カメル・ダーウド『ムルソー再捜査』を読み解くーー『異邦人』の植民地主義を書き返す
2013年、アクト・シュッド社と提携しているアルジェのバルザフ社から『ムルソー再捜査』(Meursault, contre-enquête)が出版された。作者はアルジェリアのジャーナリスト、カメル・ダーウドである。本書は2014年にはゴンクール賞の最終候補に残り、翌年にはゴンクール処女小説賞を受賞した。
本書はアルベール・カミュ『異邦人』(1942)を下敷きにした作品であり、ムルソーに殺されたアラブ人の弟が『異邦人』の裏側を語るという設定である。本書のコンセプトは、「この物語は書き直さなきゃならないんだ。同じことばで、でも右から左にね」(ダーウド2019:17)の一節によく表れている。小説の元になっているのは、ダーウドの書いた「反ムルソー、あるいは二度殺された『アラブ人』」(ル・モンド紙、2010年3月10日)という記事で、この記事を読んだバルザフ社の人間がダーウドを誘って執筆させたという。2013年はカミュ生誕100周年であり、本書はカミュの代表作である『異邦人』を小説という媒体で新たに捉えなおす、記念碑的な作品でもある。
ムルソー再捜査』は、『異邦人』で「アラビア人」としか表記されなかった殺されたアラブ人に「ムーサー」(モーセのアラビア語読み)という名前を与える。そして、そのムーサーには弟のハールーンがいたという設定を加え、そのハールーンがムーサー殺害の裏側を語るという体裁をとる。小説は終始、ハールーンの語りであり、聞き手はフランス人の若い大学教員である。2人がいるのはオランのバーで、聞き手のフランス人は、足しげくバーに通ってハールーンから話を聞いているようである。ムーサーが殺されたときに7歳だったハールーンは既に年老いている。ムーサーが殺されたのは70年前のことである。ハールーンはフランス人にムーサーがどのような人物だったか、ムーサーの死後どのようなことが起こったかを語る。同時に2人の母であるマーとどのような生活を送ったか、アルジェリア戦争で何が起きたかなども語る。ちなみに作中では『異邦人』はムルソー本人が書いたことになっており、ムルソーは生き延びたことになっている。
『ムルソー再捜査』には反ムルソーと反アルジェリアの2面性がある。反ムルソーは言うまでもなく『異邦人』に対するポストコロニアル批評的な視点からの批判である。『異邦人』はムルソーが殺した「アラビア人」を抽象的に描く。「アラビア人」は他者として不気味な存在として描写され、常に受動的にまなざされる存在である。裁判では「アラビア人」を殺したことは問題にされない。ムルソー自身はママンの話ではじめて「自分が罪人だということを理解」し、検察らもムルソーが「重罪人の心」を持っていることを終始問題にする。『異邦人』において誰を殺したか自体は重要ではない。
『ムルソー再捜査』はこの点を批判し、被支配者の視点から『異邦人』を相対化しようとする。一方で、『ムルソー再捜査』は『異邦人』批判にとどまらず、アルジェリアをも批判する。本書の後半では、アルジェリア戦争のエピソードを通して、支配者-被支配者の立場が逆転したとき何が起きたのかが語られる。そこに、独立後のアルジェリアと独立前のフランスの同一性が示されるのである。本稿では、『ムルソー再捜査』の反ムルソー的側面と反アルジェリア的側面を明らかにし、この本の持つ意義を考えていきたい。
1.反ムルソー
1-1 二度殺されたムーサ―
前述の通り、『異邦人』はムーサーの死を不可視化した。ハールーンは、ムーサーを「アラビア人」と名指すのはムーサーを殺すためだったと指摘する。人は名前を持っている人間を簡単に殺せないのである(ダーウド2019:76)。彼は「ああ神よ、一体どうやったら人を殺してその死に至るまで奪い尽くすなんてことができるのだろう? 銃弾を受けたのは僕の兄なんだ、あいつじゃない! ムーサーなんだ、ムルソーじゃない、違うかい?」と嘆いている(同上:13)。この存在と死を不可視化されることで2度殺されたムーサーを語りなおすのが本書の試みの一つである。
