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『ユリイカ2024年10月号 特集=いよわ』を読んで考えたこと 〜 ボカロシーンの豊かさ、隠喩について 〜

青土社『ユリイカ2024年10月号 特集=いよわ』を読みました。(全記事は読んでないです。)

ユリイカは「詩と批評」を標榜する、文学や思想、サブカルチャーについての芸術総合誌です。
10月号では最近のボーカロイド音楽(ボカロ)シーンに関する論考が多数掲載されており、シーンでも特に注目されているボカロP「いよわ」がフィーチャーされています。
ここ数年のボカロシーンに関心があったので読むことにしました。

ボカロシーンの豊かさについて

今、関心の範囲を「ここ数年の」と限定した理由は、2020年代以降、ボカロシーンが大きく変容したという印象を持っているからです。

実際、この印象は客観的にもある程度正しいようです。
例えば、曽我美なつめ氏による寄稿では、2010年代におけるボカロの隆盛と停滞が動画投稿サイト「ニコニコ動画」のそれと強く結びついていたこと、ニコニコ動画公式にバックアップされたボーカロイドコンテンツの投稿祭「ボカコレ」を中心として、2020年以降ボカロシーンが新たな盛り上がりを見せていることが示されています。

このような形式的な変化と呼応して、2020年代のボカロは音楽的にもそれ以前とは大きく異なるものになっていると感じています。

2010年代、ボカロは明確に一つの音楽ジャンルとして存在していました。
具体的には初音ミクをはじめとした波形接続型音声合成の奇妙な質感と、打ち込みによる変則的なメロディに強く特徴づけられた音楽ジャンルです。(もちろん例外はあると思います。)

私は小学生の頃、ハチやじんなど当時流行っていたボカロPの曲を好んで聴いていましたが、中学生になるころにはそのようなジャンル的な特徴に飽きて、以降ボカロを全く聴かなくなりました。
思春期的な流行りものへの逆張りがあったことは否めませんが、少なくともボカロ曲が一貫して帯びていた「ボカロっぽさ」にうんざりしていたということは確かです。
この記憶も手伝って、2010年代のボカロは保守的な音楽ジャンルとしてあったと認識しています。

ところが最近になって、音楽好きの友人からボカロシーンが熱いということを言われたので、いくつか聴いてみると、確かに印象が違うわけです。
もちろん「ボカロっぽさ」はある程度健在なのですが、もっと自由なものになっていると感じました。

それからは意識的にボカロを聴くようになり、ボカロシーンの懐の深さに感嘆しました。
いよわや原口沙輔など「ボカロっぽさ」の連続性の中で実験的な音楽を展開するものから、きくおやippo.tsk、puhyunecoなど従来のボカロの影響をほとんど感じさせないものまであって、非常に多様なのです。
今やボカロを特徴づける音楽的特徴は合成音声を用いているという一点のみなのではないかと思うほどです。

ここで私が、従来のボカロの影響を受けていないアーティストの音楽をボカロシーンに含めていることに疑問を感じる人もいるかもしれませんが、これには理由があります。
それはボカロの聴衆の態度です。
彼らはたとえそれがボカロの文脈に全く乗っかっていない音楽だったとしても、なじみのある合成音声を用いているという点でボカロとして注目し、聴き、評価しています。
ここには消費者の視点から見た時に、非常に多様な音楽を包摂するボカロシーンが存在しているとみなせますし、聴衆は実際にそう感じていると思います。

現代は音楽配信のサブスクリプションが普及し、誰もが時代やジャンルの枠を超えて雑多に音楽を消費する時代です。
そのような時代において、ボカロシーンのようなわかりやすい音楽シーンの存在はとても貴重だと思います。
というのも、アーティストも雑多に音楽を聴いているので、もはやシーンという形でくくれるような同時代性による音楽の類型化が困難になっているからです。

シーンは基本的には消費者のための類型です。
いつの時代もアーティストは自分の音楽がジャンル分けされたり、特定のシーンに位置付けられたりするのを嫌がります。
しかし消費者はシーンがあることで、注目すべき音楽の範囲を明確に限定することができ、その中で思う存分趣味を広げていけます。
一方、現代のボカロシーンのような音楽性への要件が最小限のシーンの存在は、アーティストの側にも合成音声さえ使えば独創的な音楽を多くの人に聞いてもらえるというメリットがあります。

