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【メモランダム】《責任》
《責任》についてのメモランダムです。
日本では、自分の意見をはっきり言わない人の責任は問われない。
意見を言う人の責任だけが問われる。
改革の根本は、ここにあると感じます。
みんなが意見を示すことから始めないと民主主義が成り立たないから。
以前、ある医者が森永ヒ素ミルクの被害者の家に行くと、森永や国への不満や批判が出るだろうと思っていたら、だれ一人言わなかったそうです。
裁判ではあれだけ言ったり、ビラまきもしているのに、家では何時間会っても絶対に非難を口にしない。
これがショックであったと回想していました。
被害者の母親が言うのは「乳の出ない女が母親になるべきではなかった」とか「子どもにミルクを飲まそうとしたらむずかって手で払ったのに、無理に飲ませてしまった」という自責の言葉ばかり。
お母さん、それは無理でしょうと医者が言うと「いいえ先生。子どもの反応に気付いて重湯に切り替えた人がいる。その人は被害が軽かった。気付かなかった私が悪い」と。
その時に初めて、救済とは何だろうかと考えさせられたと語っていました。
おカネではなく、むしろ自分を責めているほうが心が休まる状態なんですね。
深刻な被害ほど言葉もなく、叫ぶこともなく、耐えることがすべてだと教えられました。
自分を磨く上で大切なことは、常に責任をもつことです。
責任をもつことと、責任を取るということは、全く別の次元です。
責任をもつのは、心がけや意識の問題です。
一方、責任を取るというのは実際の行動を意味します。
よく責任を取る力もないのに「それは私の責任ですから、私が責任を取ります」と息まく人間がいますが、こういう人間は格好だけの場合が多い。
大きな問題を起こした時に、若い連中には、その事後処理をする力などない。
素直に上の人に報告し、責任を取ってもらうべきであると考えます。
「攻め込むときの責任」ではなく「負け戦の責任」をとれる人が、それぞれの部署にいなかったら、会社は潰れてしまいます。
うまくいっているときは、「皆のおかげで・・・・・」といっておればよいと思います。
もしも、失敗したときは、自分は責任を負うと、とはっきり決意して動いている人物がいるので、その集団はうまく動くのだと思う。
失敗の可能性があることには、自分は中心人物にならず、責任を逃れる道を残しておく。
そしてうまくことが運んでいるときのみ「自分は他人に劣らず働いている」といってもダメなのだと思います。
例えば、外国に対する戦争責任は、東京裁判をはじめ戦犯裁判と賠償金の支払でともかく一応終わった。
だが、日本人による敗戦追求はされていません。
昔からどこの国でも、降将、逃亡指揮官は、断罪されるのが普通です。
旅順要塞の司令官ステッセルは降伏が早すぎるとして罪に問われ、日本海海戦で戦えば全滅するだけと悟って降伏したネボガトフ中将は死刑を宣告された歴史の事実に目を向けるべきだと思います。
旧日本軍で部下を戦場に残し自分はいち早く逃亡、残された将兵は全滅といった場合でさえ、その指揮官は、何ら責任を問われていない事実。
こういう敗戦処理が、戦後日本の無責任体制を作った一因だと感じます。
個人の自由を尊重すれば、個人の責任も問われねばなりません。
上からの指令といえども、受け入れた個人に責任は及びます。
その責任をあえて受け入れて、組織の指令といえども自分の問題として行動する態度が要求されます。
例えば、公害のタレ流しは会社の責任です。
管理者の責任です。
しかし、それを知りながら実行した個人の責任でもあります。
会社の命令という理由をもち出しても、個人は責任を逃れることはできません。
命令されて、ブツブツいうだけでは責任的ではありません。
よりよい案を作り、上を説得する責任をもっているのだと思います。