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カメル・ダーウド『ムルソー再捜査』を読み解くーー『異邦人』の植民地主義を書き返す

 2024年11月1日はアルジェリア独立戦争の開始から70年です。自分が大学1年生の時に書いた仏文関係のレポートがアルジェリア独立戦争にかかわるものなので、この機に公開しようと思います。
 カミュの『異邦人』はフランス文学を代表する一冊であり、海外文学の中でもよく読まれている小説トップ10に入るのではないでしょうか。とても短かくて読みやすいですし、カミュ自身は新型コロナのパンデミックの際に『ペスト』が注目を集めたので、知っている人も多いと思います。
 しかし、カミュがアルジェリアに入植したフランス人の子孫であり、『異邦人』もまたフランス植民地支配下のアルジェリアを舞台にしているということに注目する人は少ないです。そして、『異邦人』というと、太陽の光に目がくらんで殺人を犯してしまったというストーリーが有名ですが、一方で殺されたアラブ人=アルジェリア人については、まったく注目されません。この小説は殺人という事件をめぐって展開するにもかかわらず、当の殺されたアルジェリア人は名前すら出てこず、最後までまったくスポットライトが当てられないのです! 
 『異邦人』には植民地主義の視点から批判的に読まれる余地があります。そうすることでタイトルの異邦人=L'Étranger(The stranger)の意味が明らかになるでしょう。そして、これらのことを踏まえて、殺されたアラブ人の側からこの作品を書き直したのが、カメル・ダーウドの『ムルソー再捜査』という作品です。本稿ではこの作品について論じます。
 最後に、アルジェリアの植民地支配をはじめとするヨーロッパの植民地主義・帝国主義は、ヨーロッパの黒歴史であり、見逃してはならないヨーロッパの一部です。ヨーロッパの国々が利益を得るために、植民地では数多くの人が殺され、生活や文化を奪われました。その歴史を風化させてはいけません。
 そして、現地人を野蛮人として非人間化し、自分達こそがその土地の主人だと厚顔無恥に主張したフランスからアルジェリアへの入植者――ピエ・ノワールーーの思想は、今日もイスラエルに生きています。ヨーロッパが生み出した植民地主義の暴力は決して過去のものではありませんし、そこからの解放を目指す闘いは今もこの地球上で起こっています。

 2013年、アクト・シュッド社と提携しているアルジェのバルザフ社から『ムルソー再捜査』(Meursault, contre-enquête)が出版された。作者はアルジェリアのジャーナリスト、カメル・ダーウドである。本書は2014年にはゴンクール賞の最終候補に残り、翌年にはゴンクール処女小説賞を受賞した。
  本書はアルベール・カミュ『異邦人』(1942)を下敷きにした作品であり、ムルソーに殺されたアラブ人の弟が『異邦人』の裏側を語るという設定である。本書のコンセプトは、「この物語は書き直さなきゃならないんだ。同じことばで、でも右から左にね」(ダーウド2019:17)の一節によく表れている。小説の元になっているのは、ダーウドの書いた「反ムルソー、あるいは二度殺された『アラブ人』」(ル・モンド紙、2010年3月10日)という記事で、この記事を読んだバルザフ社の人間がダーウドを誘って執筆させたという。2013年はカミュ生誕100周年であり、本書はカミュの代表作である『異邦人』を小説という媒体で新たに捉えなおす、記念碑的な作品でもある。
  ムルソー再捜査』は、『異邦人』で「アラビア人」としか表記されなかった殺されたアラブ人に「ムーサー」(モーセのアラビア語読み)という名前を与える。そして、そのムーサーには弟のハールーンがいたという設定を加え、そのハールーンがムーサー殺害の裏側を語るという体裁をとる。小説は終始、ハールーンの語りであり、聞き手はフランス人の若い大学教員である。2人がいるのはオランのバーで、聞き手のフランス人は、足しげくバーに通ってハールーンから話を聞いているようである。ムーサーが殺されたときに7歳だったハールーンは既に年老いている。ムーサーが殺されたのは70年前のことである。ハールーンはフランス人にムーサーがどのような人物だったか、ムーサーの死後どのようなことが起こったかを語る。同時に2人の母であるマーとどのような生活を送ったか、アルジェリア戦争で何が起きたかなども語る。ちなみに作中では『異邦人』はムルソー本人が書いたことになっており、ムルソーは生き延びたことになっている。
 『ムルソー再捜査』には反ムルソーと反アルジェリアの2面性がある。反ムルソーは言うまでもなく『異邦人』に対するポストコロニアル批評的な視点からの批判である。『異邦人』はムルソーが殺した「アラビア人」を抽象的に描く。「アラビア人」は他者として不気味な存在として描写され、常に受動的にまなざされる存在である。裁判では「アラビア人」を殺したことは問題にされない。ムルソー自身はママンの話ではじめて「自分が罪人だということを理解」し、検察らもムルソーが「重罪人の心」を持っていることを終始問題にする。『異邦人』において誰を殺したか自体は重要ではない。 
 『ムルソー再捜査』はこの点を批判し、被支配者の視点から『異邦人』を相対化しようとする。一方で、『ムルソー再捜査』は『異邦人』批判にとどまらず、アルジェリアをも批判する。本書の後半では、アルジェリア戦争のエピソードを通して、支配者-被支配者の立場が逆転したとき何が起きたのかが語られる。そこに、独立後のアルジェリアと独立前のフランスの同一性が示されるのである。本稿では、『ムルソー再捜査』の反ムルソー的側面と反アルジェリア的側面を明らかにし、この本の持つ意義を考えていきたい。

