だとか、哀れだとかいいません。

 ねえねえ、日よけのかげにいるのは誰?
 そいつぁ、道路工夫のイェンス爺さんさ!

 と、悪ガキどものはやし言葉そのまんまのような Aakjær の詩に、これまた悪ガキどものはやし歌をそのまんま写し取ったような歌をつけました。

 Aakjær の詩句には独特の調子があるみたいで、ほかの詩にニールセンがメロディをつけたものも、なんだかテンションがたかく、えらく調子がいい場合が多いです。
 ニールセン以外の作曲家も、Aakjær だとついノリノリの曲を書いてしまうみたいです。

 ただ、イェンス爺さんは、爺さんなりに仕事熱心だったろうし、生きてるうちは楽しいこともあったろうし、貧しかったとしても、その人生は悪いことばかりじゃなかっただろう……ということも、ちゃんとそのメロディですくいあげています。
 たとえ石ころだらけの人生で、墓は木の板切れ1枚だったとしても、です。

 だから、

 「ああ……うちの爺さんも……大事にしてやらなきゃね」

 と、イェンス爺さんのことを自分の地続きの物語としてうけとめられるのだと思います。
 この歌は、当時のデンマークでは大ヒットしたそうですが(で、ニールセンは一気に有名人になったみたいです)、このメロディに込められたものを受け止めることのできたデンマークの人たちの感受性にも、なにか胸の震えるものを感じます。

 貧しさは、ニールセンが幼いときにイヤというほど味わったものです。だけど、貧しいことがすぐに不幸につながるわけではない、ということも肌身で知っていました。それは、自伝「フューン島の少年時代」の記述からうかがえます。
 なによりも、「貧乏人は珍獣でも何でもなく、ふつうに人間だし!」ということを身をもって知っていたはずです。

 「自伝」には、母親が慈善に対して、「これは施しなのか、権利なのか?施しならいりません。権利なら受け取ります」と毅然としてみせたことが書かれています。
 そう、イェンスみたいな貧乏人は、生活に余裕のある人々から「哀れがられる対象」として存在しているわけではないのです。

 尊厳ある人間なのです。

 ニールセンのメロディは平易です。しかし、「個人の尊厳」とか「幸福追求権」とか「生存権」だとか、とかく頭でっかちになりがちで、字面だけではよくわからないものを、手触りのあるものとして実感させてくれます。
 いや、逆に。
 そんなふうな実感が結晶したものが、「ナントカ権」とかいうものなのだ、と逆立ちした知識の横っ面をしたたかに張り飛ばします。
 そのメロディは慈しみに満ちているだけでなく、貧乏人に対して「哀れがられる対象」として線を引きがちな世間への、強固なレジスタンスすら潜んでいることを感じさせます。

 

 母と子、については、こんな歌を作っています。

 お母さん、夜になったらおひさまはどこへいっいゃうの?……と、世界の不思議が気になって仕方ない坊やを寝かしつける歌です。

 これこそが親と子の幸せである、という以外、なにもいうことがありません。

 どんなに貧しくても、恵まれない境涯でも、
 この世に生きて、この世で幸せになること。

 ニールセンはマーラーとは真逆の価値観でした。

 

 だから、真善美を大衆に語りかけることもあきらめませんでした。

 まっすぐに人生を歩むことを、後押ししました。

 そして。
 地に足のついた労働の中にこそ、人生の喜びと、明日への希望があり、それが幸せというものなのだ、と歌いました。

 今回あえて、歌のタイトルの日本語訳を示していません。
 ニールセンの前向きな人間讃歌を、ただメロディから聴きとってほしいと思います。メロディと、私の書いた簡単な説明だけで歌の内容が十分に伝わるほどに、ニールセンの描写力は卓越しています。
 そして、以前の記事↓で、ニールセンのことを「実践的な哲学者」だと言いましたが、その所以も、これらの歌からよくわかってもらえると思います。

 いま、「日本語が読解できない人が意外と多い」ということが話題になっています。そのことを考慮すると、「身の回りの音楽をよいもので満たす」というニールセンのたくらみは、まさに理にかなっていた、といえます。
 その一方で、音楽のもつ伝達力や教化の力を侮ってはいけないことも、ニールセンのメロディから学ぶことができます。

 最後に。
 ニールセンは政治的にはどのような立場だったのか、政治的な活動には積極的だったのかどうか、ということについては、いまのところ調べようがなく、よくわかりません。
 しかし、「あなたが生きて、今ここにいる。それだけで素晴らしい」というところから全てが出発している、ということは、音楽を聴くだけでわかります。

 

・◇・◇・◇・

 

 超人的な才能をもちながら、ユダヤ人であるがゆえに、世界の中に居場所のなかったマーラー
 貧しい出自から出発しながらも、世界と自分を十二分に肯定できたニールセン。

 並べると、違いがよくわかります。

 ショスタコーヴィチヴァインベルクと比較したときも感じたのですが、ニールセンがニールセンらしくまっすぐでいられたのは、じつは稀有なことで、歴史の奇跡なのではないかとすら思います。

  

 最近の「クラシック音楽館」では、歴史や社会に人生を捻じ曲げられた作曲家が取り上げられることが多いです。
 下野竜也は、スターリン独裁下のソ連を生きたショスタコーヴィチ、ナチスに父と妹を殺された、ユダヤ人の作曲家、ヴァインベルクを。
 ネーメ・ヤルヴィは故郷、エストニアのトゥビンを取り上げました。トゥビンはエストニアがソ連により独立を失ったのを機にスウェーデンに亡命し、そのままスウェーデンで没したそうです。

 そして、ネーメの息子のパーヴォ・ヤルヴィは、伝統的なユダヤ人差別に苦しんできたマーラーを。

 彼らを苦しめてきた差別や社会体制を擁護することは到底できません。しかし、今さら、かれらを救出にいくことはできないわけで、今の私たちにできることは、「繰り返さない」ということだけです。
 そしてもうひとつ。
 どうしようもなく非人間的な状況下でも、かれらは、自分の胸の中に湧く歌を歌うことをやめなかった、ということ。権力が、いかな力づくでも、湧き出る歌は止められなかったし、これからもそうである、ということです。

 まさに、歌うことは幸せです。
 それは、ニールセンの歌と人生が証明しています。

 

 

次回はこちら↓。

 

記事は毎回、こちらのマガジンにおさめています。

 

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