200年後の未来、どうなっている?
200年後の未来、どうなっている?って聞かれても、実際のところたいして未来のことは予測できていないからなあ^^;
未来、ねこで、思いついたのが、謎の“にゃんこ軍団”が日本列島を征服する「にゃんこ大戦争」だったし、200年後の未来、謎のにゃんこ軍団が日本列島を血に染めているかもしれないかも?(*´艸`*)
本作最大の魅力!
それは、キモカワいいにゃんこ軍団たち(^^)
閑話休題。
「未来予測」とは、本書の様に、「未来創造」であり、自分が描く未来が実現するまで粘り強く性懲りもなく泥臭く実現に一歩一歩進むことだと考えられます。
「未来は予測するものではなく創造するものである―考える自由を取り戻すための“SF思考”」樋口恭介(著)
予測できないならどうするか?
それは自ら未来を創造することこれだけです。
1年後、5年後、10年後、50年後、、、100年後、200年後・・・・・・
会社の歯車となっている会社員は長くても1年後くらいの未来しかスコープに入っていないのではないでしょうか?
管理職ならもう少し先の未来で3年後くらい?
経営者でも5年後より先を見据えて布石を「今」打っている様ですが、いずれにしても未来を「予測」しているのではなく、「創造」しています。
パーソナル・コンピュータの父、と呼ばれる科学者でるアラン・ケイは、以下の様に言っていました。
「アラン・ケイ」(Ascii books)アラン・C. ケイ(著)鶴岡雄二(訳)
The best way to predict the future is to invent it.
(未来を予測する最善の方法は、それを発明することだ)
「未来がどうなるか?」
「それを今作っているところだよ!」
そして、彼の「未来予測」通り、パーソナル・コンピュータが世界中どこにもあるこの世界が実現しました。
ちなみにiPadのようなタブレット端末も彼が「予測」してたんだよね。
アイデアを実現させるだけでなく、市場規模までもマーケティングなどの具体的なタスクを1つ1つ展開していけば未来予測はできると推定されるけど、未来は「こうなるから今こうする」ではなく「こうしたいから今こうする」ということなのかもしれませんね。
「未来はどうなるのか?」
こんな質問を自分に投げかけるのはセンスが悪いかもしれません^^;
「自分は未来をどうしたいか?」
こんな質問をして、そのための具体的な「一歩」を今踏み出し、実現するまで諦めないことが最も確実な「未来予測」となるでしょう、ね(^^)
そう言ったのにも関わらず、舌の根の乾かぬうちに20年後の未来を考えてみると・・・・・・、現在、そしてこれからの20年に、次のような3つの大きな潮流の中にあって、多様化する世界で、常識は崩壊していくのかもしれませんね^^;
○日本の人口減少・高齢化の急速な進展
○知識社会・情報化社会及びグローバル化の爆発的進展
○地球の持続可能性を脅かす課題<人口問題><資源・エネルギー問題> <気候変動、環境問題> <水問題、食料問題><テロ問題> <感染症問題> の増大
これらは、既に、私たちが直面しているものですが、今後、益々その流れが加速されることが予測、予見されており、どれもが世界的に過去に経験のない新たな潮流です。
そんな時代に暮らす中、今の時代を知っている子ども達に、昔の常識と世渡り術を教える大人にはなりたくないものです。
せめて、以下の様な未来を想像できる大人でありたい(^^)
ただ、そうは言っても、これから、この新たな潮流が進む現代社会に否応なしに適応していかなくてはいけない状況下、好むと好まざるとに関わらず、おだやかな人生なんて、あるわけがないのかもしれません^^;
良いことばかりの人生であるわけもなく、いろんな事があっての人生!
逆に穏やかすぎる人生ってつまんないかもしれないし(^^)
ただ、社会での競争と向き合っていくためには、社会に出てからの個人の意識改革では遅すぎる様な気がします。
ここでの競争意識とは、学校の成績だけのことではなく、スポーツで例えたら分かり易いと思うけど、どんな分野に自分の身を置くのか?
