
【テクノ・リバタリアン】自由はどこまで可能か?

■関連記事
■テキスト1
「自由はどこまで可能か=リバタリアニズム入門」(講談社現代新書)森村進(著)

[ 内容 ]
裁判は民営化できる、国債は廃止、課税は最小限に、婚姻制度に法は不要-国家の存在意義を問い直し、真に自由な社会を構想する。
[ 目次 ]
第1章 リバタリアニズムとは何か?
第2章 リバタリアンな権利
第3章 権利の救済と裁判
第4章 政府と社会と経済
第5章 家族と親子
第6章 財政政策、あるいはその不存在
第7章 自生的秩序と計画
第8章 批判と疑問
[ 問題提起 ]
本書の目的は、
「リバタリアニズムの全体像」(3頁)
を示すことである。
それではそもそも、リバタリアニズム (libertarianism) とは何であろうか。
それは、
「諸個人の経済的自由と財産権も、精神的・政治的自由も、ともに最大限尊重する思想」(14頁)
である。
リベラリズムは、
「「個人的自由」の尊重を説く一方、経済的活動の自由を重視せず経済活動への介入や規制や財の再配分を擁護する」(15頁)
点で、保守派は、
「個人的自由への介入を認めるが経済的自由は尊重する」(同上)
点で、そして権威主義は、
「どちらも尊重しない」(同上)
点で、いずれもリバタリアニズムとは異なる。
しかしリバタリアニズムのなかでもさまざまな立場がありうる。
これを著者は二つの観点から分類している。(21~22頁)
A. 「いかなる国家(政府)までを正当とみなすか。」
(1)アナルコ・キャピタリズム(無政府資本主義)
(2)最小国家論(国家の役割は国防・裁判・治安)
(3)古典的自由主義(上の三つに加え、ある程度の福祉・サービス活動)
B.「諸個人の自由の尊重を正当化する根拠は何か。」
Ⅰ.「自然権論」(自己所有権に訴える。)
Ⅱ.「帰結主義」(自由を尊重した方が結果としてよい。)
Ⅲ.「契約論」(理性的な人だったらリバタリアンな原理に合意するはずだ。)
[ 結論 ]
さて、以上の分類においてⅠ.(3)というリバタリアニズムの立場をとる著者にとって、
「自由の最大限の尊重」
とは、とりもなおさず自然権、さらにはそれをささえる
「自己所有権」
の内実にかかっている。
これはなによりも
「自己の身体とその自由」(34頁)への権利(身体所有権)を、さらに
「自己の労働の産物あるいはその代価として考えられた財産への権利」(同上)
(財産権)を含んでいる。
そして著者によれば、これが基本権(人権)の内実を構成するのであり、
「他者(政府を含む)に対して積極的な行為を要求する請求権」
(生存権、社会権、人格権)は、
「他人の自由を制約する」(42頁)
以上、ここには含まれない。
ただし最低限の生存権は、
「道徳的直観に訴えかける」(45頁)
かぎり、基本権に含まれるとしている。
このような自己所有権を積極的に認めることにより、著者は、臓器売買、自己奴隷化、代理母など、一見すると嫌悪感を覚える行為も禁止してはならないと考える。
たしかに禁止できる場合もあると著者は訴えるが、それは
「契約時の当事者と、将来の当事者」
とが
「重要な意味において別人と言える」(55頁)
ときである。
というのも、
「その将来の人物は、[例えば]奴隷契約を結んでしまったことを後悔して、重大な点で価値観が変わってしまっている可能性が強いからであ」り、その結果として「奴隷契約は、現在の契約者とは別人になってしまった将来の当人の基本的な自由を侵害する」(62頁)
からである。
このように人間の自由を、自己所有権から説明するとき、国家(政府)の役割とはどのようなものになるだろうか。
リバタリアニズムには、
「国家への人々の心情的・規範的同一化に徹底して反対するという個人主義的要素」(131頁)
が見られる。
これは自己所有権という考え方からうかがえるように、
「自分にとってどのような生き方が望ましいかを決めるのは本人であって、公的な判断の対象ではない」(113頁)
からである。
だからリバタリアンにとって国家の
「「政策」とは、大部分の場合、諸個人の自由の確保以外のものではない」(20頁)
のである。
この役割は、具体的には、国防、裁判、治安、ある程度の福祉サービスというかたちで実現される。