ジュディス・バトラーは、社会の悲嘆が格差をともなって分配されている状態を悲嘆可能性(grievability)という言葉で説明している。この言葉を使えば、『ムルソー再捜査』は悲嘆可能性の偏在を告発した小説だとも言える。ハールーンは聞き手のことを「君」と呼び、ムルソーのことを「君の主人公」と呼ぶ。この「君」は、フランス人の若い大学教員だけでなく、読者(特に『異邦人』読んだ者)も包含していると考えられる。この作品は、「その生の喪失を嘆きうる集団」と「その喪失が悲嘆をもたらさない集団」に分別する、「君たち」の価値観の二重基準を前景化させる。
『ムルソー再捜査』では、ムーサーの死体が見つからず、家族の下に死体は戻ってこなかったことになっている。アルジェリアの独立後、マーは遺族年金を貰おうとするが、ムーサーの存在と、ムーサーとの関係を証明するものがないために貰うことができなかった。事件の報道にはムーサーの名前が出ておらず、殺されたのがムーサーだと証明することができなかったのである。
ムーサーはムルソー(カミュ)と、その読者によって殺され続けた。ハールーンがあるフランス人にムーサーのことを語ったことで、ムーサーは「自分の死と出生から半世紀経って、名前をひとつ持った」のである(同上:27)。
1-2 反ムルソーの表現形式
本作は『異邦人』と同じく、一人称の口語的な語りで物語内の視点から書かれているが、表現・形式は大きく異なる。ロラン・バルトが理想的な文体(白いエクリチュール)として絶賛した『異邦人』は、全知の視点や、過度な心情内面の描写を抑制した文体である。それに対して『ムルソー捜査官』は最初から最後まで主観的で一方的な語りかけであり、ハールーンがあるフランス人に語りかけている体である。口語的な口調で、地の文・会話文といったものは存在しない。モノローグと違い、語りかける相手が存在する。話の流れは未整理で、時系列では進まず、実際の会話のようである。ハールーンの語りは何度も話が脱線し、そのたびに聞き手のフランス人に謝る。さらに、ハールーンは途中で嘘をついてもいる。
結局、ハールーンの話が真実かどうか確かめる術は聞き手にはない。ハールーンは自身を「自分の主張の証拠を一切持っていない呑んだくれ」と表現している(同上:181)。特に、フランス人の殺害とその後の話には、記述の食い違いが見られる。殺害したフランス人のことを知らないと言っておきながら、尋問の際には知っていることになっているのが一例である。この小説の最後に、ハールーンは次のように言っている。
『異邦人』が徹底した客観的言葉づかいだったのに対して、『ムルソー捜査官』は極端に主観的である。語りは気まぐれで不安定であり、聞き手の信頼に足るものかはわからない。『ムルソー捜査官』は文体・語りのレベルでも反ムルソー、反『異邦人』なのである。
一方で、ハールーンはアラビア語ではなくフランス語を話している。ムーサーの死後、マーはハールーンをムーサーの分身として、その手中に収めていた。ハールーンにムーサーの服を着せ、「厳しい輪廻転生の義務」を課した。その束縛が解けるのは、ハールーンがフランス人を殺し「復讐」を果たしてからである。彼はマーの手から逃れるために、新たな言語(ラング)を必要としていた。
フランス語はハールーンを解放した存在であった。そして後日、皮肉にも『異邦人』が彼に真実と一種の解放を与えるのである。
反アルジェリア
2-1 ハールーン=ムルソーの構図
