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【駆け抜けろ可能性を】どうすればよかったか?

SamAliveさん撮影

私たちの多くが、何の備えもなしに、日々を暮らしている。

確かに迫ってはいるが、いつ来るか分からない危機に対して・・・

■参考記事

私たちは、真剣に向き合うことができない存在なのかもしれない。

こうした人の性は、ユリウス・カエサルの、この言葉に集約されていると感じる。

「人間ならば誰にでも現実のすべてが見えるわけではない。

多くの人は見たいと欲する現実しか見ていない。 」


連想1:どうすればよかったか?

■映画

■参考記事

極めてパーソナルな映像の積み重ねによって、普遍的な問題提起につながっています。

バランスをちょっとくずしただけで・・・

こういう間違いを、自分が犯さないかの保障は、どこにもありません。

本当に生きるのって、難しい。

時間は、そう、取り戻せません。

「どうすれば良かったと、今思います?」

■脳科学から見た統合失調症

この問いに対して、百人百様の答えがあるだろうと思います。

■参考図書

「統合失調症」(岩波新書)村井俊哉(著)


連想2:漢字があるから校正作業もある

テキストの書籍を参考にして、自分の書いた文章を自分で校正してみれば、当たり前なことだけど、改めて、自分が、いかに、適当に、言葉を使っているかが、よくわかります。

・定義忘れ

・表記ゆれ

・時制の矛盾

・前後の文脈との食い違い

・変換ミス

等々、改めて、自分の国語力の無さに呆れたわけですが・・・

これはこれで、一つの訓練だと思い続けてみると、自身の変化の本質のひとつに、

「国語力」

があることが見えてきます。

もっと分解していえば、ここでいう国語力とは、

①話者の意図を正確に理解すること

②正確な言葉を適切に使って表現すること

③語彙の豊富さ

の3点です。

例えば、精神障害は、

「気持ちの持ちよう」

といった精神論的な状態ではなく、

「脳の病気」

として生じている状態であると理解できていれば、複雑な問題を紐解くための視点が得られます。

■テキスト

「校正のこころ 増補改訂第二版 積極的受け身のすすめ」大西寿男(著)

■参考図書

「ことばの番人」髙橋秀実(著)

■参考記事


連想3:考える力

ピーター・ドラッカーが指摘するように、

「実践的な能力」

は、才能ではなく、

「努力」

「訓練」

で獲得することができる

「習慣的能力」

です。

仕事の能力という観点から言えば、才能に大きく依存する領域(創造性や数理的能力 等)は、それほど大きくないと考えられます。

仕事の殆どは、基礎的な

「言語能力」

が備われば遂行することができ、これらは、訓練のたまものです。

そういえば、藤原正彦氏は、

「国語の基礎」

は、

「文法」

ではなく

「漢字」

であると言っていましたね。


連想4:3つの文化的視点

「日本語で生きる幸福」平川祐弘(著)

英語が世界の支配語となった現代において、古典を、今の言葉で理解できる国は、ほとんどありません。

ひとつの対象を読み解くには、3つの文化的視点が必要であると、著者は、この方法を

「三点測量」

と呼んでおり、

「二つだけの比較では、日本人は向こうばかり見て、向こうばかりを大きく感じてしまう。

それは直線上の向こうに対象を見るから距離感がつかめないためである。

ここに第二外国語を加えると、線の知識は面となり、遠近感覚がついてきて初めて相手の所在が確認ができる。」(P110)

この視点で、日本語を俯瞰して視ることで、新たな気づきが得られます。

「日本人の場合には多力者の条件をやや緩めに考えて、二外国語の一つとして日本語の古文や漢文も数えてよい、と私は考えている。

三点測量は空間的だけでなく時間的に行うこともまた有効だと判断するからである。」(P211)

また、本書に依ると、

「文化の三角測量―川田順造講演集」川田順造(著)

「文化の比較には大別して二つの行き方があると思います。

一つは連続の中の比較で、隣接する地域の文化間における伝播、受容、受容拒否など、相互の影響関係を比較によって検討するものです。

もう一つは断絶における比較で、私が提唱する『三角測量』の場合ですと、日本、フランス、西アフリカ(旧モシ王国)のように、十九世紀末まで互いに直接交渉がなく、地理的にも隔たった、自然条件もまったく異なる地域で、それぞれの道を歩んできた文化の比較です。