だが、国家の役割がこのようなものとなったとき(たとえば累進課税による富の再分配がなされなくなった結果として)、そこで人々を支配するのは弱肉強食の市場社会だけなのではないか。
しかしこれに対して著者は、二つの点で反論する。
第一に、リバタリアンは
「市場の外のヴォランタリーな人間関係も重視する」(106頁)
からである。
つまり
「家族や職能集団や宗教団体や趣味のクラブなど多様な共同体が人々の生活にとってかけがえのない重要性をもち、人々が自分の属する共同体に一体化することがしばしばあると認める」(112頁)
のである。
第二に、
「人間の間で狭い自己利益を越えた連帯が可能になるのも、大部分は市場のおかげである。」(116~7頁)
「自由市場における「競争」は、第三者に一層大きな利益を与えよう(そしてその見返りに自分も利益を得よう)とする人々の争いの場」(117頁)
であり、競争の敗者は決して利益を奪われない、
「プラス・サム・ゲーム」(118頁)
なのである。
それでは以上述べてきたようなリバタリアンな社会はどのようにして到達可能であろうか。
ハイエクによればこれは、
「人間から独立した「自然」に属する現象ではないが、人間の意図や計画によるという意味での「人為」でもなく、その両者の中間に位置する第三のカテゴリー」である「自生的秩序」(177頁)
である。
だからわれわれのなし得ることは、この秩序の生成を阻害するような要素を取り除くということにすぎない。
しかし著者はこれに同意しない。
ハイエクはコモン・ローを、
「慣習を成文化したものにすぎない」(181頁)、
つまり自生的だとするが、実はこれははるかに人為的なものなのである。
だから人為的に作られた法(あるいは広く秩序)も、リバタリアンな社会を成立させるために重要な役割を果たしうるのである。
逆に自生的であっても、リバタリアニズムにとって有害な秩序はある。
「リバタリアンが求めるべきなのは、形成において自生的な秩序よりも、内容において自由な秩序である。」(189頁)
そして最後に、リバタリアンな社会の意図的な形成に向けて、著者は次のような決意を述べている。
「リバタリアニズムにとって将来は決して楽観できるものではない。
カナダのリバタリアン哲学者ジャン・ナーヴソンが『リバタリアニズムの理念』で言っているように、
「リバタリアンの敵は、無気力と、国家への愛着と、掛け声の欠如である」。
リバタリアンは極端だと考えられることを恐れてはならない。
今日の大きな政府の政治文化の中では、リバタリアニズムあるいは古典的自由主義は、実際に極端な立場なのである。
リバタリアンは、プラグマティズムに屈して日々の政治の中で短期的で小さな改善(あるいはもっと普通には、改悪の阻止)を目標とするよりも、その理想を高く掲げ、社会全体の中で長期的で根本的な意識の変化をめざすべきである。」(211頁)
[ コメント ]
リバタリアンは自由主義経済――市場原理を絶対視する。
つまり経済活動(資本の運動)は自然であるほうがよいとしているわけだが、こと資本の運動以外は自然発生的なものをよしとはしないのである。
それはESS的なもの、生物的なものの否定であり、個人の計画性を強調することで人間工学的なものとなる。
リバタリアニズムたぶんその考え方は、北田のいうように「ハードプロブレム」を()カッコにしまいこんだものでしかないのだろうが、社会は『東京から考える』が指摘しているように、人間工学的に進化している。
より個人が生活するのに快適な環境としてかたちづくられてきているだろう。
郊外化、マクドナルド化、ジャスコ化なんていうのもこの文脈で動いている。
つまりリバタリアニズムのOS化は、資本に軸足を置いた環境から、確実に進んでいるということだろう。
■テキスト2
「テクノ・リバタリアン 世界を変える唯一の思想」(文春新書)橘玲(著)

[ 内容 ]
高い数学的能力をもつギフテッドがひしめくシリコンバレー。
とてつもない富を手にしたとてつもなく賢いIT成功者たちは、「究極の自由」を求めて、既存の民主主義を超越する新たな政治思想を模索している。
彼らはいかに世界を変えるのか?
最先端テクノロジーに裏付けられた最先端思想の全貌を徹底解説!