ハールーンがフランス人を殺してから1年後にあたる1963年の春、ハールーンとマーの下にメリエムが訪れる。メリエムはアルジェ大学大学院の博士課程の学生だと考えられ、『異邦人』の研究で彼らの家にたどり着いたという。メリエムはハールーンと同じアラブ人だがハールーンと同じくフランス語を話す。彼女が『異邦人』を持ってきたことで、ハールーンははじめて『異邦人』の存在を知ることになる。作品内では、正確には、ムルソー『他者』となっている。ハールーンは一晩で『異邦人』を読む。そこには、ムーサーの名前という最も重要なものを除けば、全てのことが書かれていた。彼は「自分を侮辱されると同時に真実の姿を知らされた」と感じる(ダーウド2019:173)。
それと同時に、ハールーンはもう一つのことに気付く。「僕はそこに兄の足跡を探し、そこに自分の見つけ(原文ママ)、自分がその殺人者とほとんど瓜二つであることを発見した」(同上:174)。ハールーンとその兄を殺したムルソーは瓜二つだというのである。
『異邦人』の中で、ムルソーはカミュと同じくアルジェリアで生まれ育った白人という設定で、本土のフランス人でもアルジェリアのアラブ人でもない。ムルソーはその両者にとっての「エトランジェ」であり、フランスとアルジェリアのいずれからも疎外された人間であった。そして、ハールーンもまた、「コロン」(フランス人植民者)でも「ムジャーヒド」(アルジェリア戦争で戦った者)でもなかった。彼は、アルジェリア人であるにも関わらず、同じアルジェリア人から疎まれる「エトランジェ」であった。
1962年7月5日、当時27歳だったハールーンはフランス人のジョゼフ・ラルケを殺害し、〈解放軍〉に捕まってしまう。これはアルジェリアの独立した日であり、支配者と被支配者が決定的に反転した日である。アルジェリアの独立に伴って、居場所を失ったラルケが彼らの家に逃げてきたところを、ハールーンは殺してしまう。しかし、尋問で問題になったのはフランス人殺害ではなく、独立戦争の際に「マキ」(≒ムシャーヒド)にならなかったことであった。将校は、戦争中であればフランス人を殺しても罪に問われなかったと指摘し、「そのフランス人だって、われわれとともに殺すべきだったんだ、今週じゃなくて戦争中にな!」と叫ぶ。他のアルジェリア人の成人男性のように独立戦争に参加せず、たった一人で遅れてフランス人を殺したことが、罪としてハールーンに問われたのである。これは、ムルソーが受けた裁判と同じ構造を持つ。
しかも、ハールーンはその男の素上について詳しく知らなかった。その「復讐」はフランス人であれば誰でも良かったのである。これは、ムルソーが顔も名前も知らない(書かれない)アラブ人を殺したのと同じである。殺害の場面には、『異邦人』の「アラブ人」殺害のシーンの描写が引用され、その同一性が強調される。『ムルソー再捜査』には、反ムルソーという主題と共に、ムルソーとハールーンの類似性という主題が織り込まれている。
ダーウドは『異邦人』のコロニアルな枠組みを切ると同時に、返す刀でアルジェリアをも切ってしまう。反ムルソーを打ち出すと同時に、ハールーンを疎外する独立戦争前後のアルジェリアも批判的に描き出すのである。
ちなみに、フランス人の殺害とその後の経緯は『異邦人』と対になっている。ハールーンの殺人は2時に行われ、ムーサー殺害はその20年前の14時に行われた。ムーサー殺害が起きたのは炎天下であったが、ハールーンは「おかしなことに、僕は寒かった」と述べている。『異邦人』と同じく、ハールーンはフランス人殺害後、投獄・尋問される。部屋にはフランス人がいて、何をして投獄されたのかと問われると、ハールーンはフランス人を殺したと述べ、フランス人たちは黙ってしまう。これも、ムルソーが留置されていたときのエピソードと真逆である。
ハールーンはマーと面会するが、このシーンも『異邦人』のムルソーとマリイの面会と対照的である。
2-2 メリエムの意味
