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【LAWドキュメント72時間】遊び種

種にもいろいろありますが。

この種ほど、楽しい種は、ないのではないでしょうか(^^♪

「遊び種」

とは、遊び相手や、遊びの材料のことですね。

このときの

「種」

は、

「くさ」

と読んで、

「あそびぐさ」

です。

昔の子供たちにとっての遊びは、

・木登りをしたり

・木の枝でチャンバラをしたり

・野の花を編んで首飾りや冠を作ったり

・草で料理のまねごとをしたり

と、自然は、遊びの宝箱そのものでした。

遊びの天才である子供たちは、どんなものでも、遊び道具にしてしましたね。


■遊びの語源

「遊び」

「足霊(あしひ)」

を語源とし、人びとの助けとなる神のところに歩いて行って祭ることに由来しています。

「楽ぶ」

と書いて

「あそぶ」

と読ませたのも、もともと

「遊び」

というのは、神や魂を楽しませるものだったからです。

楽器を使って、歌や舞を踊る

「神楽」

が、それを表しています。

旅する僧侶を

「遊行上人(ゆぎょうしょうにん)」

と言うのも、もとは

「あしひ」

からきているようなのですが、何もせず、ただぶらぶらしているように見えたのかもしれませんね。

そんな

「遊び」

の意味が、そして、

「遊び方」

が、時代と共に、少しづつ変わってしまったのは残念です。

「子供は遊ぶのが仕事」

と、昔の人は、言っていました。

子供たちの小さな心と体に宿った小さな種達。

その種は、遊びのなかで育まれ、やがて、それぞれの花を咲かせていきます。

子供にならい。

大人も楽しく遊んで。

眠ったままの種を起せば。

もしかしたら、美しい花が咲くかもしれませんね(^^)


■万葉集のかけ算九九遊び

かけ算の九九は、万葉集の時代に、既に常識だったようです。

最初に、この時代を代表する歌人、柿本人麻呂の一首では、狩りに出かけた長皇子を讃えた歌の中に、

十六社者 伊波比拝目(万葉集3・239)

「十六」

と書いて

「しし(四×四)」

と読み、

「鹿」

「猪」

までもが、皇子を敬っていると詠んだ一節があります。

また、同様の使い方は、他の歌でも登場していて、

射目立 十六待如(万葉集13・3278)

「十六」

は、やはり

「鹿」

「猪」

のことで、射目に隠れて、鹿猪を待ち伏せるように・・・という意味です。

もちろん、

「十六(しし)」

だけではなく、

三野之國之 高北之 八十一隣之宮尓(万葉集13・3242)

においては、

「三野」

「美濃」、

「八十一隣」

「くくり」

と読んで、現在の岐阜県可児市久々利を指しているそうです。

「八十一」

と書いて

「九×九」

と読ませる。

このように、九九を使った言葉遊びが、万葉集に点在しているのは面白いね(^^)

10年以上前の話題ですが、平城京跡で、九九の練習をした木管が見つかっているそうで、

・九九の中国伝来、裏付ける木簡 平城宮跡で出土(日本経済新聞2010年12月3日)

かけ算の九九を覚えるのが、千年以上も続いているのって、凄いよね。


■荘子「無窮に遊び、心に天遊を!」

「遊」に関して荘子も、以下の様に語っていました。

「天地の正に乗じて、六気の弁に御し、以て無窮に遊ぶ者は、彼はたなにをか待たんや。」(逍遥遊篇)

自然の変化に身を任せ、世界をどこまでも遊ぶ者は、何者にもとらわれることなく、生きることができる。(※六気…自然の変化、無窮・・・無限)

「物に乗じて心を遊ばしめ、やむを得ざるに托して中を養う。」(人間世篇)

ありのままを受け入れることが、最上の生き方である。

「心に天遊なければ、すなわち六鑿相いみだる。」(外物篇)

心にゆとりがなければ、すべての感覚が乱れてしまうだろう。(※六鑿(りくさく)…目、耳、鼻、口、心、知の感覚)