ボカロシーンは現代の音楽文化の豊かさにすでに大きく寄与しているし、さらに寄与していくポテンシャルを秘めていると思います。
これから、ボカロの名の下、たくさんの素晴らしい音楽が発掘されていくことでしょう。
今後の動向が楽しみです。

異質な存在、余白、哲学的気分

ユリイカのいよわ特集を読んで特に哲学的気分を喚起させられたのは、岩倉文也氏の論考「物語の断片と、跳梁する言葉の影で - いよわ作品における物語の位相」でした。

この論考は楽曲とミュージックビデオ(MV)の総合芸術としてのいよわ作品の魅力を、楽曲(歌詞)とMVそれぞれの物語性の相互作用の観点から分析したものです。
論考の中で岩倉氏は、いよわの「IMAWANOKIWA」という楽曲とそのMVを例にとって、楽曲とMVがそれぞれ異なる物語性をもたらしており、その「軋轢と余白」が「不思議な詩情」を喚起するのだと述べています。

確かに、楽曲は失恋の、MVは娘と死別した母の物語性を表現しており、この二つは異質なものであることは間違いなさそうです。
しかし、MVにおいて娘との死別という物語性が明確に表れている、動画の2分28秒~3分6秒の部分において、この二つの物語性は愛する人を喪失し天使のイメージで切望するというモチーフで瞬間的に合流します。
この合流は最後のサビ前の演出として、視聴者の高揚を誘い、サビにおけるカタルシスを増幅しているように思います。

私はあまり楽曲とMVが軋轢しあっているという印象は受けませんでしたが、確かに二つの物語性は論理的には関係がないのでそのようにいうこともできるかもしれません。
言い換えると、二つの物語性は論理的なレベルでは軋轢しあっていて、それが余白を生んでいますが、その余白ゆえに体験的なレベルでの同質性(=喪失)が浮き彫りになり、「不思議な詩情」、つまり視聴者の中にある喪失の気分と作品との共鳴が起こるのではないでしょうか。

また、岩倉氏はいよわの「あだぽしゃ」という楽曲とそのMVについても、二つの異質な物語性が生む余白が詩情を喚起するという同様の構造が現れていると指摘し、この構造を根拠に、いよわの前衛性を結論づけています。
確かに、楽曲とMVに対しこの「二つの異質な存在 -> 余白 -> 詩情」という構造を導入していることについていよわが前衛的であることには私も同意します。
しかし、私はこの構造が表現一般における普遍的な何かなのではないかと思うのです。

それは隠喩です。
例えば「IMAWANOKIWA」でも使われている天使の隠喩は愛する人を表現しています。
この隠喩が表現として効果的なのは、天使と具体的な愛する人が論理的には全く異なる存在であるが故に、体験的な同質性である、愛や純粋性、神聖さの気分が喚起され、そのレベルで愛する人がイメージされるからだと思います。
愛する人をあえて天使ということで、鑑賞者の中にある愛の気分、あるいは実際の愛する人が想起され、鑑賞体験に厚みが生じるということです。

また、思索を喚起する芸術作品というのも同様の構造を持っていると思います。
「二つの異質な存在 -> 余白 -> 哲学的気分」という構造です。
おそらく二つの異質な存在同士の関係が、論理的なレベルであれ体験的なレベルであれ、ある程度直感的なら、詩情か何かが即座に生まれて、それで表現として完結するのでしょう。
逆に、関係が非直感的な場合は、単に二つの異質なものがあるのだと認識するだけで何も生まれません。
ところが、関係が直感的ではないがじっくり考えればわかりそうなとき、思索が喚起されるのだと思います。

転じて、思索というのは二つのものを並べるところから始まるのではないか、そんなことを考えました。
岩倉氏の論考が哲学的気分を喚起したのは、いよわ作品の分析と私が最近考えていたことの間に埋まりそうなギャップがあったからだと思います。
この文章はそのギャップを埋めるべく書かれたものだということです。

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