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【LAWドキュメント72時間】「分かりやすさ」を疑う

素直とは疑うこと。

目に見えるものが真実とは限らない。

何が本当で何が嘘か。

日本は、世界に遅れをとるばかりと、声高に識者はさけぶが・・・

ひとつのゴールがない世界に遅れなどあるのか?

私たちの周りに、

「真実」

は溢れ返っている。

「ハンナ・アーレント 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者」(中公新書)矢野久美子(著)

存分に疑おう。

「精読 アレント『全体主義の起源』」(講談社選書メチエ)牧野雅彦(著)

ネガティブに思われがちだが、疑ってみることからはじめて、世界は、面白き方向に広がっていく。

「悪と全体主義―ハンナ・アーレントから考える」(NHK出版新書)仲正昌樹(著)

何より、自分に、正直に生きる事は、楽しくこころがみちる。

「精読 アレント『人間の条件』」(講談社選書メチエ)牧野雅彦(著)

素直な大人になろう。

誰かが言うことに染まるのは、素直ではない。

自分の心を覗き、世界を斜めに、笑顔で疑うことこそが、素直なのだから。

「今こそアーレントを読み直す」(講談社現代新書)仲正昌樹(著)

[ 内容 ]
「分かりやすさ」を疑う。
アーレント的思考が、現代社会を救う!
閉塞した時代だからこそ、全体主義を疑い、人間の本性・公共性を探る試み。

[ 目次 ]
序論 「アーレント」とはどういう人か?
第1章 「悪」はどんな顔をしているか?
第2章 「人間本性」は、本当にすばらしいのか?
第3章 人間はいかにして「自由」になるか?
第4章 「傍観者」ではダメなのか?
終わりに 生き生きしていない「政治」

[ 問題提起 ]
こんな方まで読み直していてちょっとびっくり。

本書「今こそアーレントを読み直す」のオビには、こうある。

アーレント的思考が現代社会を救う!

ハンナ・アーレント本人がこれを見たら、いったいどういう反応をするだろうか。

一つ確かなのは、このオビに惹かれる心性こそが、全体主義の萌芽であり。

彼女は、それを避けるにはどうしたらよいかを、一生かけて考えてきた人だと言うことだ。

勘違いしないで欲しい。

本書は、そのことを的確に指摘している。

だから、私は、本書のオビは、いい釣りだと評価している。

[ 結論 ]
そう。

全体主義というのは、結局のところ、社会に救いを求める個人の願いが生み出すのだ。

それこそが、アーレントの主張であり。

そして、アーレントが、一般的に愛される政治哲学者になれない理由であり。

それであるが故に、今もなお、右からも左からも、一定の支持を集める理由なのである。

そして、

「今こそアーレントを読み直す」

べき理由でもある。

ハンナ・アーレントは、

「テロというのはアルカイダが起こすのではなくて、全体主義が起こすものだ」

ということを言っているのですが、今の話を、お分かりになる方は、そんなにいないと思います。

これから50年かけて、これを分からせたいということです。

50年もかけている余裕は、残念ながらない。

アーレントが亡くなった1975年にはあったかもしれないが、それから50年後の今では。

インターネットが、すでにあるからだ。

話はずれるようだが、イランの暴動は、どうも報道されない部分に巧妙な仕掛けがあったようだ。

西側の仕掛けではなく、体制側のIT制御だ。

TwitterやYouTubeのような子供だましで見えなくなるが、巧妙に体制側も、ITを駆使していたようだ。

中国も同じだ。

ITは、途上国においても、自由のツールではなくなりつつある。

これは、途上国だけの問題ではない。

欧米や日本も同様だ。

そして、なぜ、ITが自由のツールではなく、支配のツールとなりうるかといえば。

ITに、それを望む人々が、後を絶たないからだ。

それも、支配する人ではなく、支配される人が。

そして、それが続くとどうなるか。

支配する人なき全体主義というのが出来上がるのだ。

アーレントは、アイヒマン裁判を膨張して、そこに、人類の憎悪を買うにふさわしい暴君ではなく、陳腐な一官僚を見いだす。

彼女は、アイヒマンが極悪人でないことを指摘したことで、多いに顰蹙を買ったが、この顰蹙を、きちんと買うKYさこそが、アーレントをアーレントたらしめている。

それではなぜ、ITが自由のツールとしてだけではなく、支配のツールとしても優れているのか。

アーレントの言うところの

「拡大された心性」(enlarged mentality)