第1の連続の中の比較の目的を『歴史的』と呼ぶとすれば、第二の断絶における比較では、まったく異なるようにみえる現象を比較しながら掘り下げることで、その現象の人間にとっての根源的な意味を、比較を通して『論理的』に問うことを目的としている、と言えるかもしれません。」(P129~130)

この「地測の方法から比較的に借用した」(P129)という三角測量は、二者関係からではなく、三者関係から物事の本質(=その現象の人間にとっての根源的な意味)を探ろうという方法論です。

ここで、改めて、例えば、

■ろう文化のような独自の言語を持つ手話使用者

■幻聴や幻覚、うつなどの独自の感覚を持つ精神障害者

■それらの経験のない日本人

の方々の文化の問題を、

「文化相対性」

「三角測量」

の観点から、文化間比較の問題として捉えてみると、それらの連続性と差異は、どこにあるのだろかと、様々な疑問が、浮かんでくるのではないでしょうか。


連想5:常識からの跳躍を行い予想外な論理的な帰結と向き合う

「勇気論」内田樹(著)

本書を読むと、

論理を積み上げる

予想外の帰結にたどり着くときがある

それは凡庸な知性と例外的知者の分岐点である

と内田さんは言っています。

その

「予想外の帰結」

が見えたとき、

「常識」

「思い込み」

が邪魔になって立ちすくみ、

「そんなことあり得ない」

と目をつぶり、これまでのパターンの中に閉じこもるのか。

あるいは、その

「予想外の帰結」

が見えた段階で、

「常識の限界」

を飛び越えて、

「日常的論理」

ではたどりつけないところに、

「高く遠く跳躍する」

か、そのどちらかで、見える世界は、大きく異なると指摘されています。

「予想外の帰結」

に、自分が、ときめいていなければ、たぶん、世界は微笑まない(^^♪


連想6:幼い頃、世界はもっとカラフルだった。

目新しくなくても、違和感を嫌わなければ・・・

走り。

盛り。

名残。

この国の食文化を豊かにしてきたのは、旬を楽しみ尽くす和食の知恵。

四季折々の旬の食材。

その美しさを目で楽しむ。

和食は、和色で、できていたことを。

何気ない日常も、視点を変えることで、発見と感動が生まれます。

「まだまだ、知らないことがあった、という幸福」

を、実感する道程へ。


連想7:行動遺伝学が示す研究結果とマキャベリ「君主論」との相似性

ん~目を背けたくなるような現実を突きつけられた印象(^^;

■行動遺伝学が示す研究結果

①その時代が求める才能にあった遺伝子を持って生まれるかどうか。

②そして生涯のうちにその遺伝的な特性を発揮する機会に出会うかどうか。

■マキャベリが「君主論」の中で名君の法則としてかかげた3つのキーワード

①運命(Fortuna/フォルトゥーナ)

②力量(Virtu/ヴィルトゥ)

③時代性(Necessita/ネチエシタ)

■塩野七生「マキアヴェッリ語録」より

「運命は変化するものである。

それゆえに人間は、自分流のやり方を続けても時勢に合っている間はうまくいくが、時代の流れにそわなければ失敗するしかない、ということである。」

■参考図書

「日本人の9割が知らない遺伝の真実」(SB新書)安藤寿康(著)


連想8:一見どこにでもいそう(普通)だが考えてみるとこんな人はなかなかいない

『総務部総務課山口六平太』(林律雄・高井研一郞)

『路傍のフジイ』(鍋倉夫)

フジイさんを観察していた周囲の人たち。

そんな彼を見て、

・自分を見つめ直したり

・心が軽くなったり

・世界が明るく見えたり

と、フジイさんの知らぬところで、勝手に救われているという、

「平熱の優しさ」

が漂っている作品。

「普通に」あたたかい気候。

「普通に」すごしやすい環境。

「普通」

とは、

「奇跡」

だということ、なんだろうね(^^)