[ 目次 ]
はじめに 世界を数学的に把握する者たち
0 4つの政治思想を30分で理解する
1 マスクとティール
2 クリプト・アナキズム
3 総督府功利主義
4 ネクストジェネレーション
X 世界の根本法則と人類の未来
あとがき 「自由」を恐れ、「合理性」を憎む日本人
[ 問題提起 ]
<振り返り①>
<振り返り②>
「ハイエク 知識社会の自由主義」(PHP新書)池田信夫(著)

{ 内容 }
一九三〇年代、ほとんど一人で社会主義・ケインズ主義と対決したハイエクは、サッチャー、レーガン政権が成功したことで、経済学だけではなく、世界のあり方をも変えた。
本書では、市場経済を全面的に信頼したハイエクの思想の今日的意義を明らかにする。
彼の思想は、現在の脳科学、法体系、知的財産権、インターネットを理解する鍵を、私たちに与えてくれるのだ。
現実がハイエクに追いつくには二〇世紀末までかかったが、彼の思想は、新しい社会秩序のあり方を考える羅針盤として、いま不動の位置を占める。
{ 目次 }
第1章 帝国末期のウィーン
第2章 ハイエク対ケインズ
第3章 社会主義との闘い
第4章 自律分散の思想
第5章 合理主義への反逆
第6章 自由主義の経済政策
第7章 自生的秩序の進化
第8章 自由な社会のルール
第9章 二一世紀のハイエク
{ 問題提起 }
「一身にして二生を経る」
という言葉があるが、この人も自らそう実感したのではないだろうか。
フリードリヒ・A・フォン・ハイエク。
1930年代から、社会主義やケインズ理論といった、政府による経済コントロールを是とする立場に闘いを挑んだ彼は、反共や保守反動の代名詞として、“進歩的知識人”から嘲笑され続ける。
講演会で登壇すると、聴衆から生卵や腐ったトマトをぶつけられることもあったという。
ところが20世紀の後半になると、ハイエクの思想を現実が後追いし始める。
1974年にノーベル経済学賞を受賞すると、彼の理論は異端から先端へ様変わりし、サッチャー英首相やレーガン米大統領らが実際の経済政策に応用、両国の経済が劇的に立ち直るや、一挙に名声が高まり、新自由主義、あるいは新保守主義のイデオローグとして注目を浴びる。
1992年、92歳で世を去るが、その後、社会主義は完全に崩壊し、今やケインズ政策も時代遅れのレッテルを貼られつつある、というのはご承知の通りだ。
本書は、そんな不死鳥の如きハイエク思想の源流をわかりやすく紹介しながら、その現代的意義にまで筆を進める。
{ 結論 }
同じPHP新書では、社会主義の危険性を説いた主著
「隷従への道 全体主義と自由」フリードリヒ・A. ハイエク(著)一谷藤一郎/一谷映理子(訳)

の内容を解説する
「自由をいかに守るか ハイエクを読み直す」(PHP新書)渡部昇一(著)

があり、本書とあわせて読むと理解がより深まるだろう。
偉大な人にも師はいるものだ。
ハイエクの場合、大きな影響を受けたのは、同じオーストリア人のメンガーという経済学者だったという。
「商品の価値はそれを生み出した労働時間で決まる」という古典派経済学の考えに反論し、それを決めるのは消費者の「必要」の高低である、と唱えた新古典派経済学の元祖のひとりだ。
労働時間という
「客観」
よりも、人間の
「主観」
を重んじる姿勢を彼から学んだのだろう。
また、経済学者にして思想家だったハイエクは、哲学者からも影響を受けている。
代表格が人間の理性よりも感覚に信頼を置くデヴィッド・ヒューム。
彼からは
「経験的な事実から、ある法則を帰納的に導き出すことはできない」
という懐疑主義を摂取したという。
もっともメンガーの主観主義は、同時代の物理学者エルンスト・マッハから来ており、そしてマッハはヒュームの影響下にあったというから、ハイエクの源流はヒュームということだ。
主観主義者、懐疑主義者たるハイエクは、客観主義者、合理主義者の多くの論敵と対峙することになる。
なかでも、著者が力を入れて解説するのがケインズとの戦いである。
ハイエクが経済論壇に姿を現すのは、米ウォール街を襲った1929年のブラックマンデーに端を発する世界的な大恐慌期。
「市場経済=自律的に動くシステム」
という見方を終生、堅持したハイエクは、政府の市場介入の必要性を力説したケインズを批判するも、大恐慌に対して適切な処方箋を描けなかったため、論争はケインズの圧倒的勝利に終わる。
しかし、大恐慌期という、失業者が街に溢れるような非常時においては、確かに政府による景気刺激策は有効だが、同じことを失業者が少ない状態で実施すると、逆に不都合なインフレが起きる、と著者は述べ、結局、ケインズ・ハイエク論争の経済学上の軍配をハイエクに上げるのである。