メリエムはこの小説の中で最もリベラルな存在である。東部の中心都市であるコンスタンティーヌの出身だが、これは保守的で伝統的な街である。そこで保守的な家族からマリエムを解放したのは『異邦人』を含む書物であった。メリエムは「自由な女性」として語られる。ハールーンは「彼女は、今日この国から消えてしまった類いの女たちのひとりだった。自由で、勝ち誇り、不服従で、罪や恥ではなく才能として自分の肉体を生きている女 」と述べる(同上:179)。やがて、ハールーンはメリエムを愛するようになる。
ハールーンとメリエムを繋いだのは、フランス語と『異邦人』であった。ハールーンは『異邦人』を通して異性と接触したのである。そして、『異邦人』はハールーンに「真実」をもたらした。ハールーンをエトランジェとして疎外したアルジェリアの保守性を否定したのは、皮肉にもフランス語と『異邦人』だったのである。
ハールーンがメリエムと出会ったのは1963年の3月のある月曜日である。ハールーンはこの日のことを次のように述べている。
この日はアルジェリアが独立後の歓喜に包まれた状態から、一種の新たな恐怖が広がる転換期にあった。それから時間が経たないうちにメリエムは立ち去ってしまう。
メリエムはハールーンにとっての理想的な女性であり、同時にアルジェリアの理想像を象徴した存在だったと考えられる。「自由で、勝ち誇り、不服従で、罪や恥ではなく才能として自分の肉体を生きている」彼女は、今日アルジェリアで見られなくなってしまった類の女性である。現在、アルジェリアにいる女性はこのメリエムの真逆の属性を持っているのであり、メリエムは独立後飛び去ってしまった自由や個人といったものの象徴である。そして、ハールーンはメリエムが立ち去った後、「〈独立〉の熱狂が消費され、幻想が崩れるのを見た」(同上:183)のである。
この小説からわかるように、ダーウドは「個人」や「自由」を重視しており、世俗主義とは対極にある社会状況を批判的に捉えている。ハールーンは聞き手に「君はよそで暮らしていて、神を信じない老人が耐えているものを理解できないのだ。モスクに行かず、天国を待たず、妻も息子もおらず、挑発のように自由を持ち歩く老人を。」(同上:186)と語りかける。また、彼は「まだ飲める時代のうちに飲みたまえよ。数年もすれば、それは沈黙と水になるのだから」と言っており(同上:61)、バーの数が減ってきていることがうかがえる。これはアルジェリア国内の保守化を示しており、彼らの語りあうバーは反保守化の最後の砦なのである。
おわりに
本稿ではカメル・ダーウド『ムルソー再捜査』の反ムルソー的側面と反アルジェリア的側面を見てきた。この小説はカミュ『異邦人』を殺されたアラブ人という死角から書き直し、文体・語りのレベルでの反転を試みている。また、本書は『異邦人』批判にとどまらず、『異邦人』をなぞることによって、独立後のアルジェリア社会に対する鋭い批判を行っている。支配者-被支配者の関係の逆転したアルジェリア社会がいかに植民地時代のフランスと性格を同じくしていたか、独立後いかにして「自由」や「個人」といったものが飛び去ったかを描き出す。フランス語で書かれた本作は、作品内で「君」と名指される『異邦人』読者に向けられると同時に、保守化するアルジェリア社会を生きるアルジェリア人にも向けられているのである。
物語年表(ハールーン)
引用文献・参考文献
カメル・ダーウド『もうひとつの異邦人――ムルソー再捜査』、鵜戸聡訳、水声社、2019
カミュ『異邦人』、窪田啓作訳、新潮文庫、1954
小野正嗣「もうひとつの『異邦人』、植民地支配撃つ他者の語り――カメル・ダーウド著(読書)」、日本経済新聞朝刊、2019年4月13日
https://www.bunkamura.co.jp/bungaku/essays/tanoshimi/book8.html
「フランス文学の愉しみ No 8カミュの代表作をアラブ人の視点から捉え返す衝撃作」(2022年1月29日閲覧)
内田樹『寝ながら学べる構造主義』、文春新書、2002
三野博司『カミュ「異邦人」を読む――その謎と魅力』、彩流社、2002