「適たま得て、幾し。是に因るのみ。のみにして其の然るを知らず、これを道という。」(斉物論篇)

自然に身を任せた先の、たまたまの出逢いに「道」がある。(※適たま・・・たまたま)

遊び心が、引き寄せる偶然にこそ、人生の本質があると、先人は、既に気づかれていたんだね(^^;


■星の林と遊び種


■遊びこそ文化の起源

平安時代末期の流行歌を集めた「梁塵秘抄」に、こんな歌があります。

「梁塵秘抄 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典」(角川ソフィア文庫)後白河院(著)植木朝子(編)

「遊びをせんとや生れけむ

戯れせんとや生まれけん

遊ぶ子供の声聞けば

我が身さへこそゆるがるれ」

この歌を、

「遊び」

は、アソビメ、

「戯れ」

は、タハレメに通じるとして、遊女が子供の声に触発されて、我が身の罪深さを嘆く歌とする解釈もあるようです。

ただ、子供の純真な愛らしさを歌ったもの、として読んでいるのが、一般的なようです。

これは、子供の未来に、明かりを垣間見たいと願った、

「大人の思い」

なのではないでしょうか。

人間が、

「遊び」

「戯れ」

をするためだけに生まれてくるのではないのは、重々承知している。

人間は、もっと重い、長くて、苦しい道のりを、歩まなくてはならない存在であるけれど・・・

だからこそ、遊び戯れる子供の声の可憐さに、その愛おしさに、自分の身体も一緒に動いてしまう。

子供が歌っているのを聴けば、一緒に歌いたくなってくる。

そんな歌なのではないでしょうか。

この歌を謡ったのが、親にしろ、遊女にしろ。

子供達が純真に遊ぶ心を忘れずに、健やかに育って欲しいと願う気持ちが。

そして、自らもまた、子供の頃の気持ちを持ち続けていたいと願う心が、こもっていると考えるのは、うがちすぎた見方でしょうか。

ここで、18世紀のドイツの詩人、フリードリヒ・フォン・シラーは、

「人間は文字通り人間であるときだけ遊んでいるのであって、遊んでいるところでだけ真の人間なのだ。」

と、もっと踏み込んだ表現をしていましたね。

そして遊びは、ノーベル賞に、つながることだってあります。

「後でノーベル賞をもらうもとになったダイアグラムも何もかも、僕がぐらぐらする皿を見て遊び半分にやりはじめた計算がそもそもの発端だったのである。」(「ご冗談でしょう、ファインマンさん」上巻P311より)

そして、

「遊び」

を学問してしまったのが、文化史家であるホイジンガだでした。

「ホモ・ルーデンス」とは、日本語で「遊ぶ人」の意味。

「遊びというものが現にあるということが、宇宙のなかでわれわれ人間が占めている地位の超論理的な性格を、絶えず幾度となく証明する理由になっている。」(P21)

人間の本質や存在意義を、

「遊び」

に見出し、

「人間文化は遊びのなかにおいて、遊びとして発生し、展開してきたのだ。」(P21)

文化は、遊びのなかに生まれ、遊ばれてこその文化だと説いていました。

「遊びは秩序を創っている。

いや、遊びは秩序そのものである。」(P35)

「遊びはものを結びつけ、また解き放つのである。」(P36)

「遊びは人間がさまざまな事象の中に認めて言い表すことのできる性質のうち、最も高貴な二つの性質によって充たされている。

リズムとハーモニーがそれである。」(P36)

遊びこそが、世界の創造主といわんばかりの主張の連続でしたね。

でも、どこからが遊びで、どこからが遊びでないのか?