冒頭で述べた通り、ハイエクが批判し続けたのは、ケインズ主義や社会主義に共通する、特定の目的のために社会を計画的に動かそうという思想である。
その源流はプラトンの国家論とデカルトを始祖とする合理主義であった。
そこでは、個人はすべて理性を共有し、世界についての客観的で正しい情報をもって行動する、と想定された。
人間の理性に全幅の信頼を置く、この
「合理主義」
に対して、ハイエクが依拠するのが人間の理性を疑うヒューム流の
「懐疑主義」
だった。
合理主義の行き着くところは、自由の圧殺だ。
全知全能を備えた中央当局が永遠の未来を合理的に予想し、世界を正しく導くことができれば、自由は必要なくなるからだ。
まさに、
「自由は屈従である」
がスローガンとなった社会の恐怖を描く、オーウェルの古典SF「1984」の世界である。
「一九八四年」(ハヤカワepi文庫)ジョージ・オーウェル(著)高橋和久(訳)

いや、フィクションではないかもしれない。
新古典派経済学を基礎にした現代のマクロ経済学のモデルはまさに
「合理主義」
が基礎にある、と著者はいう。
新古典派経済学はハイエクのいう計画主義の一派であり、そういう意味では
「隠れ社会主義」
ということなのだろう。
代わって、ハイエクが重視するのが、言語や習慣といった、人間界における自然発生的な秩序である。
彼はそれを
「自生的秩序」
と呼んだ。
ただし、
「自生的秩序=自由放任によって発生する秩序」
と解すると、ハイエクの考えを誤解する。
秩序なのだから、しかるべきルールは必要だ。
ルールといえば法律だが、この場合のルールとは明文化された法律とは限らない。
むしろ暗黙のルールのほうが多い。
ハイエクはルール=法律のうち、慣習法をノモス、成文法をテシスと呼んだ。
重視したのは、もちろん
「常識」
「伝統」
という意味に近いノモスであり、テシスはノモスの上に作られた二次的な秩序とみなした。
さらにハイエクはノモスを構成する価値の中心に財産権をすえた。
なぜ財産権が重要なのか。
こう述べる。
〈「よい塀はよい隣人をつくる」ということわざを理解することは、すべての文明が発達する基礎である。
すなわち人は、各個人の境界がはっきりしており、それぞれの領域内では自由に行動できる場合に限って、互いに衝突しないで自分の目的を追求できるのである。
(中略)
個人の「生命・自由・土地」についての財産権は、個人の自由をいかにして紛争なしに実現するかという問題の答として、人類の見出した唯一のものだ〉(『法と立法と自由1──ルールと秩序』)
私有財産制を目の敵にして、
「自然に帰れ」
と唱えたルソーの理念を受け継いだ社会主義を、ハイエクが激しく攻撃した理由が、この記述からも伺える。
さて、著者は、ハイエクの
「自生的秩序」
に現代的な意義を看取している。
すなわち、インターネットこそ、自生的秩序の最たるものだというのだ。
ハイエク自身はインターネットの存在を知らずに亡くなっただろうが、1945年に書いた論文で、
〈どの人にもその全体性においては与えられていない知識を[社会全体として]どう利用するかという問題なのである〉
と、インターネットの自律分散という設計思想をはやくも提唱していた、と述べるのである。
本書は他にも、心理学や脳科学といった分野におけるハイエクの影響までを展望する。
ハイエクは古びないのだ。
こうしたハイエク思想の先進性を紹介する著者から見ると、日本はさながらハイエク後進国である。
自生的秩序どころか、ルールのほとんどが法律や省令という形で官僚によってつくられ、その解釈も官僚が決め、処罰の多くが行政処分として執行されるレガシー・システム(古い環境)の国、というのが著者の見立てだ。
その上で、世界で最も厳しいとされる著作権保護の軽減、政府による電波利権の解消、外資の参入を容易にするような資本開国、労働市場の規制撤廃などを訴えている。
当初はハイエクの著作の単純な紹介という目的で執筆が開始された、という本書。
最近、相次いで発表された、彼を再評価する著作の紹介が盛り込まれることになったからか、200ページ足らずの小著なのに、あっちへ行き、こっちへ行き感があり、やや読みにくい。
でもそれもハイエク思想の豊穣な内容があればこそ、なのだろう。
{ コメント }
本書を通読して思った。
古典派、ケインズ、社会主義、そして新古典派、さらにはフリードマンといったリバタリアンとも干戈を交えたハイエクを理解することは、経済学の流れそのものを理解することなのだ、と。
{ 参考記事 }
[ 結論 ]
以下の2つの記事を読んで頂くと、理解が深まると思う。
【要約・考察】『テクノ・リバタリアン』新時代からの誘惑と挑発
V.S.
