白い風景【吉松隆】
まだやみあがりで書くエネルギーも復活しておらず、あれこれかけないままネタがあたまのなかで渋滞になっていますが、その渋滞をすっとばしてしまうくらいすっごい曲をいまさっき、聴いてしまいました……っても、それは昼前のことで、これを書いたり書いたものを休めたりしてるうちに、こんな時間になっちゃった。https://youtu.be/gKWAJoIdTt0
吉松隆は、ピアノ等の小品は好きなのだけど、オーケストラをもちいた大作は、ちょっとやり過ぎ感があって、苦手で、あえては聴いてません……例外は大河「平清盛」のオープニングと「タルカス」くらいです。
「白い風景」はフルではなく室内オーケストラですが、こんな曲もあったのか!と、刮目してしまいました。
ひたすら乙女で、ひたすらキラキラで、ひたすらキャッチーで、ひたすらわかりやすく、クラシックの現代音楽のジャンルからは「大衆迎合」と謗られてもおかしくないのに芸術として屹立している。それが吉松隆の音楽です。
音楽だけでなく、タイトルまでもがいちいち夢見る文学少女で、ときどき、キーーーッ!、って、なってしまいます。マジで。
にもかかわらず、吉松隆がなぜ芸術たりえているか、というのはほんとうに不思議でたまらなかったのですが、この「白い風景」が謎をといてくれました。
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一聴してあたまにうかぶのは、水墨画の雪の風景と、短歌の音律と余韻です。
また、中国趣味にあこがれたマーラーの「大地の歌」の終曲「告別」や、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」のフルートも耳によみがえります。
もし、マーラーとドビュッシーがこの「白い風景」を聴いたら、きっとこう叫ぶんじゃないでしょうか。
生まれたときから
北斎の国の人だなんて、ズルい!
彼らは、「東洋」というものを学んで後から身に付けないといけなかった。でもその「東洋」は、借り物感がぬぐえないものです。どこかしら、ゴッホがコピーした浮世絵のような、「なんかちょっとちがう」感じがあります。
だけど、吉松隆は生まれたときからすでに、「東洋」という絵筆がすぐそばにあり、操るための感性は日常の暮らしのなかで磨かれ、それゆえ自家薬籠中のものとして操ることができる。
これはもう、彼らからしたら、悔しいくらいのチートです。もしくは、うらやましすぎる魔法です。
いや、でもね、東洋の島国からいわせてもらうと、ヨーロッパ的な音楽を習得するために、明治維新以来どんだけ苦労してきたかわかっとんのかいッ!……って思うんですけどね!
だけど、その苦労の結果、
西洋の楽器と音楽理論をパレットに、
日本の美意識を音楽にできる
という音楽家がうまれた。
そのひとりの、いちばん巨大な人が、伊福部昭。
アイヌの音楽や日本の民謡等々をふまえて、日本人にしか書けない音楽を書いた。伊福部昭自身は日本人なのですが、幼いころからアイヌとその音楽とに接しながら育ったひとなので、あえて極端ないいかたをすると、「アイヌがオーケストラを用いてカムイユカラを歌った」というのが、伊福部昭の音楽の本質だと思います。
アイヌ独自の、日本独自の土俗性、これが、伊福部昭を貫く美意識です。
この伊福部昭の孫弟子である吉松隆もまた、そのようなひとりに数えることができると思います。
だけど、吉松隆の美意識は、上流社会の美意識、「芸術」として後生にかたちが残っているものを踏まえているように感じられます。
たとえば、「平清盛」は、ドラマのストーリーも絵面も、平安貴族の「きらきらしさ」に、台頭する武士の「朴訥な潔さ」が対抗するものでしたが(実際のドラマは、めっちゃ暗闘でドロドロだったけど……)、吉松隆の付けた音楽は、その極致であったとおもいます。https://youtu.be/ZysKS_8fDmg
そして、上からの美意識のなかでも、「しずしず」というオノマトペで表現できる日本の美のたたずまい、それがこの「白い風景」には満たされています。
この「しずしず」こそが、この音楽を聴いてのいちばんの発見です。
それから、このひとはほんとうに鳥が好きなんだなぁ……といつも思います。あらゆる音楽に、鳥のさえずり、はばたき、飛翔がちりばめられています。しかもこの鳥たちは、鷲や鷹のような猛禽ではなく、狩られるがわの、よわく、ちいさく、それでもなお、けなげに生きている中小の鳥たちです。
このような「はかないものを愛で、惜しむ」というのも日本の美意識の特徴です。
さて。
「はかないもの」は壊れやすいから、「しずかな」場所が必要です。
たとえば、藪のなかにひっそりとたたずむ春蘭を、都会の花壇のなかに植えて、その美を発揮できるか?それは明らかに「否」です。辺りで美がうるさく自己主張しない山のなかだからこそ、春蘭は美しい。
