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【「嗜む」のすすめ】日常に潜むあらゆるトリップに焦がれ本を嗜む

Ken Tanahashiさん撮影

私達が密かに大切にしているものたち。

確かにあるのに。

指差すことができない。

それらは、目に見えるものばかりではなくて。

それらを、ひとつずつ読み解き。

それらを、丁寧に表わしていく。

そうして出来た言葉の集積を嗜む。




■テキスト

「建築史的モンダイ」(ちくま新書)藤森照信(著)

[ 内容 ]
近代建築史研究一筋だった著者が中世ヨーロッパ建築、さらに初期キリスト教建築、新石器時代の建築へと歴史を遡るうちに気付いたのは、建築の発祥という大問題だった。
何が始まりだろうか?住まいか?
それとも神殿か?
そもそも建築とは何をもって建築というのだろうか?
長い長い年月を経て、石や穴だけとなった遺跡を訪ね、その遺跡のもらすつぶやきに耳をすませて見えてきたものとは?
建築の起源、和洋の違い、日本独自の建築の歩み…「建築」にまつわる疑問を縦横無尽に解き明かす。

[ 目次 ]
1 建築とは何だ??(建築と住まいの違いとは? 住まいの原型を考える ほか)
2 和洋の深い溝(和と洋、建築スタイルの根本的違い 教会は丸いのだ ほか)
3 ニッポンの建築(日本のモクゾウ 焼いて作る!?建築 ほか)
4 発明と工夫(ローマ人の偉大な発明 ガラスは「石」でありえるか? ほか)

[ 問題提起 ]
建築は、「ひと」のためにある、と思っている。

その建物を使うひと、住むひとが、建物(空間)と、「しあわせ」な関係をつくれるかどうかが、建築のテーマだと、私は勝手に決めつけている。

だから、どんなに著名な建築家の「作品」であろうが、築後十数年で、雨漏りだらけで、年間の維持管理費34億円、本気で修繕したら1000億円以上かかるといわれる「東京都庁舎」は、美しいと感じない。

もちろん、建築のデザイン、フォルムの美は、大切だと思う。

優れた建築家が、

「表現」

にこめたエネルギーには、鳥肌が立つ。

だが、大きな権力や資本が背後にあってこそ可能な公共建築を、作品と呼ぶ傲慢さには、首を傾げる。

まずは、社会の「器」ではないのか。

と、現代建築には、懐疑的なので、有名なセンセイの建築論は読まない。

読み始めても、妙な専門用語と、恣意的な言い回しの連続につきあいきれず、本を閉じる。

数少ない例外のひとつが、藤森照信氏の一連の著作である。

以前に、藤森氏の本書に出会い、一般人にもわかる建築史書が出た、と興奮した。

「日本の近代建築 上 幕末・明治篇」(岩波新書)藤森照信(著)

「日本の近代建築 下 大正・昭和篇」(岩波新書)藤森照信(著)

藤森氏の師匠が書いた本書と併せて読むと、ここ140~150年の日本の建築界の流れがつかめる。

「日本近代建築の歴史」(NHKブックス)村松貞次郎(著)