どんな分野で競争していくのかという意識のことです。
その中で個人の強みを発見・発掘して自己を形成していく意識づけが重要だと感じます。
なので、できるだけ早い方が良いかもしれません。
今までの世の中であれば、ある程度、他人に共通した経験と知識がある事を期待しても問題はなかったんだと感じますが、他人の経験自体が多種多様になっている現代において、自分と相手とのあいだに、共通の知る機会があったともかぎりません。
先人の知恵を学び経験を共有して知ることができる事が嗜好が多様化等で役に立たない場合、それじゃ常識は知る機会に依存するから、経験しなければ学べない点で、経験値の差が大きな問題になってくるかもしれません。
ただ、当たり前に経験することや、それによって得られる知識が個別化され、みんなが共通してもっている常識の範囲がどんどん狭くなっている事実に気づかないと、コミュニケーション・ギャップが解消されない様な気もします。
これからの時代、自分にとっての知ってて当然が通用しないことを念頭において、常に、学んでいかないと、判断力の低下が生活上の問題となってくるかもしれません、ね^^;
だけど、そんな過去の経験達の記憶は、遠ざかれば遠ざかるほど、色鮮やかになります。
口を開くたびに、自分の言葉が扉を開けるみたいに新たな光景を見せてくれるから、ひとの記憶とは、なんと残酷なんだろうって思うこともあります。
記憶は本当に残酷ですね。
薄れたと思っていても、ある日突然よみがえったり、ふいに色濃くなったり。
まぶしい現実のリアルさの中で過去と未来が渾然一体となるさまは、死に向かっているのか、生に向かっているのか、一瞬わからなくなるような狂気や絶望に近い感じかもしれませんね。
たとえ悲しみの中でも、記憶の中にわずかでもいいものが含まれているのなら、そこを否定する必要はないのかもしれません。
一日一日を真摯に生きた人間に、別の道はないのだと思います。
さらに、無意識の記憶というのもあります。
本人は覚えていないし見てもいないのに、空だけが知っているというようなこと。
人はすべてをコントロールできるわけじゃありません。
気づかないところで、奇跡は起きているのだろうと、そんなふうに思います。
見えない力に動かされたり、守られたりしているのでしょうね。
そうであれば、あがくことは無意味であり、大きな流れの中でたゆたうしかない。
それが世界を肯定していくってことなのだろうって気がします。
いつか、透きとおる記憶になるように。
記憶はいつも、時間とともに、あわく あわく まるくなっていきます。
また、人は皆、いろんなことを抱えています。
私も、抱えているかもしれない。
そのことを憎むのではなく、受けとめるために、いつか、ただしい記憶に変わるまで、うれしさもかなしさもつんでいくしかないのでしょう。
辛いことも悲しいことも苦しいこともあるかもしれない、けれどもそこには他の人には見ることのできない何かが見えるかもしれない、知ることのできない何かを知ることができるかもしれない、得ることのできない何かを得ることができるかもしれないから・・・・・・
今日、うれしかったこと。
今日、かなしかったこと。
たとえば、一年後の今日、その気持ちは、どちらにも振れないような、どこか正しい、うすらかな記憶になっているはずです。
だから淡々でいい、と思うんだけどね(^^)
そんな時代を生きる自分の人生(物語)を小説に例えるなら、その、最初の一行目の文章は、とても重要なもので、その一行(一瞬)が、それ以降の道のりをある程度、決定づけるのではないかとも思います。
但し、自分の物語は、いつでも書き直せるので、焦りは禁物(^^)
何かが分かる(発見)までに、すごく時間がかかることもあります。
だからこそ、考える時間って大切なんだと良く思います。
よく言われることだけど、1日の時間は誰にだって平等で、明日という日も、全部自分のもの。
但し、多忙と言う名の時間泥棒に時間を盗まれることが多いから、その自分の時間をどうやって使うか、じっくり考えてみる時間を時々持ってみることも大切ですね。
その様な世の中にあって、自分を知ることや自然にふるまうというのは、実は一見簡単そうですが、そうでないことは(私も含め)自分自身を考えてみれば結構ずしんと来るのではないでしょうか?
しかし、考えるだけでは足りなくて、当たり前のようなことですが、自分を知るというのは、自分ってなんだろうと、一生懸命考えているからわかるということではなく、結局、何かと比較対照しなくては良さも悪さもなかなかわからないんですよね(^^;
要は、相対的な比較はしたとしても、人の目なんか気にしないで、思うとおりに暮らしていればいいのさって気楽に過ごせたら達人級ですね(^^)
そう言えば池波正太郎さんの仕掛け人・藤枝梅安シリーズの仕掛け人といえば、かつて、映画やテレビドラマにもなり、多くの名優が演じてきたけど、特にこの本の面白さは、仕掛け人という人殺しが主人公であること。
もちろん、作品の中では、世の中に居てはいけない人間を消してしまうのですが、作者が主人公に語らせている人間は、良い事をしながら悪い事をし、悪い事をしながら良い事をしているという、この言葉が、本連作の主題です。
つくづく、人間の本質を見抜いた言葉であり、作品であり、言い換えてみると、大好きと大嫌いの真ん中、あるいは大好きと大嫌いが併存することに、本質があることも多くて、自分にしても、他人にしてもありのままを直視できるかが、自信のベースにあるのでしょう、ね(^^)
このことを別な観点からみてみると、最近は眼に触れない言葉に粋人という言葉があります。
「いき」を広辞苑で引いてみると粋とあり、意気から転じたことばとあります。
江戸の初期には粋は「すい」であり、「いき」という訓よみはなかったそうです。
当時は粋は水、推、帥が宛字として用いられ、中でも水が代表していたとか。
水は、丸い器には丸く、四角い器には四角く収まり、常に水は水であり、本質を失うことがなく、見事な平衡感覚が水にはある。
このような見事な平衡感覚をもちあわせた人は、他人の志向をよく推量するから推、そして、そのような人は自然と重んじられて一軍の将帥となるから帥であり、それこそは人のなかの人であり、まじりけのない純粋な、良質の精粋な人の意になって粋に落ち着いたと思われると中野三敏さんは、「江戸文化評判記―雅俗融和の世界」(中公新書)の中で書いていました。
一気に、粋人にはなれないけど、たまには水の様に変化も必要ですかね。
私たちは、お互いに、当たり前のことを当たり前と思いすぎていると思いませんか?
たしかに、変化することは大切だけど・・・・・・
大変な時こそ変われる時!って、気がしません?
大変という字は、大きく変われる、と書くしね(^^)
但し、何でも、大きくし過ぎちゃうと、しんどくなって自信を無くしてしまうので・・・・・・あまり大げさに考えないこと。
何か試してみようって時には、どうしたって危険が伴いますから^^;
自信って、結局、そうやって、いかなる物や対人関係においても自然にふるまっていく過程で徐々に醸成されていくものかもしれませんね。
それでは、みなさん、一年の終わりにおいて、年頭における自己よりも、よくなったと感ずることができるように、今年も、したくないことも、たくさん、ん?、少しくらい、していきますか?