『残像に口紅を』を読んで
本記事は『残像に口紅を』のネタバレを含みます。
タイトル通りである。
筒井康隆が1989年に発表した実験的長編小説を読んだ。
あらすじを書くような野暮なことはしないので各々調べてほしい。
読み終えてそのままの乱雑な感想文であることをお許し願いたい。
それにしても筒井はエンターテイナーでありパフォーマーだと感じる。
文字が一字ずつ(時には二字)消えるという設定を小説の中で決め、主人公は物語を語る自覚を持つ。メタフィクション的だ。
佐治と津田は超虚構宣言(メタフィクション宣言)だという。これはもちろん、アンドレ・ブルトンの超現実宣言(シュルレアリスム宣言)をもじったものだろうが、おかしなことに文字が減れば減るほど、シュルレアリスム文学を読んでいる感覚になる。
多少のミスはありながらも、失った文字を選択せずに小説を書こうとすると熟考に熟考を重ねる必要があるだろう。
第三部になると、使える文字がかなり限られているので必然的に韻を踏むような形になり、散文詩的になる。
すると、過去についての語りは減り、現在の話をするようになる。
まるで自動記述された文学のようである。超虚構はすなわち超現実なのだろうか。そのへんはよくわからない。ただ、そうだなと思っただけである。
第二部で自伝を語りだすのだが、これが本当に読みにくかった。文字が消え、直喩表現が増え、一文が長くなる。たらたらたらたら自分の話をされて、(その内容もなんというかムカつく)ここだけ読むと本当につまらない小説だと思うだろう。そこに文字が減ると語ることができる事象が減り、避けてきた自伝がかけるのではないかというメタフィクション的な思い付きが加算されることで、このたらたらした自伝に「面白さ」をもたらす。
我々読者はすでに物語内容に面白さを感じているのか、その手法に面白さを感じているのか分からなくなっている。まあ、それが実験小説か。
余談だが、あの情事の叙述は笑いが止まらなかった。