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真っ白な画用紙に自由に絵を描いていくように、自分の未来を描いていこう♪

生きることの愉しさとは、どこにあるのでしょうか?

ニーチェはかつて、「人間は重要なことについては、つねに原因と結果を取り違える」と道破しました。

ご賢察の通り、ある種の問いに答えが出ないのは、しばしば、私たちが原因と結果を取り違えているせいです。

だから、天才は解答不能な難問に立ち向かうときに、とりあえず話を逆にしてみるという技術を駆使しました。

大切なのは「結果」じゃなくて、その「道のり」をどんなふうに歩いているか、ということ。

例えば、歩くことを楽しんでいればどんな結果でも、「結果オーライ」になる。

笑顔で歩いている人はどこに辿りついても、結果笑顔になる。

だから、近道をさがすよりも、早く歩くことばかりを考えるよりも、歩いている今、ここを楽しめる人であることが重要です。

結果は一つの点にすぎないけれど、そこに至る日々は、ながいながい一本の線であり、無数の分岐点が存在しています。

人生のほとんどの時間は、道のりなんですよね。

では、生きることの意味は何か?という問いに答えるのが難しいのは、答えが無数にあって収拾がつかないからです。

このことについて内田樹は、以下のように述べていました。

人間は限られた時間、限られた空間のうちに封じ込められ、一度壊れたら二度と旧に復することがなく、一度失ったら二度と出会えないものに囲まれています。

人間をめぐる事象のすべては不可逆的に失われていきます。

しかし、すべては消滅し、私たちは必ず死ぬという事実そのものが実は人間の幸福を基礎づけているのです。

人間は死ねるから幸福なんですね。

それを、ちゃんと認識しておく必要があると思います。

私たちが愛するすべてのものは、壊れ、失われ、消え去ることを宿命づけられています。

私たちがなめらから肌や緑の黒髪や明眸皓歯を愛でるのは、それが加齢とともに確実に失われていくからです。

私たちが貨幣を集めたがるのは、できるだけ劇的な仕方でそれを蕩尽するためです。

私たちが情報を求めるのは、それを効果的に手放すためです。

およそ私たちが価値ありとするすべてのものは、それを失いつつあるときに、まさにそれが、失われつつあるがゆえに無上の愉悦をもたらすように構造化されているのです。

だから、私たちが欲望するものは、それを安定的持続的に確保することが不可能なものに限られます。

例えば、私たちは、永遠じゃないことを知るたびに、もっと、優しくなりたいと思うし、なろうと思うことがあったと思います。

どんなに、大好きな人でも、どんなに、大切な人でも、いつか必ず、別れはおとずれるものです。

さよならまでの時間は、永遠じゃない。

それは、あたりまえすぎて、ふだんは、あまり深く考えないことだったりします。

だけど、だからこそ、今日という日は大事。

今という時間は大事。

一緒に積み重ねてゆく明日も大事。

私たちは、いくつものさよならを繰り返しながら、永遠じゃないことを、確かめながら、もっと、ずっと、さらに、やさしい人になりたい、と願い、やさしい人になろう、と心に約束をしています。

いつかの、やさしいさよならのために。

だから、生きることの意味についても同じことが言えるかもしれない。

私たちが美貌や健康を重んじるのは、それがいずれ失われることが確実だからです。

私たちが己の生命をいとおしむのは、それがこの瞬間も一秒一秒失われていることを私たちが熟知しているからです。

私たちの人生はある意味で一種の物語として展開しています。

私はいわば私という物語の読者でもあります。

読者が本を読むように、私は私という物語を読んでいます。

すべての物語がそうであるように、この物語においても、その個々の断片の意味は文脈依存的であって、物語に終止符が打たれるまでは、その断片がほんとうい意味していることは読者には分らないんですよね。

