【検索しても分からない事のひとつ】芸の本質
利休の創出した佗び・寂びとは、どのような世界なのか?
本書は、路上観察家として"トマソン"を流行らせ、ライカ同盟結成で、カメラオタクとしても著名ですが、本当は、まともな文学受賞歴もある異才・赤瀬川源平が書いた利休の芸術論。
「千利休―無言の前衛」(岩波新書)赤瀬川原平(著)
本書の中で、このくだりが、いいなと感じました。
「つまり利休の時代の、芸術という言葉の確立していない未分化な汎芸術状態というものは、それを究めれば、先の気功師が示した見えないスイカ玉のようなものになるのである。
その時代の茶人たちは互いに茶会を開いてもてなし、もてなされながら、その見えない玉を少しずつ大きくふくらましていったのである。
それを右手から出し、茶碗に盛り、茶筅でふくらませて差し出す。
相手もそれを右手から体に入れて左手から出し、それを両手に包んで鑑賞する。
その両手にお茶室の各所に潜むち茶気とでもいったものが吸い寄せられて、また散らばっていく。
そうやって互いの気を感じながら、
「私のはもうこのくらいになりました」
「そうですか私のはまだやっとこのくらいで」
などという具合に、それぞれスイカぐらいの玉や、ミカンぐらいの玉を空中に描いて、そういう見えないものを見せ合っていたというのがお茶の世界にはあったと思うのである。」
あったのだろうか?
いや、あったのかもしれない。
それが、芸の本質なのかもしれないと、感じられます(^^)
スポーツだと、いい感触は、突然やってきて、すぐいなくなるから、技術を検索し、自分を模索する感じでしょうか。
確かに、検索するだけじゃ分からないし、見聞きするだけじゃもったいなくて、
■〇〇本はない
■〇〇友もいない
■ネット検索もでない
その方が、
「自分育て(成育)」
は順調だったりすると考えられることからも、知ったつもりにならないで、リアルに体験した方がいいと思うから、
■行ってみよう
■やってみよう
■からだをつかおう
ってな感じで、やりたいことは、やらないより、一度やってみた方がいいんだろうね(^^)