建築史家からスタートし、自然素材を活かした建築家として、

「神長官守矢史料館」

「赤瀬川原平氏邸(ニラ・ハウス)」

「熊本県立農業大学校学生寮」

等をつくってきた著者の記述に惹かれるのは、

「タッチは軽くて中味が重い」

からだ。

建築を様式で云々する前に、

「材料」

に食い下がるところも、好みに合う。

で、今回は、

「建築史的モンダイ」

である。

さまざま雑誌の連載記事に加筆し、書き下ろしを二編加えた新書だ。

正直に言うと、頭から順番に、最後まで読むのは、やや辛い。

著者の関心とこちらの興味が重なる部分ばかりではないからだ。

でも、コラム集なので、そのへんは飛ばして読み進められる。

本書を貫く主題は、

「人類にとって建築とは何か」

との問い。

[ 結論 ]
というと、小難しく感じるかもしれないが、内容は、具体的で、「目からウロコ」が何枚も落ちた。

例えば、

「日本の街は、なぜ、こんなにガチャガチャしているのか」

という素朴な疑問がある。

一応、都市計画で、

「住宅地」

「商業地」

「工業地」

等、土地の使い道が決められて、建物がつくられることになっている。

が、しかし、木造住宅の背後に超高層マンション、右隣が風俗店、左手に鉄工所みたいな街は珍しくない。

欧米人は、それを、

「オモチャ箱をひっくり返したようで面白い」

というが、住民間では、

「景観紛争」

等、由々しき問題が頻発している。

経済原理主義で景観もへったくれもないからだ、と説明するのは簡単だけれど、なんでもありを許す精神風土がなければこうはなるまい。

それは何か?と、追っていくとよく分からなくなる。

本書の

「和と洋、建築スタイルの根本的違い」

という文章から、ナルホドと示唆を得た。

著者は、建築史的視点から、明治維新の元勲や大実業家が自邸の敷地に、「和風の御殿」と「洋館」を並べた「和洋併置式」を採り上げている。

和風の家と洋館が併置するのは、日本人には、当たり前に映る。

しかし、海外では、

「伝統の住まいの脇に洋館を建てて済ますような行いは、これまでの長いフィールドワークのなかでも目撃したことはない」

と著者はいう。

かたちが違う建物が並んでも平気な感覚を、日本人は、かなり昔から培ってきたようだ。

おまけに、時代的な差異にもこだわらない遺伝子も、有しているらしい。

西欧の建築史は、ギリシャ、ローマ、ロマネスク、ゴシック、ルネッサンス、バロック、ロココ・・・と、時代ごとのスタイルの歩みで語られる。

時代と様式が、ほぼ一致している。

ところが、日本の場合、飛鳥、奈良、平安、鎌倉、室町、戦国、江戸と、時代ごとには、様式を区切れない。

スタイルはあるが、時代の流れに沿って、変遷してゆくわけではない。

古いものが変化して、新しいものができるのは、欧州と同じだが、その先が違うという。

「ヨーロッパの建築ならさらにまた変わるのに、日本では一度成立してしまうと生き続けるのだ。

次に新しく生まれたスタイルと併行して古いものも生き続ける。

数奇屋が生まれても、書院はあいかわらず元気。

時には、一軒の家の中に、書院造、数奇屋造、茶室が順に並んでいたりする」

スタイルが、時代に従わないのである。

「では何に従うかというと、用途に従う。(山岡注:伊勢神宮の)

唯一神明造は天皇家の神社という用途に従い、数奇屋はちょっと遊び心の入った住いや料亭という用途にかぎって採用される」

ゆえに、明治の元勲たちも、日常生活は、

「和風の御殿」

、公とのつなぎ目である接客空間は、

「洋館」

と用途によって使い分けたので、異質な建物をならべても何の違和感も抱かなかった、と結論づけられる。

ここで、目からウロコが落ちた。

建物の用途にしか関心がないとすれば、近代の法体系で、土地の使い道を決めて、それに従わせようとしても、どだい無理な話なのである。

形も時代も違う建物でも、それぞれが、

「使えればいい」

と、どんどん建ててしまうのだ。

これを変えるのは、並大抵のことではない。

どこまでも、ガチャガチャになっていく。

「・・・スタイルは次々に蓄積されて、多くなるばっかりじゃないか、と心配になる。

実際そうなのだが。

それが日本の建築の宿命なのだと思いましょう」

うーむ。

宿命で片づけられると、前に進めないのだが・・・。

昨今は環境住宅流行りで。

「悪い化学物質を出さない」

とされる木や土が人気のようだ。

著者も建築家として自然素材を使うが、意外にも。

「鉄とガラスとコンクリートは、いずれも悪いものをださない」

という。

私も、別な本で省エネ住宅に暮らすひとたちを知り、

「鉄とガラスとコンクリート」

と、どう向き合えばいいかをじぶんなりに考えた。

現時点では、エコロジーとサスティナブルを求めるなら、鉄筋コンクリート造の躯体の外側を断熱材で覆い、エネルギー負荷を抑えると同時に直射日光、風雨から建物を守る外断熱工法が、耐久性の面でも有効だと思う。

著者は、環境と建築についてこう記す。

「環境問題への貢献で今のところ間違いないのは、屋根や壁や窓の断熱性を高めることだけではあるまいか。

・・・壁の断熱材を厚くするとか、屋根面の通気をよくするとか、ガラスを二重にするとかのありふれたやり方には、建築や住宅という領分に一番大切なバランスの良さがあり、信頼できるのである」

まったく同感である。

[ コメント ]
著者は、自然素材を使うのは、

「好きだから」

と率直にいう。

鉄とガラスとコンクリートは、悪いものを出さないし、頑強だが、表情に乏しい。

そこで、こう述べる。

「木は腐りやすく、土は崩れやすく、石は割れやすいが、表情は変化に富んでいて味わい深い。

としたら、鉄とコンクリートを骨格として使い、そのうえを自然素材で包み、ガラスの窓を開ければいい。

科学技術は裏に、自然は表に」

こんど機会があれば、著者が設計した建物を見てみよう。

■34夜340冊目

2024年4月18日から、適宜、1夜10冊の本を選別して、その本達に肖り、倣うことで、知文(考えや事柄を他に知らせるための書面)を実践するための参考図書として、紹介させて頂きますね(^^)

みなさんにとっても、それぞれが恋い焦がれ、貪り、血肉とした夜があると思います。

どんな夜を持ち込んで、その中から、どんな夜を選んだのか。

そして、私達は、何に、肖り、倣おうととしているのか。

その様な稽古の稽古たる所以となり得る本に出会うことは、とても面白い夜を体験させてくれると、そう考えています。

さてと、今日は、どれを読もうかなんて。

武道や茶道の稽古のように装いを整えて。

振る舞いを変え。

居ずまいから見直して。

好きなことに没入する「読書の稽古」。

稽古の字義は、古に稽えること。

古典に還れという意味ではなくて、「古」そのものに学び、そのプロセスを習熟することを指す。

西平直著「世阿弥の稽古哲学」

自分と向き合う時間に浸る「ヒタ活」(^^)

さて、今宵のお稽古で、嗜む本のお品書きは・・・

【「嗜む」のすすめ】日常に潜むあらゆるトリップに焦がれ本を嗜む

土屋耕一のガラクタ箱
土屋耕一

土屋耕一の一口駄菓子
土屋耕一

地にはピース
和田誠

芹沢銈介の作品
芹沢けい介

芹沢本書影聚

型絵染の巨匠 芹沢銈介展

MOUTAKUSANDA!!! MAGAZINE issue 2 毒と楽園

エクリヲ vol.7 音楽批評のオルタナティヴ

Myopic 山川哲矢

monochrome
須山菜津希、安永哲郎

■(参考記事)


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