コンセプチュアルアートはデュシャンの専売特許ではないー共有された図像知とその暴露ー
『西洋美学史』において重層的な意味でのホワイトヘッドの「哲学はプラトンに対する一連の脚注である」ということが明らかにされている。もはや美学とは、本来の哲学的領分を離れ、単に「その人の生きざま」とか「孤高の価値観」という意味に落ち着くことが多い現代において、近代的な学問としての、あるいは概念としての「美学」並びに「芸術」を考えることは私の専門に関して重要なので、独りよがりな雑多なレポートを示しておきたいと思う。
美学の成立ー十八世紀のライプニッツ=ヴォルフ学派とバウムガルテンー
ライプニッツと認識の分類
ライプニッツと言えばアリストテレス二世とも冠してよいくらい万学に対する深い造詣を持った人物であることは述べるまでもない。その功績は数学、哲学など多岐に渡っている。『形而上学叙説』やその後の認識に関する議論の中で「判明な」認識に関して芸術的対象に対しては「混雑した」認識であるところの、明晰な認識とはレヴェルを異にする下位認識に関して述べている。
バウムガルテンと美学
その流れを汲んだヴォルフらに次いでバウムガルテンが十八世紀半ば『美学』(Aesthetica〔羅〕)を著すことになる。その中で美学は「下位認識能力を嚮導する」学問ないし技術であることが序論などからも明らかである。ここで一点注意すべきは、先のライプニッツとの関連であり、この美学という領域は当初認識論つまり哲学の一分野として成立を迎えている、ということだ。それは冒頭のホワイトヘッドの言葉で解釈するのであれば、古代ギリシア以来の真善美に関する議論の延長(特に真理探究の存在論に関して)に正当な系譜として美学としてプラトンの注釈を為したものである、と言える。つまりポッと出てきた思い付きでバウムガルテンが書いたものではなく、歴史的な順序にかなり沿う形で過去と当初の認識論に関して新たなスポットライトをあてたもの、それが「美学」であるということだ。
モダンアート(近代)とコンテンポラリーアート(現代/當代)
「現代」という言葉と現在
今何時代なのか、と問われるのであればそれは「現代」と答えるのは別に何ら不思議なことではない。むしろ常識であるくらいだ。問題はその翻訳元のcontemporary〔英〕の意味である。この単語に関しては二通りの解釈が可能である。
一つは「今現在」というこの時代そのものを表す言葉であるということである。「モダンアートと対比して現代の」と言い表すときにはそれは別段不協和音を為さない。問題は二つ目の解釈だ。
つまり「當代」という風に訳された時である。これは「共時的な」という意味を含んでいる。中世にも共時的な時代はあり、十二世紀と言えば、日本は鎌倉幕府成立、西洋では十字軍遠征、十二世紀ルネサンスなどがそのコンテンポラリーに当たるのだ。
ここでは前者、つまり「今風の」という意味での現代を採用する。
アカデミズムとモダンアート
古典的な名画や図像、聖母子像など、その伝統がキリスト教やルネサンスでの古典復興などによって確立されたある種のメインストリームというべき絵画史というものは共有された概念に貫かれているのだ。例えば聖母子像と言えばマリアが描かれ、その子イエスと従弟とされるヨハネなどを中心に、装飾がなされて、それこそ「聖母子像」というある種の性質や基本性格を作り出す。
アカデミズムというものはそうした「理解可能な共通指標に対する一連の系譜付け」であると言える。そこでは美しいものを美しく描き、神話や宗教の世界観を所与のものとするような趨勢が勃発、いや鎮静して深く沈んでいたのである。
その延長にモダンアートが成立する。この近代的な価値観の中では個人というものがもはや既成のものとなり、作家自身とパトロンが一対一で取引するような形態になり(それ以前には寄進者と教会と作家の間の取引であった)、その中で自由な画風がレアリスムという形態をとって「現実に即した絵画」という側面を打ち出していく。
コンテンポラリーアートとコンセプチュアルアート
十九世紀のモダンアートにもある程度のオリジナルや独創性が見いだされるのに対し、デュシャンという作家は真っ向からそれを嘲ったことは有名な話である。つまり「泉」である。もはや既製品(オーダーメイドと対比してレディメイド)である小便器をそのまま展示したのだ。ここにコンセプチュアルアート、つまり概念先行の、思惟に対する芸術概念の拡張を見て取るのが一般的な美術史観である。
しかし、コンテンポラリーアート=コンセプチュアルアートという定義は些か早計である。作品の概念は先にも述べたような共有された意味/価値という概念を既にモダンアート以前に獲得していたのだ。そこでその概念/図像の濃度的な入れ替わりが認められるようになった、というだけの話であり、「コンセプチュアルアートはデュシャンの専売特許ではない」とする論拠もここにある。
コンセプチュアルアートはデュシャンの専売特許ではない
本題はここである。共有された図像知が既に歴史的な概念であることはモダンアート以前/以後から明らかである。それではデュシャンがコンセプチュアルアートの第一人者でないとしたら、彼のどんな点に意味を見出すのがよいのか。
それは「共有された図像知」というものを一切排した、オリジナルですらないものにおける芸術性を見出した点である。つまりそれは全く歴史を踏まえず、踏襲の連続のさなかにない新たな系譜の創造を試みた、ということである。それではやはりデュシャンがコンセプチュアルアートのパイオニアであることは認めざるを得ない。問題はデュシャンのみにコンセプチュアルアートの起源を見出すことの危険性というか、それとはまったく異なった理解をする必要性が要請されているということの提示に他ならない、ということだ。
ではその異なった理解というのはなんであるのか。それは「共有された図像知というものそれ自体の暴露」である。もはや共有された図像知の埒外である「泉」は逆説的にコントラストをなしてそれ自身を際立たせている、ということだ。概念/図像の対立関係を、概念優位に押し切って、そのうえでもはや共有された図像知という歴史性を一挙に排した新たな概念の成立の功績が、デュシャンを評価する一つの指標になるであろう。
と、言うことを少し考えたのだ。