を、拡大するための、さしたる努力もなしに、人々にもたらすからだ。

「思想→言論→行動」

の間にある

「→の間」

を超えるための障壁を、ITはずいぶんと下げてしまった。

だから、以前なら

「言論」

だと見なされていたことが、

「行動」

だと誤解されるケースも出てくる。

「URLを掲示しただけで刑事犯」

なんて、まさにそうである。

アーレントありし頃、思想と言論と行動の間には大きな壁があり、哲人や鉄人でなければ、それを乗り越えるのは難しかった。

今や、この壁を乗り越えるのに必要なのは、URL一つあればいい。

好む好まざるとに関わらず、現代は、誰もが哲人で、鉄人であることを、強いられる時代なのかもしれない。

それに

「NO」

といえば、待っているのは全体主義だ。

「どちらか好きな方を取れ」

と突き放せたら、まだ、よさそうであるが、一旦、全体主義が確立すると、

「やっぱりいやだ」

は通らない。

それを通そうとすれば、革命という名の戦争が待っている。

全体主義を否定する者には、自由を受け入れる義務があるのだ。

自分にとって不快な自由を行使する他者を尊重する義務が。

それが出来ないものに許された唯一の自由は、自らの自由を放棄する自由だけだ。

結局のところ、アーレントの主張というのは、そういうことなのではないだろうか。

[ コメント ]
著者が、ハンナ・アーレントについて書こうと思ったきっかけは、秋葉原事件だという。

あれを

「新自由主義が生み出した派遣労働者の悲劇」

といった物語に仕立て、かわいそうな人々を救済する

「派遣村」

のような温情主義をたたえる言説が流行した。

派遣村を批判した総務政務官を更迭しろ、と国会の代表質問で追及したのは、民主党の鳩山由紀夫幹事長(当時)である。

アーレントは、このような

「共感の政治」

を批判する。

彼女は、

『革命について』

「革命について」(ちくま学芸文庫)ハンナ アレント(著)志水速雄(訳)

で、フランス革命を否定し、アメリカ独立革命を肯定した。

彼女は、

「liberty」

「freedom」

とを区別し、前者を、

「フランス革命」

の、後者を、

「アメリカ独立革命」

の理念とした。

「Liberty」

は、抑圧された状態から人間を解放した結果として実現する

「絶対的な自然権」

だが、

「freedom」

は、

「法的に構成(constitute)される人為的な概念」

で、いかなる意味でも、自然な権利ではない。

「人間が生まれながらに等しく人権をもっている」

という思想が、フランス革命の暴力を生み出し、のちのロシア革命などの原因となった、とアーレントは批判する。

バークも指摘したように、人間は、生まれたときには、どんな権利ももっていない。

「悲惨な人々」

の救済を人権として絶対化する党派は、権力を握ると、敵の人権を弾圧する最悪の独裁者になるのだ。

アメリカ建国の父は、このようなリスクを警戒し、連邦政府の暴走をチェックして、自由を構成する制度として

「憲法 (constitution)」

を策定した。

派遣労働者に共感するのは悪いことではないが、そこから解放された状態(正社員)を本来の状態として絶対化し、派遣労働を禁止しようとするポピュリズムは、アーレントのいう

「複数性」

を抑圧し、労働者を企業という牢獄に閉じ込める倒錯した思想である。

彼女は、そういう

「自然な正義」

を実現する

「ロマンティックなliberation」

を否定し、人々が

「討論によって選択する制度」

を、

「freedom」

と呼んだのである。

こっち側を疑い。

あっち側を想像する。

そうありたいと思う。

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