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学びの研究をしていてくやしいこと。
僕は今、学習科学という領域で研究をしていて、博士課程に所属している。
初めて会う人に「学びの研究をしてます」というと、たいてい「へ〜(物好きだね)」といったような反応をされる。
そもそも「研究」って、何だかむずかしくとっつきにくいことをやっているイメージがあると思うし、少なくない人が「学び=学校の勉強」を思い浮かべると思う。
あまり面白い印象がないことを、わざわざよく研究するね、といったことなのかもなと思うし、そういう第一印象を持たれたとしても仕方ないかなと思っている。
でも中でもうーん、くやしいなと思う時がある。それは、教育系の実践者の人にも「学びの研究」を特に好意的に受け止めてもらえない時だ。
自分が実践のフィールドに軸足を置いていた頃を知る方に、研究の道に進んでいることを伝えると「あ〜、そっちに行ったのね」というような反応をされることもあった。
そういう方々と話していて「教育は頭ではなく、心で考えるもの」
「本質は現場にあり、研究にはない」という、「事件は現場で起きているんですよ(研究なんてそこまで役立たないよ)」みたいな、暗黙の雰囲気を感じとる時がある(そういった文脈の話でない時ももちろんあると思う)。
もちろん、こと教育においては「机上の空論」には意味がないことは同感だ。
とはいえ、研究の道に進んだからといって、実践を諦めた訳ではない。
自分もストレートで研究の道に入ったわけではない。
新卒で教育系NPOに入り5年間、全国の地域や学校を廻りながら表現教育の場づくりに携わった。その後も個人事業、そして大学院に通いながら共同で会社を立ち上げ、学びの場作りを続けている。
様々な現場を廻り、体で感じたのは、教育現場では沢山の素敵で想いをもった先生方や実践者の方がいて、日々試行錯誤をされている。
実戦のフィールドから研究に足を踏み入れて思うのは、実践の源泉から汲み上げたものを結晶化したものが研究であるということだ。
それでも、学びの研究は面白い
僕は今、生成AIを活用しながらどう豊かで対話的な学びを作るかを研究している。とはいえ僕はITや人工知能のプロではないし、これまでむしろ「人間くさい」教育や学びが生まれる現場に関わってきた。
AIの進化は近年凄まじいが、現時点のAIではひっくり返ってもできないことが人間には沢山あると、これまでの経験を通して身をもって言える。
ただこれから10年はAIにできることが加速度的に増え、「人間しかできなかったこと」がどんどん減ってきて、自分たちに何ができるのか考えさせられていく。
何よりいくら技術が進化しても人間の課題は山積みで、人はより快適に、便利になった世界で体を、心を傷つけ合っている。
こんな時代だからこそ、僕は人の力を信じたい。
とはいえ今後AIの力学を無視して教育や学習を考えるのはほぼ不可能になる気がしている。教育や学びに関わる人こそリテラシーが求められる。
テクノロジーとどう付き合うかは自分たち次第だ。進化し続けるテクノロジーの力に呑み込まれるのではなく、過小評価したり無視するのでもなく、未来に繋がる豊かな学びを一緒に作ってくれるパートナー的な存在として考えてみたい。
でも、現場の最前線に立っている人は正直そんなことを考える余裕は中々ないだろうなと思う。
そんな中では研究と教育現場や事業の橋渡し、チームワークが大切になる。その対話を担える人になりたい。そういう意味で、理論も実践も分かる「学び」の専門家になりたいとも思う。
……なんて大きいことを言いつつ、地道にやれることからやっていきたい。
自分がやっている研究の面白さを人に伝えきれていないのは、自分の力不足も大きい。
修士、博士ときて以前より知識はぐっと増えているのに、伴って分からないこともそれ以上に増えるし、伝えられるほどの自分は深い理解があるのか?と自信がなくなっていく。
そして、「わかったこと」を噛み砕いて人に伝えるという行為は、ただ自分の中での理解を深める以上に難しい。
でも、研究が実践と「遠いもの」と思われてしまうことには、もどかしさを感じる。研究と実践の間にある距離を、少しでも縮めることができたらいいなと思う。
研究というものが、もっと多くの人たちにとって「面白いもの」「助けになるもの」になりますように。 2025年は「学び」「対話」を深める上での研究や情報をシェアできたらいいな。