【要約・書評】『人新世の「資本論」』2021年新書大賞作。いざ、21世紀のマルクスへ!
[ コメント ]
本書の流れは、「はじめに」で、取り上げる人の特性を述べている。
そして、本題に入る前に、日本人には馴染みのないリバタリアンの説明がはいる。
この後は、4人を中心に話が進み、テクノロジーにより世の中が、どのように変化していくかを文献や科学知識を駆使して書かれている。
読んでいると近未来小説のようでもあり、テクノロジーや科学(社会科学も含む)が、話の中で出てきていてので、SFのように読めたのだと思う。
しかし、常に、彼らの思想についての説明が入ることから、彼らの思想に、注目されている事に変わりはしないと感じた。
そして、本書のあとがきには、
「リバタリアニズムは
(中略)
テクノロジーと結びつき、世界を変える唯一の思想テクノリバタリアニズムへと進化している。
ところが、日本の偏った言論空間に囚われていると、イーロン・マスク
(中略)
がリバタリアンである事の意味がわからない。」
「私は極端な不均衡を正したいとおもっていた。」
「今世界で起きている『とてつもない』変化について読者の理解に資することを願っている」
と、本文の冷静な文面とは打って変わって、熱い文章が本書を書くきっかけになったのだと、そう感じられた。
■参照資料
「リベラリズム/コミュニタリアニズム」
政治哲学の目的は、我々に対して強制力を有する諸制度、とりわけ国家という制度の適切な役割とは何であるのかを考察することにある。
ロック(John Locke 1632~1704)、ルソー、そしてカントに端を発する政治思想であるリベラリズムは、個人の自由と権利を保証することに第一の重要性を認めている点に特徴がある。
現代の代表的リベラルであるロールズ(John Rawls 1921~2002)は、
「市民的自由」(良心、言論、結社、人身の自由)
と
「政治的自由」(参政権等)
が何にもまして保護されるべきことを要求している。
また社会制度を評価するにあたって、
「善(good)」
よりも
「正(right)」
や
「正義(justice)」
に優先権を付与すべきであることを主張し、政府は全ての市民に対して単一の善の構想を押しつけるべきではないと論じている。
自律的で合理的な選択をできる個人像が、リベラリズムの土台となっている。
歴史的には、リベラリズムは宗教改革後の寛容の承認と封建制度崩壊後の資本主義の進展と軌を一にして発展し、それらを思想的に正当化する役目も果たしてきた(善についての多元主義と市場経済の擁護)。
リベラリズムは、自律的個人が自ら肯定する様々な善き生についての構想の追求だけでなく、市場での自己利益の追求にも高い地位を与えているが、この後者の面を特に強調した立場が、ノージック(Robert Nozick 1938~2002)らを代表的論者とするリバタリアニズム(libertarianism)である。
「個人の自由」
へのコミットメントを極大化した立場がリバタリアニズムだとすれば、アリストテレス(Aristotels BC384~322)の思想を一つの源泉としながら、この個人の自由を可能とする社会的・文化的な前提条件についての再検討を促したのが、マッキンタイア(Alasdair Chalmers MacIntyre 1929~)、テイラー(Charles Margrave Taylor 1931~)、サンデル(Michael J. Sandel 1953~)らを代表的論者とするコミュニタリアニズムである。
合理的な仕方で選択を行うための我々の能力は、生得的なものではなく、我々が生まれ育った共同体の文化の中で培われたものである。
共同体の諸形態(家族、言語共同体)は自由な選択を行うための我々の能力の育成を助け、有意義な選択肢を提供するのであって、リベラルのように共同体よりも個人を優先させ、無制約な自由の行使を個人に認めることは自己の土台となっている共同体を浸食することになる、とコミュニタリアンは警告している(リベラル/コミュニタリアン論争)。
私的領域において単に自己利益を追求するのみならず、公共的な領域である共同体において共通善(common good)を促進する活動に積極的に参加することは、人間の善き生における基礎的でかけがいのない構成要素であるとコミュニタリアンは考えている。
■参考資料
■参考記事
リベラリズムとコミュニタリアニズム(未定稿)
http://www.meijigakuin.ac.jp/~inaba/lec/lib_com.txt