また、しゃがはひとつの花のなかに宇宙が感じられるほど色も形も繊細な花です。私は山のなか、やや薄暗いほどのところで木漏れ日をはだらに浴びたしゃがの群れほど美しいものはないと思いますが、しゃがほど花壇の似合わない花もまた、ないと思いますし、絶対に、花壇用に品種改良されてほしくないと思います。
さらに、鼓や横笛のかそけき余韻や、舞い手の微細な挙措にこめられた膨大な量の情報を受け止めることができるのも、演じ手も楽器も装飾も節約されて、能楽堂がしずかだからです。
こんなふうに、
日本の美意識は
「しずけさ」に支えられている。
……って、デカイ字にするなよ。
……おばちゃん、不粋なことしちゃった。ごめんね。
しかもそのしずけさは張り詰めている。「静謐」と名付くべきものです。
張り詰めているから、些細な気配も見逃さない。ちいさなものもおおきくみえるし、通常なら美しいとも思えないものにも美を発見できる。もしかしたらそれが、わびさび、と呼ばれるものの正体かもしれません。
まあ、皮肉な見方をすると、空気を読むのが得意な国民性や、障子の桟のほこりに気がつく目敏さが美の世界で発揮されるとこうなるのかも、ですよね。
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「張り詰めたしずけさ」と「ちいさくはかないものへの愛惜」という日本の美意識を貫徹し、しかもそれらを西洋の楽器を用いて表現することに成功している。だから、どんなに乙女でどんなにキャッチーでも、吉松隆の音楽は芸術なのだ、というのが私の結論です。
伊福部昭も吉松隆も、「伝統」という文化の個別性を、伝統ののりを越えたところで表現し、普遍的なところへと還元した。しかも平易にです。まさしく、和魂洋才、と評すべきです。
日本のクラシック音楽界は、もっと積極的にこのふたりをとりあげてもいいのではないでしょうか。
音楽の実験が必要なのは理解できますが、一般人にはわけのわからない音楽ばかりを「現代の芸術」として聴かされるのは正直しんどい。芸術性は難解さにのみ宿るものではないはずです。
ついでにぶっちゃけちゃいますが、武満徹のすごさがわかったのは「小さな空」を聴いてからでした。
代表作の「ノベンヴェンバー・ステップス」はいまだによくわかりません。
私がずっと追いかけているデンマークの作曲家ニールセンだって、大衆向けの平易な歌の仕事は、クラシック業界では等閑視されています。だけど、じつは、おそろしく考え抜かれていて、聴けば聴くほどニールセンにたいする驚きと敬意を深めざるをえない、というのが私の結論です。
この歌のこの録音なんて……はっきいって、「この人こわい……」のレベルです。だけど、プロであるクラシックの演奏家であっても、そこまで楽譜を読み取れてないことが多いです。それについては、いつかこってりと記事にしますね!
伊福部昭も、映画音楽の仕事が芸術としてとりあげられることはなかなかないですが、映画音楽を聴くことなしに伊福部昭を論じることは不可能です。ていうか、映画を見てはじめて、「この楽曲のこのメロディーはなにを指し示しているか?」ということを知ることができる場合が多々あるからです。
また、ピアノのトーンクラスターやミュージックソウの導入等、音楽の可能性の実験に満ちあふれているのも映画音楽なのです。それは、ストラビンスキーの「春の祭典」に勝るとも劣らぬスリリングな音楽体験です。https://youtu.be/lrZy8nlwxEE
東宝特撮の「宇宙大戦争」のオープニング↑は、映像も音楽も、そのマッチングも素晴らしすぎて……見るたびに、伊福部昭がいかにすぐれた芸術家であるかを思いしらされます。
だから、大衆性や平易さを「芸術とはちょっとちがう」と格下視するのは、宝をどぶに捨てるようなもので、あまりにももったいない。それに、みずから間口を狭め、クラシック音楽のファンをみすみす減らすだけだと思います。
YouTubeをみていると、伊福部昭も吉松隆も、洋の東西を問わず熱心なファンが多数ついているのがうかがえます。敷居が低くても思想のある音楽だからこそ、国境を越えて支持されるのだと思います。
そんな国産のクラシック音楽を、もっとたくさん聴かせてほしいです。
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それと……
世界一の《シャララララン》遣い
というのが私の勝手につけてる吉松隆のキャッチフレーズなんですが……張り詰めたしずけさとはかなさ、という2つの軸から吉松隆をみると、「そりゃ当然そうなるわ!」というよりほかはない、ってことですね……(´ー`A;)
《シャララララン》とは、金属の棒がいっぱいぶら下がった、鉄琴のような音のする楽器で、「平清盛」のオープニングにもつかわれています。
世間では、ウインドチャイム、とよばれています。
楽器の数が多い吉松作品が苦手、と感じるのも、せっかくのしずけさが損なわれてしまうからかもしれませんね……。