■参考資料

「 〈感情は熱〉〈愛情は熱〉〈興奮は熱〉〈怒りは火〉〈優しさはあたたかさ〉という温度感覚に関するメタファーが存在する。

しかし、温度感覚を表す「熱い」「あたたかい」「冷たい」は感覚をもたらす原因により、メタファー的意味の実現に違いが生じる。

「熱い」は生理的反応として身体から熱が出るという身体経験を基盤とする。

「あたたかい」「冷たい」は、人肌の身体接触によって温度を感じるという身体経験を基盤とする。

これらの概念化のプロセスを通して「熱い」「あたたかい」「冷たい」は、メタファー的意味の実現に違いが生じる。

「熱い」は、「興奮」「怒り」に関する感情として概念化される。

それに対して、「あたたかい」「冷たい」は親しみ、優しさ、想いやりなどの対人認知に関するものとして概念化される。」(「日本語における温度感覚に関する概念メタファー」より)


連想9:「絶対に正しい」から社会を読み解く

「正義」

は、

「暴走」

しても、

「正義」

のままなのか。

人は、以下に示す心理学の理論にある心理状態を経て、

■確証バイアス:信じたことを裏付けようとするバイアス

■認知的不協和理論:人間は認識した複数の要素が互いに矛盾すると不快になり、無理やり「不協和」を解消しようとして、片方を無視したりしてしまう癖がある。

■認知的完結欲求:問題に対して確固たる答えを求め、曖昧さを嫌う欲求。

「自分は絶対に正しい」

と思い込むと、身の回りの

「?」

「怒」

も、

「!」

に変わるので、要注意(^^;

「「なぜ」から答えを探し始めると、私たちはその時点ですでに心の中にある「こうなんじゃないか」という漠然とした自分の考えや期待をもとに、ネットの情報でそれを「確証」し、固めて「強化」している可能性が高い。

さらにすでに述べた通り、ユーチューブなどは「おすすめの動画」などを通じてできるだけ過激なものになるよう設定しており、視聴者の思い込みが強化されやすいデジタル環境もある。

インターネットがない時代は悩みがあれば友達や家族に話を聞いてもらい、「思い込みだよ」とか「もっと違う角度で見なよ」と言ってもらえる機会もあったが、それも少なくなり、バイアスはより強化されやすくなっている。

つまり認知バイアスと現代のテクノロジーは、相乗作用を起こす形で過激化を促す大きな牽引力になっているのだ。」(大治朋子「歪んだ正義」より)


連想10:「悪」の問題と知性の限界

神話をはじめとした世界の物語に、必ず見え隠れする善悪の対立。

ゾロアスター教が、古代ギリシアの自然哲学に与えた影響も大きかったためか?

世界を人と神に切り分け、混沌を理性で支配する考え方にも見え隠れする、この対立。

古代から現代まで、

「二元論的な思考法」

が世界を席巻するなか、日本には、

「あいまいさ」

を、そのままにする感覚が残り、

「間」

を大切にする心が有った筈が・・・

一体、どこへいってしまったのか?

いつから日本は、極端な

「善悪二元論」

に走るようになったのか?

「明治維新がただ一種類の思想で成立したとは思わないが、イデオロギー正義体系としては朱子学(宋学)の尊王攘夷思想だった。

とくに維新後、尊王が拡大され、イデオロギーの常として、善玉と悪玉が設けられた。

マルキシズムもふくめて、イデオロギーが善玉・悪玉をよりわけたり、論断したりするときには、幼児のようにあどけなく、残忍になる。」(司馬遼太郎「この国のかたち」より)

それから、

「明治」

「大正」

「昭和」

「平成」

「令和」

と、時は過ぎても・・・

善悪の割り切れなさが世界を覆っているにも関わらず・・・

未だに、善が転じて猛威をふるう社会。

現代社会でも、その主な脅威。

それは、あからさまな

「悪意」

を持ったものではなく。

「善意」

ではじまったもの。

それが、何かの拍子で、猛威をふるう点にあり、人の

「知性の限界」

を思い知らされる場面も多く見受けられる。

例えば、

科学技術の発展により、社会が豊かになることで、

①何がリスクなのか把握することができない

②リスクの責任の所在が分からない

③リスクが顕在化したときの補償をしきれない

といった状況に必然的に陥り、リスク社会が到来し、誰もが、等しく

「リスク」

にさらされる現実を、

「リスク社会において、過去は現在に対する決定力を失う。

決定権を持つのは未来である」(ウルリヒ・ベック「危険社会」P47)