1.反ムルソー

1-1 二度殺されたムーサ―

 前述の通り、『異邦人』はムーサーの死を不可視化した。ハールーンは、ムーサーを「アラビア人」と名指すのはムーサーを殺すためだったと指摘する。人は名前を持っている人間を簡単に殺せないのである(ダーウド2019:76)。彼は「ああ神よ、一体どうやったら人を殺してその死に至るまで奪い尽くすなんてことができるのだろう? 銃弾を受けたのは僕の兄なんだ、あいつじゃない! ムーサーなんだ、ムルソーじゃない、違うかい?」と嘆いている(同上:13)。この存在と死を不可視化されることで2度殺されたムーサーを語りなおすのが本書の試みの一つである。

 君が犯罪捜査をする際には、本質的なことを摑まえておいて欲しいんだ。つまり、死んだのは誰なのか? その人は何者だったのか? ということだよ。君には僕の兄の名前をメモしておいて欲しい。彼こそが始めに殺されて、今もなおみなに殺され続けているのだから。

(ダーウド2019:23-24)

 ジュディス・バトラーは、社会の悲嘆が格差をともなって分配されている状態を悲嘆可能性(grievability)という言葉で説明している。この言葉を使えば、『ムルソー再捜査』は悲嘆可能性の偏在を告発した小説だとも言える。ハールーンは聞き手のことを「君」と呼び、ムルソーのことを「君の主人公」と呼ぶ。この「君」は、フランス人の若い大学教員だけでなく、読者(特に『異邦人』読んだ者)も包含していると考えられる。この作品は、「その生の喪失を嘆きうる集団」と「その喪失が悲嘆をもたらさない集団」に分別する、「君たち」の価値観の二重基準を前景化させる。
 『ムルソー再捜査』では、ムーサーの死体が見つからず、家族の下に死体は戻ってこなかったことになっている。アルジェリアの独立後、マーは遺族年金を貰おうとするが、ムーサーの存在と、ムーサーとの関係を証明するものがないために貰うことができなかった。事件の報道にはムーサーの名前が出ておらず、殺されたのがムーサーだと証明することができなかったのである。
 ムーサーはムルソー(カミュ)と、その読者によって殺され続けた。ハールーンがあるフランス人にムーサーのことを語ったことで、ムーサーは「自分の死と出生から半世紀経って、名前をひとつ持った」のである(同上:27)。

1-2 反ムルソーの表現形式

 本作は『異邦人』と同じく、一人称の口語的な語りで物語内の視点から書かれているが、表現・形式は大きく異なる。ロラン・バルトが理想的な文体(白いエクリチュール)として絶賛した『異邦人』は、全知の視点や、過度な心情内面の描写を抑制した文体である。それに対して『ムルソー捜査官』は最初から最後まで主観的で一方的な語りかけであり、ハールーンがあるフランス人に語りかけている体である。口語的な口調で、地の文・会話文といったものは存在しない。モノローグと違い、語りかける相手が存在する。話の流れは未整理で、時系列では進まず、実際の会話のようである。ハールーンの語りは何度も話が脱線し、そのたびに聞き手のフランス人に謝る。さらに、ハールーンは途中で嘘をついてもいる。

