鮮やかな色のお花。
分とは、人が置かれた立場や身分であり、とどのつまりは、人が備えている能力の程度です。
自らの能力をわきまえることなく、見栄を張って、高価なものを買ったとしても、使いこなせないことが殆どです。
それは、宝の持ち腐れというものです。
分に応じたものを使うことが賢明だといえるでしょう。
安土桃山時代の武将である竹中半兵衛も「分に過ぎたる価をもって馬を買うべからず。」と語っていました。
そう、無理して高価なものを買ってはいけません。
他にお金を使うべき所があるはずです。
一時的であれ、お金さえあれば簡単にいろいろなモノが手に入る時代です。
モノだけでなく、いわゆるお金持ちにしか享受できないサービスをも利用することが可能です。
でも、一時的に過ぎないので、その本当の価値を知ることはできないことを知ろうとしない、知らないのでは、本末転倒ですよね^^;
本当の価値は使い続けて初めて見えてくるものです。
ここにも「単に知っている」ことと「実際にやってみる」ことの断絶が横たわっています。
「大事だ」と称して様々なことへの対応や調整など「自分が出来る“易しい”こと」をやることに日々満足していたのではないのか。
「反省だけならサルでも出来る」と言う言葉を聞いたことがある筈です。
分に見合った過負荷の状況を常に背負って進む、と言う数十年来出来なかったことに再チャレンジする機会を与えてもらったことに感謝をし、「反省だけとは異なるレベルになったね」と言われたいものです。
「また、分相応とも良くいいますが、言葉の意味としては割りと否定的に使われることが多いですね。
「俺にはこの程度が分相応だよ。」
なんて、「身の程を知っております」というような使い方。
へりくだったり、卑屈な意味で使われます。
しかし、私はこの言葉を非常に大切にしています。
どうしてか、「身の丈を知る」ということを感じさせてくれるからです。
車の運転で言えば車幅感覚のことと思ってもらうと分かり易いかもしれません。
近くになにもない広野を走るのならば話は別ですが、車幅感覚ないまま車を走らせることはできませんよね、非常に危険だし。
この感覚は、仕事においても非常に大切です。
よく背伸びをするなんてこともいいますが、身の丈を知っていないと、天井に頭をぶつけたり、はたまた全然届いてなかったりなんてことになるから要注意です。
身の丈とは、自分の能力とか、人間性とか、人物像とか・・・・・・
それを客観的に見えているのかどうか?ということが、分をわきまえる、つまり分相応だと分かるかどうかということです。
組織においては、セクハラなんかがいい例で、セクハラで吊るされた人々は一概にして分をわきまえていません。
自分が、相手に対してどこまでしても許されるのかどうか?それが分からない。
肩に手を添えてもセクハラになるのに、抱きついてもセクハラにならなかったり・・・・・・
言葉だけでセクハラにされてしまうこともある。
セクハラとはやっかいなものなんですよねぇ、相手が「そうだ」と言えばそうなってしまう。
ということは自分がどう思うかでなく、相手がどう思うかで決まってきます。
相手から見た自分、というものを分かっていないから失敗してしまいます。
分相応、自分にはそのくらいが相応しいということ、決して否定的な意味ではなく、自分を知る、自分の居場所を知るということです。
自分というものを良く知らなければ、人間関係もうまくいかなくなります。
人間関係は広野を走る車のようにはいかないのが現実です。
人ごみの中を縫うように走らねばならりません。
事故には、十分注意しないと。
要は、人には人の役割や役目があり、それぞれの役割を、それぞれ分相応にこなしていれば、基本的に人間関係の問題は起こりません。
自分の役割が何かを考えている人は意外と少ないです。
目の前にあることに追われて、自分が何者か?という疑問も持たないし、自分は何者かという大義名分を大きくとらえ過ぎていることもあります。
単純明快、非常にわかりやすいものを、難しく考え過ぎて、自分は一体何者なんだろう?何の役割があるんだろう?って、本来の役割をこなしもせず、ぐるぐる思い悩んでいる人もいます。
もっと単純で、簡潔に自分は何者か?
その役割を分相応に果たしているか?
これだけで十分に生きる価値はあります。
それだけで良いんです。
他に何も要らないと言っても過言ではありません。
人は必ず誰かと接触して生きています。
無人島でたった一人で生きている人以外は、誰かと接触しながら生きている。
ニートで引きこもりだって、誰かと接触しています。
仕事もせず、引きこもっていても、木の股から生まれた訳じゃありません。
接触している誰かとの関わりで、分相応の役割をこなすだけで良いんです。
難しく考える必要なんて、これっぽっちもありません。
最近、嫌なニュースばかり目にします。
どうも、考え過ぎなんじゃないかな?という気がしてなりません。
考えて、わざと複雑にしているだけのような気がします。
もっと単純に、「分相応」に生きていれば十分だと思います。
花はなぜ咲くのか?
花はなぜ色を持っているのか?
それは、ただ、分相応に生きているだけであり、それ以上でもそれ以下でもない。
食卓に飾るだけで、なんだかココロが明るくなる♪のは、そんな花の姿勢に心が魅せられるからなんでしょうねぇ(^^)
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