見出し画像

【3分読書メモ】乱読のセレンディピティ(外山滋比古)を読んで

乱読のセレンディピティ

■基本情報

書名:乱読のセレンディピティ
著者:外山滋比古
出版元:扶桑社
出版日:2014年4月
ジャンル:マーケティング
読書メーター:https://bookmeter.com/books/8039973

書籍内容(BOOKデータベースより)

一般に、乱読は速読である。それを粗雑な読みのように考えるのは偏見である。ゆっくり読んだのではとり逃すものを、風のように速く読むものが、案外、得るところが大きいということもあろう。乱読の効用である。本の数が少なく、貴重で手に入りにくかった時代に、精読が称揚されるのは自然で妥当である。しかし、いまは違う。本はあふれるように多いのに、読む時間が少ない。そういう状況においてこそ、乱読の価値を見出さなくてはならない。本が読まれなくなった、本ばなれがすすんでいるといわれる近年、乱読のよさに気づくこと自体が、セレンディピティであると言ってもよい。積極的な乱読は、従来の読書ではまれにしか見られなかったセレンディピティがかなり多くおこるのではないか。それが、この本の考えである。

■気になったポイント(引用文+コメント)

あふれるほどの本の中から、何を求めて読むか。それを決めるのがたいへんな知的活動になる。

<メモ>自身の考えに基づいて本を選ぶこと自体が、すでに立派な知的活動である。自身の意思(なぜその本を読むのか?本を読んでどのような知識を身につけたいのか?等)、内なる声に従って読みたい本を選ぶように心がけると良いだろう。

禁書の方が推薦される本より、おもしろそうに思われるのが、人間である(中略)かくされているから好奇心をそそられる。 白日 のもとにさらしてみれば、目をそむけたくなる。危ないのがおもしろい。安全、健全なものは退屈にきまっている。人間はそういう先入主をもっている。

<メモ>「絶対に言わないで」や「絶対に中を見るな」と言われた方が、かえって好奇心をそそられる。同じように、「絶対に読んではいけない」と読書を禁じられると、より一層中を見たくなるのが人間ではないだろうか。

自分の意味を読み込むから、わかったような錯覚をいだく。読み返すたびに、読者のもち込む意味が増える。そうして、ついには、自分のもち込んだ意味ばかりのようになる。それをおのずからわかったと思い込む。対象の本を自己化しているのである。

<メモ>読者がしばしば体験する「わかった!」や「そういうことだったのか!」といったある種の発見は、必ずしも「著者の論理展開を寸分違わず掴んだこと」によるものではない。

回想はつねに甘美である。甘美でないものは消える。

<メモ>本当に嫌なこと、記憶から消し去りたいことは時が経つにつれて消滅する。忘れたいのにどうしても脳裏にこびりつく記憶は、当人が自覚しているか自覚していないかに関わらず、「記憶が残っている」ことそれ自体に重大な意味を持つ。

知識によって人間は賢くなることができるが、忘れることによって、知識のできない思考を活発にする。その点で、知識以上の力をもっている。

<メモ>知識を失った分を自らの思考力でカバーする。そうして浮かび上がった思考は、当人が自覚していないレベル下(無意識)で”忘れたと思われる知識”の影響を受けていることも多い。

【こんな人におすすめ】

・読書の効用に疑問を感じている人
・知的生産のノウハウを学びたい人
・大量の本を読みこなす能力を身に着けたい人

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集