君は笑うかい? ふむ、それじゃあ君は分かったってことだな……そう、これはでたらめだよ。端から端までね。完璧すぎるシーンだ、僕がぜんぶでっちあげたんだよ。僕はもちろんメリエムに何も言わなかった。

(ダーウド2019:179)

 結局、ハールーンの話が真実かどうか確かめる術は聞き手にはない。ハールーンは自身を「自分の主張の証拠を一切持っていない呑んだくれ」と表現している(同上:181)。特に、フランス人の殺害とその後の話には、記述の食い違いが見られる。殺害したフランス人のことを知らないと言っておきながら、尋問の際には知っていることになっているのが一例である。この小説の最後に、ハールーンは次のように言っている。

 僕の物語は君の気に入ったかね? これが僕の君にあげられるすべてだ。取ろうが捨てようが、これが僕の言葉だ。僕はムーサーの弟であり、あるいは誰の兄弟でもない。君がノートを埋めるために出会ったのはただの虚言症患者だ…… 選ぶのは君だ、友よ。それは神の伝記のようなものだ。ハハ! だれも神に会ったことがなく、ムーサーにさえ会ったことはない。それで誰もその物語がほんとうなのか知らないんだ。(中略)どちらの物語が真なのか? 内的な問いだ。決断するのは君だ。〈エル・メルスール〉 ハハ。

(ダーウド2019:191)

 『異邦人』が徹底した客観的言葉づかいだったのに対して、『ムルソー捜査官』は極端に主観的である。語りは気まぐれで不安定であり、聞き手の信頼に足るものかはわからない。『ムルソー捜査官』は文体・語りのレベルでも反ムルソー、反『異邦人』なのである。
 一方で、ハールーンはアラビア語ではなくフランス語を話している。ムーサーの死後、マーはハールーンをムーサーの分身として、その手中に収めていた。ハールーンにムーサーの服を着せ、「厳しい輪廻転生の義務」を課した。その束縛が解けるのは、ハールーンがフランス人を殺し「復讐」を果たしてからである。彼はマーの手から逃れるために、新たな言語(ラング)を必要としていた。

僕はこのことばとは別のことばを学ぶ必要があった。生き延びるために。そしてそれは、いま僕が話していることばなのだ。推定十五歳、僕らがハッジュートに撤退した日から、僕は深刻で真剣な学生になった。書物と君の主人公のことばは、物事に別の名前をつけ、僕自身の言葉で世界を秩序づける可能性をようやく与えてくれたのだ。