そんなことを考えるのは、野暮なんだろうなと、そう思います。

「遊びの「面白さ」は、どんな分析も、どんな論理的解釈も受け付けない。」(P19)

ただ、時の流れから外れてしまうほど、何かに没頭したとき。

そこには、

「遊び」

があり、

「人生の本質」

があるに違いない。

そして、その

「遊び」を、極めたものが

「賢者」

って、ダーマ神殿の見解は、言い得て妙ですね(^^♪


■ホイジンガ、カイヨワの「遊び」の定義

人間文化の起源をたどれば、すべて「遊び」にたどり着く。

そう解き明かした古典的名著、

ホイジンガ「ホモ・ルーデンス」

ロジェ・カイヨワ「遊びと人間」

でしたね。

▶ホイジンガの遊び

ホイジンガは、遊びの形式的な特徴として、以下の5つを示しました。

①自由な行為(命令された遊びは遊びではない)

②仮構の世界(ありきたりの生活の埒外)

③場所的時間的限定性をもつ(定められた時間と場所の範囲内で行われ、終わるもの)

④秩序を創造する(規則が犯されると同時に崩壊する)

⑤秘密をもつ(小さな秘密を作ることで魅力を高める)

▶ロジェ・カイヨワの遊び

ロジェ・カイヨワは、遊びの基本的な定義として、以下の6つ示しました。

①自由な活動(強制されないこと)

②隔離された活動(あらかじめ決められた明確な空間と時間の範囲内に制限されていること)

③未確定な活動(ゲーム展開が決定されていたり、先に結果が分かっていたりしてはならない。)

④非生産的活動(財産も富も、いかなる種類の新要素も作り出さないこと。遊戯者間での所有権の移動をのぞいて、勝負開始時と同じ状態に帰着する。)

⑤規則のある活動(約束ごとに従う活動)

⑥虚構の活動(日常生活と対比した場合、二次的な現実、または明白に非現実であるという特殊な意識を伴っていること)

▶今の社会に潜む遊び

上記のような遊びの定義は、今の経済社会に見え隠れしているそうです。

・ルールを守って(ホイジンガ④、カイヨワ⑤)

・自由に競争をする(ホイジンガ①、カイヨワ①)

・あらかじめ結果が予測できる競争は不正なのでルールを見直す(カイヨワ④)

例えば、共産主義がうまくいかなかったり、今の中国が、嫌われたりするのは、この遊びの定義を、逸脱してしまっている点にあるとの指摘は秀逸ですね。


■遊び上手だった日本人

「ホモ・ルーデンス」

とは、

「遊ぶ人」

の意味でしたね。

ホイジンガは、

「人間の本質」

「存在意義」

を、

「遊び」

に見出し、文化は、遊びのなかに生まれ、遊ばれてこその文化だと説きました。

そして、世界の遊び表現を紹介する中で、日本語にも言及しています。

「注目すべきは、ある『師のもとに』遊ぶ、ある『土地』に遊ぶというような言い方があることで、これは、遊びという意味のラテン語『ルードゥスludus』が学校という意味をも持っていることを思い出させる。

(中略)

日本の美的な茶の湯も『遊ば』れるものである。

茶の湯の席では、陶器の茶碗が賞玩され、それを讃える言葉とともに次々と隣席の人の手へと回されていく。」(P85)

そういえば、

「道を極める」

「遊ぶ」

は、近い関係にあります。

例えば、仏教用語でも、広辞苑依ると、

遊行(ゆぎょう):僧が修行のため諸国を巡り歩くこと

遊戯(ゆげ):心にまかせて自在にふるまうこと

の様な言葉もあり、茶席でも

「今この時に集中しなさい」

って意味合いの

「遊戯三昧」

って禅語が描かれた掛け軸をかけることもあるそうです。

また、

「遊ぶ(アソブ)」

の源流は、

「荒ぶ(スサブ)」

にあり、仏教的な静けさだけでなく、荒々しさも持ち合わせていました。

例えば、

「婆娑羅(バサラ)」

が、この遊び感覚であり、婆娑羅は、

「傾奇(カブキ)」

でもあり

「歌舞伎」

の源流です。

日本人は、

「遊び下手」

って言われるようになって久しいのですが、たぶんそれは、自国の文化・伝統を軽んじて、西洋に傾注したためであり、

「歌を忘れたカナリヤ」

になってしまっているからではないでしょうか。

私は、今一度、日本文化を見つめ直して、思いっきり、人生を遊びたい!なって、そう思っています(^^)

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