というのは、どんな出来事であれ、それがどんな出来事であるかを言うためには、その出来事が終わった時点にまで想像上の針を進めなければならないからです。

私たちは今起きつつある私の人生という物語を、すでに読み終えた私、つまり、ナレーションの語り手としての私を想定し、その私の物語を読み終えた私が今起きつつある出来事にリアリティとしての厚みや深みをそのつど賦与するという、時間の順逆が狂ったかたちで生きています。

私の物語を読み終えた私というのは、言い換えれば、死んだ後の私ということです。

私の今ここにおけるリアリティの厚さと深さと熱を担保しているのは、死んだ後の私という視座なんですよね。

今生きつつある人間関係がどれほど複雑で、どれほどものごとの現れが錯綜していても、起きつつある事件がどれほど不可解でも、死んだ後の私を想定しうる私にとって、それは生きる経験の愉悦を増しこそすれ、それを滅殺するものではありません。

むしろ話が複雑になり、混乱が深まるほどに、私という物語を読み終えたときに立っている視座から一望俯瞰される風景の宏大さに対する期待が私たちの中で高まるのです。

仕事も恋愛も結婚も遊びも・・・・・・前を向いて、快活に、いろいろあるけど、バリバリとやっていこうじゃないかと思えないところに、この時代のしんどさがあります。

では、どうしてそこがしんどいのはそもそもなぜなのか?

それは、簡潔に言えば、未来がないから。

言い換えるならば、死んだ後の自分というものを自分自身の現在の意味を知るための想像上の観測点として思い描く習慣を失ってしまったからです。

今の私たちに足りないものがあるとすれば、生きる意欲ではなく、実は死への覚悟なのだと思います。

生きることの意味が身に沁みてこないのは、死ぬことの意味について考える習慣を失ってしまったからなんですよね。

自分の命を粗末にする人、ほとんど死んだような無気力な生活をしている人、何事にも無関心を装う人などなど・・・・・・

けれども、それは、死んでいるのではなく、自分を殺しているだけ。

自分を殺すのと死ぬこととは、天と地との差があるのだと思います。

自分を殺す人間は、殺した後も無傷で生き延びるつもりでいるのでしょう。

自分の身体が消えたあとまで、自分の運命の支配者にとどまるつもりでいます。

死ぬというのは、そんな人間の全性能が終わった、さらに先の話しなんですよね。

今一度、私たちが、自分の人生に対して、生きることの愉しさを感じるためにも、自分がどういうふうに老い、どういうふうに病み衰え、どんな場所で、どんな死にざまを示すことができるのかを、繰り返し、繰り返し、想像することであり、困難な想像ではあるけれど、今、この場での自分の「今」人生を輝かすのは、尽きるところ、その想像力で得られた現実なのだと思います。

であれば、人生の愉しみとは、可能な限り深く味わうことに帰着してきます。

なるようになるし、ならないようにはならないんですね。

さあ、この先どうなるか。

基本的には、各自が自分に善いことだけをする、自分さえ善ければいいという構えを崩さなければ、何があっても大丈夫だと、池田晶子は言っています。

他人や社会を気にしない、惑わされないということです。

おそらく、多くの人々は、人生の価値を生活の安定に求めているのかもしれません。

「先が見えない不安」とは、人々の口癖でもあります。

そんなのは今に始まったことではないんですよね。

人は、生まれた限り、死ぬものであり、その間にいろんな目に遭う。

それが人生というものです。

そうでしょう?

であれば、なんで在るんだかわからないこの奇跡的な存在、つまり人生を可能な限り深く味わってみたいという気持ちを持ってればいいと思いませんか?

これをまた裏返すと、そんなに気張らなくてもいいのかなとも言えるわけですが、べつにいいんでしょうねぇ、なんでも。

そう、なんでも同じじゃないか・・・・・・まあ、面白いですね、人生があるということは。

命=時間!

時間を使うことは命を使うこと。

大切な時間を、自分のためだけでなく人のために使えれば、もっと潤いのある人生に変わっていくかもしれませんよ。

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