 フランス語はハールーンを解放した存在であった。そして後日、皮肉にも『異邦人』が彼に真実と一種の解放を与えるのである。

反アルジェリア

2-1 ハールーン=ムルソーの構図

 ハールーンがフランス人を殺してから1年後にあたる1963年の春、ハールーンとマーの下にメリエムが訪れる。メリエムはアルジェ大学大学院の博士課程の学生だと考えられ、『異邦人』の研究で彼らの家にたどり着いたという。メリエムはハールーンと同じアラブ人だがハールーンと同じくフランス語を話す。彼女が『異邦人』を持ってきたことで、ハールーンははじめて『異邦人』の存在を知ることになる。作品内では、正確には、ムルソー『他者』となっている。ハールーンは一晩で『異邦人』を読む。そこには、ムーサーの名前という最も重要なものを除けば、全てのことが書かれていた。彼は「自分を侮辱されると同時に真実の姿を知らされた」と感じる(ダーウド2019:173)。
 それと同時に、ハールーンはもう一つのことに気付く。「僕はそこに兄の足跡を探し、そこに自分の見つけ(原文ママ)、自分がその殺人者とほとんど瓜二つであることを発見した」(同上:174)。ハールーンとその兄を殺したムルソーは瓜二つだというのである。
 『異邦人』の中で、ムルソーはカミュと同じくアルジェリアで生まれ育った白人という設定で、本土のフランス人でもアルジェリアのアラブ人でもない。ムルソーはその両者にとっての「エトランジェ」であり、フランスとアルジェリアのいずれからも疎外された人間であった。そして、ハールーンもまた、「コロン」(フランス人植民者)でも「ムジャーヒド」(アルジェリア戦争で戦った者)でもなかった。彼は、アルジェリア人であるにも関わらず、同じアルジェリア人から疎まれる「エトランジェ」であった。
 1962年7月5日、当時27歳だったハールーンはフランス人のジョゼフ・ラルケを殺害し、〈解放軍〉に捕まってしまう。これはアルジェリアの独立した日であり、支配者と被支配者が決定的に反転した日である。アルジェリアの独立に伴って、居場所を失ったラルケが彼らの家に逃げてきたところを、ハールーンは殺してしまう。しかし、尋問で問題になったのはフランス人殺害ではなく、独立戦争の際に「マキ」(≒ムシャーヒド)にならなかったことであった。将校は、戦争中であればフランス人を殺しても罪に問われなかったと指摘し、「そのフランス人だって、われわれとともに殺すべきだったんだ、今週じゃなくて戦争中にな!」と叫ぶ。他のアルジェリア人の成人男性のように独立戦争に参加せず、たった一人で遅れてフランス人を殺したことが、罪としてハールーンに問われたのである。これは、ムルソーが受けた裁判と同じ構造を持つ
 しかも、ハールーンはその男の素上について詳しく知らなかった。その「復讐」はフランス人であれば誰でも良かったのである。これは、ムルソーが顔も名前も知らない(書かれない)アラブ人を殺したのと同じである。殺害の場面には、『異邦人』の「アラブ人」殺害のシーンの描写が引用され、その同一性が強調される。『ムルソー再捜査』には、反ムルソーという主題と共に、ムルソーとハールーンの類似性という主題が織り込まれている。
ダーウドは『異邦人』のコロニアルな枠組みを切ると同時に、返す刀でアルジェリアをも切ってしまう。反ムルソーを打ち出すと同時に、ハールーンを疎外する独立戦争前後のアルジェリアも批判的に描き出すのである。
 ちなみに、フランス人の殺害とその後の経緯は『異邦人』と対になっている。ハールーンの殺人は2時に行われ、ムーサー殺害はその20年前の14時に行われた。ムーサー殺害が起きたのは炎天下であったが、ハールーンは「おかしなことに、僕は寒かった」と述べている。『異邦人』と同じく、ハールーンはフランス人殺害後、投獄・尋問される。部屋にはフランス人がいて、何をして投獄されたのかと問われると、ハールーンはフランス人を殺したと述べ、フランス人たちは黙ってしまう。これも、ムルソーが留置されていたときのエピソードと真逆である。
 ハールーンはマーと面会するが、このシーンも『異邦人』のムルソーとマリイの面会と対照的である。

 アラビア人は大声をあげない。この喧騒のなかでも、彼らは低く話し合って、しかも意思を通じ合うことができる。地面の方からはいあがってくる、アラビア人の鈍いつぶやきは、彼らの頭上で交差する話し声に対して、引きつづき、いわば一種の低音部をなしていた。

(カミュ1954:93)

 すべてが沈黙していた。静かすぎたといってもいい。おかげで僕は言葉が見つからなかった。何と言ってよいか分からなかったんだ。僕はずっと前からマーにほんの少ししかしゃべらないし、僕らはすぐそばにこんなに人がいて熱心に自分たちの話を聞くなんてことには慣れていなかった。
 『異邦人』では「アラビア人」の声が低く鈍い呟きの塊として描写された。対して『ムルソー再捜査』では、部屋の人全員が、2人の声に耳を澄ませている。

(ダーウド2019:139)

