第11回の4:プレ・パンク期の東京シーンにて輝いた、「生きるグラム」峰岸洋の伝説を追う!
高木完『ロックとロールのあいだには、、、』
Text : Kan Takagi / Illustration : UJT
ビームスが発行する文芸カルチャー誌 IN THE CITY で好評だった連載が復活。ストリートから「輸入文化としてのロックンロール」を検証するロングエッセイ
『名無し人』と『キラキラ社』は岩谷宏によって作られた劇団だ。岩谷宏は『ロッキング・オン』創刊メンバーの一人で、主にデヴィッド・ボウイについての原稿を書き、その内容は多数の信者を産んだ。
「岩谷さんは『年寄りはダメだ。若い奴じゃなきゃ』って言ってて。あの人、スレスレの人なんですけどね。アナーキストみたいだったよ。岩谷さんがいた頃以外の『ロッキング・オン』は普通の雑誌だよね」(窪田晴男)
岩谷宏に影響を受けた人々の中には窪田晴男をはじめ、山崎春美とECDもいた。影響を受けた人たちはみな、岩谷が立ち上げた劇団に関わっていく。
「最初の集会が立川の方であって、俺、関西から来てるから早めに行ったら石田(ECD)が来て。俺が岩谷宏だと思ったって。俺まだ10代なのに」(山崎春美)
その劇団の第一回公演で主役を務めていたのが峰岸洋という人物である。どうやら彼がプレ・パンクの東京グラム・シーンで独特のセンスを持っていたことは確かなようだ。げんに僕も、僕にとって最初の音楽を介しての友人であり、先輩である玉垣ミツルから、窪田晴男と同様にある種の天才であり、非凡なものを持った人として、その名前は聞いていた。しかし、今ネットで調べてもいっさい情報がない。名前が出てくるのは、ECDが生前にツィッターで他者とやりとりしていた中ぐらいだ。峰岸が書いた原稿がいくつか『ロック・マガジン』等に掲載されてはいるようだが、作品として残されているものは、近田春夫&ビブラトーンズのアルバム『ミッドナイト・ピアニスト』(81年)に収められた、窪田晴男作曲のナンバー「夢のしずく」の歌詞だけである。
夢からさめて夜明けを待てば
枕のぬくみ闇夜に溶けた
虚ろに浮かぶ揺らいで消える
夢の切れぎれ思い出せない
煙草で心を満たし壁にもたれて
独りじゃないんだけれど
夜明けはるか
「夢のしずく」 峰岸洋 作詞
「峰岸くんには窪田に紹介されて一度会ったよ。何かハーフみたいな男前で、でも物凄く翳があって、あと、タバコを吸う手が震えてて。緊張感の強い、訳ありっぽい青年っていう印象でした」(近田春夫)
峰岸洋が劇団に関わる前から窪田晴男は彼を知っていた。きっかけは美術系の女子、である。
「岩谷さんと『名無し人』やってる頃、僕らのライブでは美術系の女子たちがいろいろやってくれてた」(窪田)
その中に、今はスタイリスト地曳いく子として知られている渡辺郁子がいた。
「私、すごい手伝ってたよ。アイロンかけたし。ギターも窪田晴男に習った。ビバってバンドと女郎花ってバンドをやってた」(地曳いく子)
「峰岸くんは郁子さんが連れてきた。『すごい人がいる』って。詩を書くというので今ある詩を直してってところからやりとりが始まって」(窪田)
「峰岸さんは生きるグラムなんですよ。イタリア人とのハーフで本当の名前がルチアーノ。ルーっていう渾名でした。いつもマントを着てて、長身で。日本のグラムの大元だと思います。本当に美しかった」(地曳)
「メイクなんか、モデルもやってたから技術が違った。ファッションから何からカッコ良くて、ある時期からは女子ではなく、峰岸君にいろいろやってもらってた。見たこともない洋服を持ってきて。自分で加工するって言ってたけど。お裁縫もするしセンスもいい。オリジナルのデザイナーがいたようなもんです。ある種の天才。ただ、何も残さなかった。ビブラのとき、お願いして歌詞を書いてもらった。今、どうしてるんだろう」(窪田)
「峰岸さんはジャン・コクトーとかに深かった」(地曳)
「ルー・リードがボードレールやランボーをポップソングに持ち込んだ」
というのはボウイの発言だが、それと同様に、峰岸洋もまたプレ・パンクの東京グラム・シーンに何かをもたらしたのか。
「喋るのは喋るんです。よく覚えてる。『ジャン・ジュネが』とか。ただ、切羽詰まった文学的な表現というものは、小説なりなんなりある種の型式に入れないと、どうしてもまとまらない。エッセイというか、詩か、その延長の散文にしかならない」(山崎)
77年の『ロック・マガジン』に峰岸はこう記している。
「ルー・リード・ファンよ。『ルーはまだ誤解されている』といって、古典的な解釈にほんそうしたり、どうしても守り続けていかなきゃいけない悪徳があるのなら、僕はルー・リードの背徳、君の背徳の全部、全部をふりかぶって歩いてあげてもいいんだ。ほんとうにだよ。今だって。どう生きたっていいけど背徳は背徳。でもそれで自由になれない背徳は駄目なんだ。じゃなかったら、君の背徳は誰にも告げないで!」
『ロック・マガジン』1977年7号
「どんな時でも、必死で、裸で、しゃんと立っていたいべきだ」より
この国に何人もいなかったグラム・ロックから地続きのプレ・パンク期にトリックスターのような役割を果たしていた峰岸洋。写真すら出てこない人物のことを思うと同時に、陰影があった頃の東京に思いを馳せ、この項を終わることにする。
夢からさめて鏡を見れば
疲れた笑いシャワーに溶けた
窓から窓へ視線をおくる
かなわぬ想いとどかぬ手紙
僕には重さがなくて
そんな笑顔に弱気じゃないんだけれど
おりてゆけない
「夢のしずく」 峰岸洋 作詞
(つづく)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?