直視できていないのも、事実ではないかと、そう感じる。

もはや、現代社会は、科学的・経済的・社会的等な各方面の

「合理性」

の内、声の大きさ(世間の風潮)で物事を決めている雰囲気になっているから、もう、訳が分からない(判らない/解らない)。

「社会的な合理性によって裏付けられていない科学的な合理性は無意味であり、科学的な合理性のない社会的な合理性は盲目なのである。」(ウルリヒ・ベック「危険社会」P41)

■参考図書

「〈悪の凡庸さ〉を問い直す」香月恵里/百木漠/三浦隆宏/矢野久美子(著)田野大輔/小野寺拓也(編著)


「ツナミの小形而上学」ジャン‐ピエール・デュピュイ(著)嶋崎正樹(訳)

「悪と日本人」 山折哲雄(著)

「スマートな悪 技術と暴力について」戸谷洋志(著)

「カントの「悪」論」(講談社学術文庫)中島義道(著)

「親鸞 ―悪の思想」(集英社新書)伊藤益(著)


連想11:ゆめうつつ(夢現)

こんなご時世であれば尚更、足利尊氏が清水寺に納めた願文を読み解くと、

❝ この世は夢のごとくに候

尊氏に だう心(道心)たはせ給候て、後生たすけさせ をはしまし候べく候

猶々とく とんせい(遁世)したく候、道心たはせ給候べく候

今生のくわほう(果報)にかへて後生たすけさせ給候べく候

今生のくわほう(果報)をば直義にたはせ給候て

直義あんおん(安穏)に まもらせ給候べく候

建武三年八月十七日  尊氏

清水寺 ❞

(現代語訳)
この世は夢のようなもの。
もはやこの世で望むものはありません。
私は出家しますので、来世の幸福をお与えください。
現世の幸福は直義(弟)に譲りますので直義をお守りください。

そこには、

「弱さ」

「強さ」

よりも深く、

「弱い」

と思われるものに、本当の

「強さ」

が潜んでおり、

「弱さ」

は、決して

「強さ」

の欠如ではないことに気づかされますね(^^)


また、平安時代に編さんされた古今和歌集には、

「夢と現実(うつつ)」

「間(あいだ)」

を詠んだ和歌が、11首もあることに驚かされます。

449 うばたまの 夢になにかは なぐさまむ うつつにだにも あかぬ心を

558 恋ひわびて うち寝るなかに 行きかよふ 夢の直路は うつつならなむ

641 ほととぎす 夢かうつつか 朝露の おきて別れし あかつきの声

645 君や来し 我や行きけむ 思ほえず 夢かうつつか 寝てかさめてか

646 かきくらす 心の闇に まどひにき 夢うつつとは 世人定めよ

647 むばたまの 闇のうつつは さだかなる 夢にいくらも まさらざりけり

656 うつつには さもこそあらめ 夢にさへ 一目をよくと 見るがわびしさ

658 夢路には 足もやすめず かよへども うつつに一目 見しごとはあらず

834 夢とこそ いふべかりけれ 世の中に うつつあるものと 思ひけるかな

835 寝るがうちに 見るをのみやは 夢といはむ はかなき世をも うつつとは見ず

942 世の中は 夢かうつつか うつつとも 夢とも知らず ありてなければ


この世が

現実(うつつ)

分からない

けど


たしかに

「ある」

ようにも

見えても

いる


だけど

いつかは

「なくなる」

もので


もしかすると

そもそも

「なかった」

のかもしれない


それで

おちこむ

ということ

であれば


いつか 

かわれる

可能性が

あるということ


そうであれば

そのことに

もう

気がついている

のだから


どちらかの

入口には

立っているのだろう


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