2-2 メリエムの意味

 メリエムはこの小説の中で最もリベラルな存在である。東部の中心都市であるコンスタンティーヌの出身だが、これは保守的で伝統的な街である。そこで保守的な家族からマリエムを解放したのは『異邦人』を含む書物であった。メリエムは「自由な女性」として語られる。ハールーンは「彼女は、今日この国から消えてしまった類いの女たちのひとりだった。自由で、勝ち誇り、不服従で、罪や恥ではなく才能として自分の肉体を生きている女 」と述べる(同上:179)。やがて、ハールーンはメリエムを愛するようになる。
ハールーンとメリエムを繋いだのは、フランス語と『異邦人』であった。ハールーンは『異邦人』を通して異性と接触したのである。そして、『異邦人』はハールーンに「真実」をもたらした。ハールーンをエトランジェとして疎外したアルジェリアの保守性を否定したのは、皮肉にもフランス語と『異邦人』だったのである。
 ハールーンがメリエムと出会ったのは1963年の3月のある月曜日である。ハールーンはこの日のことを次のように述べている。

国中が歓喜に沸いていたが、一種の恐怖が背後に広がっていた。というのも七年の戦争が育んだ獣が貪欲になり、大地の下に帰るのを拒んでいたからだ。勝利の戦争指導者たちのあいだでは、暗黙の権力闘争が猛威を振るっていた。

(ダーウド2019:163)

 この日はアルジェリアが独立後の歓喜に包まれた状態から、一種の新たな恐怖が広がる転換期にあった。それから時間が経たないうちにメリエムは立ち去ってしまう。
 メリエムはハールーンにとっての理想的な女性であり、同時にアルジェリアの理想像を象徴した存在だったと考えられる。「自由で、勝ち誇り、不服従で、罪や恥ではなく才能として自分の肉体を生きている」彼女は、今日アルジェリアで見られなくなってしまった類の女性である。現在、アルジェリアにいる女性はこのメリエムの真逆の属性を持っているのであり、メリエムは独立後飛び去ってしまった自由や個人といったものの象徴である。そして、ハールーンはメリエムが立ち去った後、「〈独立〉の熱狂が消費され、幻想が崩れるのを見た」(同上:183)のである。
 この小説からわかるように、ダーウドは「個人」や「自由」を重視しており、世俗主義とは対極にある社会状況を批判的に捉えている。ハールーンは聞き手に「君はよそで暮らしていて、神を信じない老人が耐えているものを理解できないのだ。モスクに行かず、天国を待たず、妻も息子もおらず、挑発のように自由を持ち歩く老人を。」(同上:186)と語りかける。また、彼は「まだ飲める時代のうちに飲みたまえよ。数年もすれば、それは沈黙と水になるのだから」と言っており(同上:61)、バーの数が減ってきていることがうかがえる。これはアルジェリア国内の保守化を示しており、彼らの語りあうバーは反保守化の最後の砦なのである。

おわりに
 本稿ではカメル・ダーウド『ムルソー再捜査』の反ムルソー的側面と反アルジェリア的側面を見てきた。この小説はカミュ『異邦人』を殺されたアラブ人という死角から書き直し、文体・語りのレベルでの反転を試みている。また、本書は『異邦人』批判にとどまらず、『異邦人』をなぞることによって、独立後のアルジェリア社会に対する鋭い批判を行っている。支配者-被支配者の関係の逆転したアルジェリア社会がいかに植民地時代のフランスと性格を同じくしていたか、独立後いかにして「自由」や「個人」といったものが飛び去ったかを描き出す。フランス語で書かれた本作は、作品内で「君」と名指される『異邦人』読者に向けられると同時に、保守化するアルジェリア社会を生きるアルジェリア人にも向けられているのである。

物語年表(ハールーン)

引用文献・参考文献
カメル・ダーウド『もうひとつの異邦人――ムルソー再捜査』、鵜戸聡訳、水声社、2019
カミュ『異邦人』、窪田啓作訳、新潮文庫、1954
小野正嗣「もうひとつの『異邦人』、植民地支配撃つ他者の語り――カメル・ダーウド著(読書)」、日本経済新聞朝刊、2019年4月13日
https://www.bunkamura.co.jp/bungaku/essays/tanoshimi/book8.html
「フランス文学の愉しみ No 8カミュの代表作をアラブ人の視点から捉え返す衝撃作」(2022年1月29日閲覧)
内田樹『寝ながら学べる構造主義』、文春新書、2002
三野博司『カミュ「異邦人」を読む――その謎と魅力』、彩流社、2002


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